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152. 偵察

カシアンは崩れ落ちた城壁の隙間、巨大な穴の開いたアチェラの北の境界を静かに通り抜けた。


山並みの向こうから太陽がゆっくりと昇り始めていたが、頬をかすめる風は依然として冷たかった。灰色の雲が埋め尽くす朝の空気は、鋭い刃のように肌を切り裂き、甲冑の下へと潜り込む冷気は骨の節々を蝕むかのようであった。周囲の山脈は重苦しい沈黙に沈んでおり、遠くから聞こえる鳥の声さえも、微かな残響として消えていくばかりだった。


彼は軽く顔を上げ、後ろに続く部下たちの様子を伺った。彼らの瞳には、暁の光とともに静かな闘志が燃え上がっていた。肩に掛けた外套が風にたなびく音と、盾と剣がぶつかり合う軽い金属音が、静寂の中に波紋を起こす。部下たちは一分の乱れもなく隊列を維持して進み、足が地を踏むたびに薄く土煙が舞い上がった。


「カシアン公、こちらです」


アチェラの偵察兵が、北門の西側にそびえ立つ山へと続く狭い獣道を指差した。道は凹凸の激しい岩と絡まり合った樹木の根に覆われ、馬一頭がようやく通り抜けられるほどに狭隘だった。


「ふむ、軍を機動させるにはいささか窮屈な通路だな。敵がこの道の存在を知っている可能性はないか?」


カシアンの声は低く、鋭かった。彼は周囲の地形を掃くように見渡し、敵の伏兵の可能性を脳裏に描いた。


「その可能性は低いでしょう。ここはアチェラの住人ですらほとんど知らぬ、秘められた横道ですので」


「商人が利用していると言っていなかったか?」


「左様です。この道を通れば、フェラドン(フェラドン)を迂回して北部高原の『禁じられた地』へと直行できます。時間を短縮できるだけでなく、人目を避けるのにも誂え向きなのです」


偵察兵の説明に、カシアンは眉をひそめて訝しげな気配を見せた。その眼差しには、好奇心と鋭い疑念が同時に過った。


「その『禁じられた地』に商人が行くというのか? 一体どのような用向きで」


「はい、その通りにございます」


「商人があえてそこまで赴く理由があるというのか? エフェリア戦争以降、荒野と化して人が足を踏み入れられぬ場所だと聞き及んでいるが。毒気を孕んだ風と乾いた土地が命を呑み込むという噂が絶えぬはずだ」


偵察兵は慣れた手つきで、しなやかに枝をかき分けて先導した。まるでこの道を数十回は往来した者のように、足元の石ころ一つまで正確に避けていく。


「確かに、北部高原の『禁じられた地』はエフェリア戦争以降、廃墟になったとされています。しかし、あの戦争で滅んだ国家の後裔たちが、未だに散り散りになって小さな村を成し、生きながらえているのです。世の視線の外側で、影のように潜み、耐え忍んでいるのですな」


カシアンの目に驚きが宿った。彼は歩みを止め、偵察兵を真っ直ぐに凝視した。


「あの過酷な環境に人が住んでいるというのか? 国家が消え去ったことは二の次としても、地そのものが生命を拒む場所だと聞いていた。果てなき寒気と不毛さゆえに、生存すら不可能な地獄ではなかったか?」


「過酷極まりない場所です。アチェラの人々ですらこの寒さに適応するのは一苦労ですが、あそこは比ではありません。ゆえに商人は、この危険な道を選ぶのです。直通の隠れ道を通じ、あそこの住人たちに必要な物資を密かに届けに行くわけですな。その対価として、希少な薬草や獣の皮、鉱物といったものを受け取り、生計を立てているようです」


偵察兵は、蛇のようにくねる道に沿ってカシアンを案内した。道の入り口には鬱蒼とした森が広がっていたが、山道を登るにつれて木々は目に見えて減っていき、やがて数本が寂しげに耐えているのみとなった。


その空隙を埋めたのは、肌を突き刺すかのように鋭くそびえる灰色の岩塊と石の群れだった。激しく吹き荒れる山風が煤けた埃を巻き上げ、遠くから聞こえる獣の咆哮が、不吉な予感をさらに駆り立てているようであった。


「『禁じられた地』はその名の通り、出入りが厳格に制限されている場所ではないのか? 法によって厳禁されているはずだが、商人がいかにしてそこを出入りするというのだ?」


カシアンは依然として疑念の混じった声で問うた。


「ははは、その通りにございます、カシアン公。ですが、生への執念というものを法ごときがどうして完全に阻めましょうか。そもそも北部高原地帯はその過酷な環境ゆえ、エフェリア戦争当時に国王軍ですら残党掃討に失敗した場所なのです。あのような峻厳な自然に兵力を注ぎ込み続けるわけにもいかず、次善の策として出入りを封鎖してしまったのですよ」


