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142. 葛藤

しばらくして、講義の片付けを終えたセイラが、教室の入り口に立っているイヒョンを見つけると、ぱっと顔を輝かせた。


「あら! ルメンティア! こんな時間にどうされたんですか?」


「港の方へ行った帰り道、少し時間が空いたから寄ってみたんだ」


「いつもは分刻みで動いていらっしゃる方が、そんなに余裕を見せるなんて。ルメンティアらしくないですね。本当に時間が余ったから来たんですか? それとも、私に会いたくてわざわざ寄ってくださったのかしら? ふふっ」


セイラが悪戯っぽく瞬きをした瞬間、教室の中で本を整理していたセルバンがようやくイヒョンに気づき、慌てて駆け寄って深く頭を下げた。


「マイスター。こんにちは」


「おお、セルバンか。どうだ? 勉強の方は順調か?」


「はい……。まだ用語が耳慣れず複雑ですが、精一杯ついていけるよう励んでおります」


「そうか、感心だな。午後の実習の時も、その情熱を忘れないように」


「肝に銘じます、マイスター」


セルバンはもう一度、腰を九十度に曲げて礼を示すと、二人の邪魔にならないよう慎重な足取りでその場を後にした。


遠ざかるセルバンの後ろ姿を微笑ましく見守っていたセイラが、イヒョンに向かって言った。


「あの子、本当に変わりましたよね」


「人は時として、たった一度のきっかけで生まれ変わるものだからな」


「覚えていますか? 月光の庭園でセルバンのおじい様を救われた、あの夜のことです」


「当然、覚えているよ」


「ルメンティアが諦めずに命を救い出す姿を見て、あの子は深く感銘を受けたみたいです」


「どうかな。俺の活躍より、火傷で倒れた俺を君が奇跡のように助け出したことの方が、大きな衝撃だったんじゃないか?」


「何にせよ、あの出来事があの子を医学の道へと導く火種になったのは確かですよ。口数は少なくとも、その瞳からは熱意がひしひしと伝わってきますもの」


イヒョンはしばし、平和な教室の風景を目に焼き付けると、真剣な表情でセイラと向き合った。


「セイラ、少し時間をくれないか? 大事な話があるんだ」


セイラはイヒョンの瞳に宿る、いつもとは違う重みを感じ取ったのだろう。悪戯っぽさを引っ込め、静かに頷いた。


「もちろんです。上の階に私の研究室がありますから、そちらへ行きましょう」


二人は並んでスコラの階段を上っていった。


窓の隙間から染み込む晩冬の風が、廊下のランプの炎をわずかに揺らす。壁に映る二人の影も、それに合わせてゆらゆらと長く伸びていた。


階段を上がるにつれ、空気の密度が変わっていく。鼻先をツンと突く乾いた薬材とハーブの香りが、淡い霧のように肺の奥深くまで染み渡った。


扉の前に立ったセイラが真鍮の取っ手を回すと、『ギィ』という金属音と共に重厚な木製の扉が内側へと押し開かれた。


「私の個人研究室に入られるのは、初めてですよね? 少し散らかっていますけど、どうぞ」


扉の隙間から溢れ出した琥珀色の夕日が、空気中の埃を金粉のように輝かせている。


部屋の中は、まさに研究者の城だった。机の上には得体の知れない医学書が、今にも崩れそうな城壁のように積み上がり、その隙間から青白い光を湛えたガラス瓶が夕光を反射して、宝石のように煌めいていた。


イヒョンはその光景に、妙な既視感を覚えた。乱れた寝具、壁に逆さまに吊るされ、カサカサに乾いたハーブの束。そして、どこか混沌とした机。


先ほど見てきたエリセンドの作業場と似ているのだ。彼は口元に小さな笑みを浮かべ、密かに思った。


『研究者のインスピレーションというのは、いつもこうした無秩序の中から芽吹くものなのだろうか』


セイラが窓辺に寄り、カーテンを完全に開け放つと、部屋全体が温かな金色に染まった。


「お茶を淹れましょうか?」


「ああ、頼む」


セイラは慣れた手つきで、暖炉の上の三脚にケトルを乗せた。


「去年の冬は、お互い本当に目まぐるしい日々でしたよね。生まれてから、あんなに息つく暇もない毎日は初めてでした」


「そうだな。嵐のような時間だった」


イヒョンが古びてはいるが座り心地の良さそうな椅子に身を預けると、炎の上で水が静かに沸き立つ音が室内に響き始めた。彼女がティンケースの蓋を開けた瞬間、爽やかで奥深い香りが一気に広がる。


「ルメンティア、このお茶は私が自分で調合したハーブティーなんです。レンさんのノートにあったレシピを参考にして作ってみました。一口飲めば、一日の疲れが魔法みたいに解けていきますよ」


