143. 絆
山の端を越えた太陽が、いつの間にか中天へと昇り始めていた。
イヒョンは、日差しに影を短くしていくバセテロンの石畳に沿って、重い足取りで歩を進めた。頭上の空は恨めしいほどに澄み渡り、白い羽根のような雲が細やかに散りばめられている。
長い歳月に磨かれ、艶を帯びた街路の石畳は、雪解け水に濡れて周囲の景色を鏡のように映し出していた。時折、傍らを通り過ぎる馬車の車輪が石を削る音が、イヒョンの乱れた心をさらにかき乱すようだった。
セイラの宣言通り、午後の比較解剖学の講義は中止となった。行き場を失ったイヒョンは、致し方なく自宅へと向かっていた。
セイラの赤らんだ顔が、何度も目の裏に焼き付いて離れない。
ある程度は寂しがるだろうとは予想していたし、十分に説明すれば納得してくれると信じていた。だが、実際に直面した彼女の反応は、予想を遥かに超える激しさだった。
彼女の冷ややかな視線、白く強張った指先、そして背後に残された重苦しい沈黙。そのすべての残像が棘のように刺さり、胸の奥を疼かせた。
「……一体、どうしてあそこまで怒りを。俺の説明が悪かったのだろうか」
イヒョンは心の中で呟き、首を振った。
家へ向かう道は、目をつぶっていても辿り着けるほど馴染み深いものだった。だが今日に限っては、目的地に近づくほどにその親しみやすさが、むしろ重い足枷となって足首を絡め取ってくる。
今、家にはリセラとエレンがいるはずだ。そして今度は、彼女たちにもこの残酷な通告を伝えなければならない。
朝までは「仕方のないことだ」と軽く考えていた思いが、セイラの激昂を目の当たりにした今、巨大な岩となって心を押し潰し始めていた。
彼女たちの反応が、怖かった。
いつの間にか到着した家の前。イヒョンにとって常に安らぎの場であったそこが、今日ばかりは嵐の前の静けさを孕んだ要塞のように感じられた。肩にのしかかる緊張感に、思わず生唾を飲み込む。
イヒョンは扉の前で深く息を吸い込み、慎重に取っ手を回した。
扉が開くと、穏やかで温かな空気がふわりと漂い、彼の冷えた頬を包み込んだ。
家の中は、いつも通り平和だった。決して大きくはないが、四人が過ごすには十分なこの二階建ての屋敷は、エッセンビア伯爵がイヒョン一行を気遣って用意してくれた、大切な安らぎの拠点であった。
リセラはリビングの窓辺に座り、本を広げていた。午後の陽光が彼女の茶褐色の髪に降り注ぎ、柔らかな金の輪のように輝いている。その膝の上ではエレンが心地よさそうに横たわり、小さな手でページをめくっていた。
その光景は、イヒョンの胸を締め付けるほどに平和な絵画のようだった。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
人の気配に顔を上げたリセラが、不思議そうに瞬きをした。
「今日はスコラで遅くまで予定があるって言っていなかったかしら?」
エレンも母親の膝から身を起こし、イヒョンを見上げた。
「おじさん! 今日、どうしてこんなに早いの? セイラお姉ちゃんは? 一緒じゃないの?」
イヒョンは努めて平然を装い、扉を閉めて外灯を壁に掛けた。だが、彼の背中からは重苦しい空気がついて回っていた。
「セイラは……今日、少し用事があってね。俺だけ先に帰ってきたんだ」
彼の声はいつもより乾き、低く沈んでいた。イヒョンは食卓へと歩み寄り、椅子を引いて腰を下ろしたが、視線はリセラとエレンを避け、窓の外の虚空を彷徨わせていた。
ほんの数言交わしただけで、リセラは直感した。何かが、決定的に違っている。
彼女は読んでいた本を閉じ、エレンを抱き上げると、優しく床に降ろした。
「エレン、お部屋に行って、次に読む本を選んできてくれる? 一番面白そうなのを見つけてきたら、お母さんがすぐに読んであげるから」
「うん! わかった!」
エレンが二階へと続く階段をトコトコと駆け上がっていくと、リビングには重い静寂だけが残された。
リセラは静かに席を立ち、イヒョンの向かい側に椅子を引いて座った。
「イヒョン」
彼女の穏やかな声が沈黙を破る。
「何かあったのでしょう? いつもの貴方とは顔つきが違うわ」
リセラの眼差しが、イヒョンの強張った表情を細かく観察する。彼女は卓の上に置かれたイヒョンの手の上に、自分の手をそっと重ねた。温かな熱が、冷え切った彼の肌へと伝わっていく。
「私に隠し事はしなくていいのよ。話してみて」