偵察兵の笑い声が山風に乗り、虚空へと散っていった。彼はカシアンが知り得なかった歴史の裏側を、何ら悪びれることもなく、飄々とした口調で語り聞かせた。


「そんなことがあったのか……。なぜ、このような事実を誰も私に教えなかったのだ?」


カシアンの声に当惑が滲んだ。彼は歩みを緩めることなく、偵察兵の横顔をじっと見つめる。


「口にするのも憚られる事情があったからでしょうな。エフェリア王家は大陸統一という偉業を掲げ、大義名分を立てねばなりませんでしたから。敗北者たちの残滓を完全に消し去ったと宣言してこそ、彼らの権威は揺るぎないものとなる。そうでなくては、諸々の自由都市や群小勢力を屈服させるのも難しかったはずです」


いつの間にか周囲から木々は完全に姿を消し、荒涼とした岩山だけが視界を埋め尽くしていた。道は曲がりくねりながら続き、時折、一人がようやく通り抜けられるほどの狭い隙間が顔を出した。冷たい空気が岩の裂け目を吹き抜け、奇怪な音を立てる。遠くで石が転がり落ちる音が不吉さを助長していた。


「カシアン公、足元にご注意を。この区間は岩が崩れやすくなっております」


先導しながら警告を発する偵察兵の足取りには、山道に精通した者特有の安定感が漂っていた。


「確かにこの通路は、馬一頭がやっと通れるほどに狭いな。敵がこの経路を大規模に利用する可能性は極めて低いように見えるが」


カシアンは慎重に足を踏み出しながらも、周囲を警戒する鋭い視線を解かなかった。その手はいつでも剣を抜けるよう、自然と腰の柄に添えられている。


「ではお前の言葉を信じるなら、戦争後も『禁じられた地』には部族が残り、北部の三国は彼らと隠密に交易を続けてきたというのか?」


「ええ、その通りです。アチェラがこのような惨状となった今、もはや隠し立てする必要もないでしょう」


「だが、それは王命に背く明白な反逆行為ではないか……」


カシアンの言葉に、偵察兵は首を横に振って応じた。


「カシアン公、北部の三国のさらに北に、いくつかの小国が存在していた事実はご存じでしょう?」


「もちろんだ。それらすべてが、エフェリア陛下の軍勢の前に膝を屈したと聞いている」


「左様です。ですが血縁や絆というものは、国境線のように刃で断ち切れるものではございません。私にしても、従兄弟がフェラドンに住んでおりました。今となっては、生きているかどうかすら知る術もありませんがね」


その言葉に、カシアンの眉が僅かに跳ね上がった。


「その話は……」


「ええ、その通りです。『禁じられた地』には北部三国の住民の親類縁者が少なからず住んでおります。王命がいかに厳重であろうとも、天倫の情をどうして一息に断てましょうか?」


偵察兵の説明に、カシアンはしばし沈黙に沈んだ。彼の心の中に複雑な感情が去来する。


「現在、『禁じられた地』には国家と呼べるような組織的な勢力は残っていないはずです。私も直接行ったわけではないので、断言はできませんが。ともあれ、通行が禁じられたせいで公式な貿易路は開かれず、その隙を突いて秘密の商人が現れたのです。彼らは穀物や道具、狩猟装備を運び込み、その代価として毛皮や希少な鉱物を受け取っているようです」


「だが、今回北から押し寄せてきた連中を見るに、その残党たちが単に静かに過ごしてきただけとは思えぬな」


カシアンの声に、鋭い洞察が宿った。


「カシアン公、彼らの一部は確かに旧王国の末裔でしょうが、主力部隊の連中はどこか別の場所から流れ着いた奴らのようです。旧王国の民は、大抵が雪のように白い肌と明るい金髪を持っております。ですが、今回の侵略者たちは容姿からして違いました。より粗野で、何やら異質な気配が漂っていたのです」


「ふむ……それは初耳の情報だな」


険しく切り立った狭い道の上を、冷たい風がさらに激しく吹き荒れた。彼らはいつしか、アチェラ北西に位置する山の絶壁の端へと辿り着こうとしていた。


カシアンが稜線の最後の一段を踏み越えた瞬間、遮られていた視界が一気に開けた。眼下に広がる平原が霧のように霞む中、クラヴェントゥス(クラヴェントゥス)騎士団の本陣が、黒い波濤のようにうねりながらその姿を現した。その光景は圧倒的な威圧感を放ち、軍勢の喧騒が風に乗って山頂まで届けられた。