イヒョンは窓の外の街並みに向けていた視線を戻し、ゆっくりと彼女と向き合った。心配そうに見つめる彼女の澄んだ瞳を、これ以上逸らし続けることはできなかった。
イヒョンはしばし俯いた後、意を決したように顔を上げ、彼女の目を見つめた。
「リセラ。俺……ここを離れなければならなくなった」
リセラは何も言わず、彼の瞳の奥をじっと見つめた。彼女が怒ったり驚いたりするよりも、この静かな沈黙の方が、かえって重く彼の肩にのしかかった。
「事前に話しておくべきだったのに……すまない。俺一人で、あまりに急に決めてしまった」
「離れる? 急に? 理由を聞いてもいいかしら?」
『おや……?』
予想に反して落ち着いたリセラの口調に、イヒョンは少し戸惑いを感じた。彼は生唾を飲み込み、口を開いた。
「少し前、伯爵に呼ばれて登城したのを覚えているだろう?」
「ええ、覚えているわ。理由もわからず呼ばれたんですものね」
「ああ。その後にすぐ切り出せなかったのは……伯爵の話が、思ったより複雑だったからなんだ」
「どんな内容だったの?」
「伯爵が伝えてくれたのは、以前俺が頼んでいた冒険者ギルドの昇級に関する回答だった」
イヒョンは伯爵から聞いた試験の内容と条件を、包み隠さず説明した。特に、『単独で遂行しなければならない課題』であることを強調して。
イヒョンの説明を聞くリセラの表情が、次第に強張っていく。
『いよいよ、来るか……』
イヒョンは彼女の顔に影が差すのを見て、心を決めた。セイラと同じように、怒りや寂しさをぶつけられるだろうと覚悟したのだ。
窓辺から差し込む午後の陽光が卓上の本に長い影を落とし、家の中を支配する静寂が、濃い霧のように立ち昇っていた。
「つまり……冒険者ギルドで二級を認めてもらうためには、カレオストラまでのあの遠い道のりを、お一人で行かなければならないということ?」
「あ……ああ、そうだ。条件がそうなっているらしくてね」
イヒョンはきまり悪そうに後頭部をかきながら答えた。
「じゃあ、私やセイラ、エレンは? 私たちはどうなるの?」
リセラの声は相変わらず穏やかだったが、そこに宿る現実的な不安が、イヒョンの胸を締め付けた。
「すまない。俺が先走りすぎたよ。もっと早く君と相談すべきだったのに……セイラに対してもそうだ。ただ、試験の条件となれば選択の余地はないと考えてしまって。相談するような事柄ではないと思ってしまったんだ」
「イヒョン、それは勘違いよ。これは事前に相談したかどうかの問題ではないわ」
「え?」
リセラは組んだ手を静かに卓上に置いた。彼女の瞳は揺らぐことなく、イヒョンをまっすぐに見つめていた。
「イヒョン。私たちが共に旅を始めてから、もう半年ほどになるかしら?」
「それくらい、だろうな」
「生きていれば、状況によって一人で行かなければならない時もあれば、共に進む道を模索しなければならない時もある。私たちの意思とは関係なく、世界がそう仕向けることもあるのだから。それに、その試験が一人で行くことが条件で、それが貴方にどうしても必要なことだというのなら、当然行くべきよ」
リセラは静かな眼差しでイヒョンを見つめ、言葉を継いだ。
「けれど、さっきも言った通り、私が言いたいのは『貴方が私たちに許可を求めるべきだった』ということではないの」
リセラはイヒョンの目を真っ向から射抜いていた。驚いたことに、彼女の視線にはセイラが見せたような寂しさや恨みの色は微塵も感じられなかった。ただ深い信頼と、すべてを見通すような洞察だけが込められていた。
「俺はただ……事実をありのまま論理的に話せば、君もセイラも理解してくれると信じていたんだ。なのに、さっきセイラに切り出した途단、火がついたように怒り出してね」
「そうでしょうね。当然の反応だわ」
「なら、一体どう言えばよかったんだ? 相談や議論が不可能な『確定事項』を伝えるのに、別の方法があるというのか? 俺にはどうしても分からないんだ」
イヒョンのもどかしさが混じった吐露に、リセラは薄く微笑み、小さく溜息をついた。
「さあ。私にもその『方法』をはっきり教えることはできないわ。私だって頭で計算してやっているわけではないもの。誰かに教えられるような技術ではないのよ」
リセラの落ち着いた態度にイヒョンは少し安堵を覚えたが、胸に突き刺さったセイラの冷ややかな眼差しは、今も重く彼を圧迫していた。彼は罪悪感の入り混じった複雑な心境から、リセラの目を直視できず、視線を横へと逸らした。
「俺はただ……その試験を受けるために、一人でカレオストラへ行かなければならないという事実にばかり囚われていた。たとえ規定が許したとしても、あの過酷な旅路に君たちを巻き込むのは無理だと判断したんだ。そんな合理的な事情を説明すれば納得してくれると信じて……すまない。俺が、君たちの気持ちを汲み取れていなかった」
「イヒョン、以前私が言ったことを覚えているかしら?」
イヒョンは顔を上げてしばし彼女を見つめたが、再び視線を落とした。
「……何のことだ?」
「現実的な判断、それは大切よ。貴方の言う通りだわ。それを分からない人はいない。けれど、貴方はあまりにもそちらだけに没頭しすぎている」
リセラの声が、柔らかく、それでいて断固として食い込んできた。
「さっきも言った通り、事前に相談しなかったという『手続き』が核心ではないのよ。貴方が私やエレン、そしてセイラをどう定義しているかという問題だわ。つまり、私たちをどういう存在として認識しているかが重要なの」
イヒョンは言葉に詰まった。正確に言えば、どう答えるべきか見当もつかず、口を開くことができなかった。
今に至るまで、彼は彼女たちとの絆について深く考えたことはなかった。
リセラとは、偶然にも人狩りの牢獄で出会い脱出した同伴者。セイラは、自分の旅に無理やり割り込んできた、お荷物ではあるが突き放せない少女。
そう定義していたのかもしれない。しかし、長い時間を共に過ごす中で、彼女たちとの結びつきが本質的に変わっていたという事実に、イヒョンの理性は追いつけずにいた。
リセラに対して特別な感情が芽生え始めているのは、否定できない真実だった。今、彼女に事前に相談しなかった自分の計画を打ち明けることを、これほどまでに苦しく、後ろめたく感じている心がその証拠だ。
セイラが水に溺れ、生死の境を彷徨った時に胸の奥から突き上げてきた、あの絶望的な悲しみも同じだ。
エレンも例外ではなかった。いつからか娘のハリンと重なって見えた子供。危機の瞬間、理性よりも先に体が反応して守ろうとした小さな命。
そして、エフェリアで自分の知識を最も多く受け継いだ弟子であり、命の恩人でもあるセイラ。
だが、イヒョンは一度として彼女たちとの縁を『家族』や『運命』といった言葉で真剣に振り返ったことはなかった。
彼の頭の中は、最初に抱いた目標——『生存』と『地球への帰還』という巨大な課題だけで埋め尽くされていたのだ。周囲の景色を見ることなく前だけを向いて走る、競走馬のように。
「君とエレン……セイラ……。俺たちの間の、絆のことか」
「ええ、絆よ」
リセラは手を伸ばし、卓上に置かれたイヒョンの手をぎゅっと握りしめた。彼女の温かな体温が、イヒョンの冷えた手の甲へと染み込んでいく。
「イヒョン。もっとじっくりと考えてみて。貴方が嘘をつけない人だということも、不器用だけれど誰よりも正直な性格だということも、私はよく分かっているわ」
イヒョンは再び顔を上げ、リセラの目を見つめた。
彼女の澄んだ瞳が、自分の複雑な内面をすべて見透かしているようで、一瞬、羞恥心が込み上げた。顔が熱くなる。大人の皮を被ってはいるが、中身は未だ未熟な子供になった気分だった。
どんな行動をしても、何を考えていても、母親にすぐに見破られてしまう幼子のように。
「ああ……理解したよ。理屈では分かった。だが……今は何と言えばいいのか、言葉が出てこないんだ、リセラ」
イヒョンは長く息を吐き、付け加えた。
「君やエレンを軽んじているわけでは決してない。ただ……自分に何が足りないのか、何が間違っていたのか、自分自身を振り返る時間が必要なようだ」
イヒョンはリセラが握っていた手をそっと解き、席を立った。
「イヒョン、私は貴方を信じているわ」
背後から聞こえてくるリセラの信頼に満ちた声に、イヒョンの足がわずかに止まった。彼は依然として温かな眼差しで自分を見守っているであろう彼女を背にしたまま、自分の部屋へと歩を進めた。
「ありがとう、リセラ。本当に」
扉の前で低く呟くと、彼は部屋に入り扉を閉めた。
カチャリ。
扉が閉まり、一人残された瞬間、胸の奥深くから湧き上がる過去の後悔が、彼をいっそう重く押し潰した。
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