偵찰兵が素早く身を伏せると、カシアンもその合図を察して直ちに険しい岩の背後へと身を隠した。


「カシアン公、こちらへ。目ざとい奴がいれば、ここからでも我らを捉えかねません。慎重に動いてください」


偵察兵の低い囁きには、幾多の修羅場を潜り抜けてきた老練さが滲んでいた。カシアンは軽く頷き、絶壁の縁へとさらに一歩踏み出した。足元には果てしない奈落が口を開け、冷気を吸い込んでいる。荒々しい山風に髪を乱されながらも、カ시アンの視線は遠く敵陣の動きを追い、鋭く光った。


「よし、一つ詳しく覗いてみるとしようか」


偵察兵は懐から手のひらほどの銅製の望遠鏡を取り出し、敵陣をさっと一瞥した後、カシアンに差し出した。


「これをお使いください。こいつがあれば、あんな遠くにいる奴らの口髭の一本一本まで数えられるはずです」


カシアンが望遠경を受け取り片目をレンズに当てると、先ほどまで微かにしか見えなかったクラヴェントゥス騎士団の幕舎が、一瞬にして鼻先まで迫ったかのように鮮明に広がった。望遠鏡越しに露わになった敵の威勢は、圧倒的なものであった。


山あいの谷間からフェラドンまで続く曲がりくねった道、その中心を囲む広大な稜線の上に、クラヴェントゥス部隊が巨大な猛獣のごとく蹲っていた。勇ましい馬の嘶きと鉄器のぶつかり合う音が、この遠き地まで木霊してくるかのような幻聴すら覚えるほどだ。


数多の幕舎が隙間なく並び、各部隊の象徴が刻まれた黒い旗が風に激しくたなびいている。果てなき海のように続く天幕の尖った屋根は、天を衝く槍の穂先のようにも見え、周囲の鋭い岩峰に劣らぬ威圧感を放っていた。中央の巨大な幕舎は指揮本部らしく、その周囲を小さな天幕が幾重にも取り囲み、一つの鉄壁の城塞を築き上げていた。


幕舎の間を、黒い甲冑を纏った兵士たちが忙しなく行き交う姿が捉えられた。一目瞭然に整然と動く彼らの足取りには、厳格な訓練の跡が刻まれており、埃と汗の匂いがここまで漂ってくるような錯각さえ呼び起こした。


「あの幕舎の数……奴らの規模は尋常ではないな」


敵陣을 샅샅이 훑던 カシアン(カシアン)が低く呟いた。その声には警戒心よりも、むしろ戦闘を目前にした興奮が混じっているようだった。


稜線の一角には待機中の馬たちが列をなしており、風になびくたてがみは、まるで黒い雲の塊のように見えた。数百頭もの馬が尾を振りながら佇むその場所は、埃と草の匂いが混じり合った霧で満たされているに違いない。騎士たちは鞍の上に赤い布を被せ、蹄の点検や手綱の手入れに余念がなかった。


「馬の数を見るに、騎兵隊だけでも少なくとも数百騎はいるな。アチェラとベセテロンでかき集めた戦力をすべて合わせても、あの規模には及ぶまい」


カシアンの言葉に、偵察兵が同意するように頷いた。


「予想を遥かに上回る規模です。連中、本気で準備を整えてきたようですね」


「兵の数だけでも、ざっと数千は下らぬだろう。幕舎は数百を超え、兵力が谷を埋め尽くすほど密集している」


カシアンは望遠鏡を下ろし、後に続く部下たちを振り返った。その口元に浮かんだ笑みは、挑戦の熱に燃え上がる火花のようだった。部下の一人が、僅かに不安げな瞳で問いかける。


「数千だと……。カシアン公、我らで本当にあの大軍を食い止められるのでしょうか?」


緊張を隠せない兵士の問いに、カシアンは肩を軽くすくめ、余裕のある口調で返した。


「防ぐさ。いや、単に防ぐだけで終わらせるつもりはない。すべて粉々に打ち砕いてやる。撃退程度で満足してどうする」


偵察兵はカシアンから返された望遠鏡を再び受け取り、絶壁の縁へと近寄った。レンズを通じ、敵陣の細かな動きを改めて捉える。


「あそこの指揮幕舎の横に、特異な騎士の一団が集まっています。鎧が一段と華美で、黒い外套を羽織っているところを見ると、指揮官クラスのようですね」


「おそらく、以前に剣を交えた奴らも混じっているだろうな。そして例の『鳥』のような姿をした者もいるはずだ。敵の規模はこれで把握できた」


「では、アチェラに戻られますか?」


「その前に、地形をより詳しく目に焼き付けておきたい。先ほどお前が言っていた、『禁じられた地』へと続く道はどのあたりだ?」


偵察兵が西北の方角を指差して答えた。


「ここを少し下れば、絶壁の上に橋のように続く狭い崖道に出ます。そこを渡り、山道を真っ直ぐに進めば直結しております。ですが、風が強く、一歩足を踏み外せばそれでおしまいの険路にございます」



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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