セイラが沸騰したお湯をティーポットに慎重に注ぐと、鼻をくすぐっていたハーブの香りが、まるで庭園の蕾が一斉に開花したかのように、四方へと芳醇に立ち昇った。


イヒョンはセイラが差し出した温かい茶碗を受け取り、一口含んだ。温もりが食道を通り抜け、心の奥底に固まっていた緊張までも解きほぐしてくれるようだった。


ティーカップを置くカチャリという音が静まると、セイラが向かい側に腰を下ろし、穏やかに問いかけた。彼女の瞳は、窓の外の夕焼けに似て深く、そして澄んでいた。


「それで……お話しというのは、何だったんですか?」


「数日前、エッセンビア伯爵に呼ばれてね」


イヒョンはティーカップを置き、余裕のある淡々とした口調で切り出した。


「どのようなご用件だったのでしょう?」


好奇心に満ちたセイラの視線が、イヒョンの顔に注がれる。彼女の白い指先が無意識にカップの縁を弄んだ。


「以前、俺が頼んでいた冒険者ランクの昇級に関する話だよ」


「あ、ついに許可が下りたのですね!」


彼女の瞳が、春風に舞う花びらのように期待で輝き始めた。


「それが……二級冒険者の資格というのは、審査がかなり厳重なようでね」


イヒョンはもう一口茶を口に含み、言葉を続けた。その声には微かな溜息が混じり、風に舞う落葉のように力なく消えていった。


「厳重って……。ルメンティアのように素晴らしい実績を積まれた方でも、さらなる証明が必要なのですか?」


セイラが小首をかしげて尋ねる。その声に宿る純粋な疑問は、湖に落ちた水滴のように澄み渡っていた。


「冒険者ギルド本部から『試験を受ける資格』を与えると言われてね」


「試験を受ける資格、ですか?」


「詳しいことは俺も行ってみないと分からない。聞くところによると、第一の関門は王都カレオストラの本部まで辿り着くことらしい。そこに到着すればまた別の課題が与えられ、それを解決して初めて二級として認められる……という仕組みだ」


「わあ……。そんな遠い道のりを。本当に凄いですね」


セイラの口元に淡い微笑みが浮かんだ。彼女は当然、その旅路に自分も含まれていると疑っていない様子だった。


「それだけ二級の威信が大きいということだろうな。これほど厄介だと分かっていれば、いっそ黙っていればよかった。余計な提案をしてしまったかと思わなくもないよ」


イヒョンが肩をすくめて冗談めかして笑うと、セイラは早くも旅の準備を頭の中で描き始めているようだった。


「では、いつ出発されるのですか? 私も荷物をまとめたり、準備が必要ですから。リセラお姉様にもお伝えしないといけませんね」


イヒョンはしばし、カップの中で揺れる水面を凝視していたが、意を決したように口を開いた。


「それが……今回は無理そうなんだ。王都までは俺一人で行かなければならない。冒険者としての基本資質を試すものだから、仲間の助けを借りれば失格だそうだ」


カチャッ!


その瞬間、セイラがカップをソーサーに置く音が鋭く響き渡った。部屋の空気が一瞬にして重く沈み込み、窓の隙間から吹き込んだ風がカーテンを荒々しく揺らした。


セイラの瞳が大きく揺れた。


「……お一人で、ですか? あの遠い道のりを?」


まるで星の光が消え入るかのように期待が消え去り、その跡には深い困惑が込み上げてきた。


「それは……あまりにも危険ではありませんか? ルメンティア、本当にお一人で行かなければならないのですか?」


セイラの言葉が矢継ぎ早に続く。彼女の視線には保護本能のようなものが滲み、険しい世界へ我が子を送り出す母親のような、切実な危惧が宿っていた。


「ルメンティア、そんなの絶対にダメです! 王都までのあの長い道のりを……その危険を分かっていて、どうしてお一人で行こうなんておっしゃるんですか!」


セイラの叫びが部屋の中に響き渡った。彼女の瞳は、嵐の吹き荒れる海のように激しく揺れ動いている。


「お願いです、そんな無謀な計画はやめてください。どうしても行かれるというのなら、私が同行します。それが無理なら、せめて腕の立つ用心棒でも雇って……」


「険しい旅路だからこそ、『試験』と呼ばれているんじゃないかな」


イヒョンの答えは冷静だった。相変わらず平穏な口調ではあったが、その奥に秘められた強固な決意がセイラの言葉を遮った。


「一人で、ただ己の力のみで辿り着かなければならないという条件がついているんだ。同行は認められない」


ガタッ!


セイラが勢いよく椅子を蹴って立ち上がった。彼女は卓に両手をついて身を乗り出し、イヒョンを真っ向から見据えた。


「ルメンティア! 今は意地を張っている場合ではありません! 護衛もなしに、どうやってあの長い旅路を乗り切るつもりですか? お願いですから、そんな危険な賭けはやめてください!」


セイラの声が高くなるほどに、部屋の空気は重く沈んでいった。彼女はイヒョンの顔を射抜くように睨みつけていたが、その目元にはすでに涙が滲み始めている。


「俺が行かなければならないんだ、セイラ。二級ルミナールになるためには……それが唯一の道なんだよ」


「……っ!」


彼女は唇をぎゅっと噛み締めた。頬に差した赤みが、窓の外の夕陽を受けていっそう鮮烈に燃え上がる。


イヒョンは、セイラの揺れる瞳を直視することができなかった。その視線に含まれた恨みと心配が、彼の心を重く締め付けたからだ。


「君の心配も分かっている。だが、これは俺一人が背負うべき試練なんだ」


「心配……ですって? ルメンティアがお一人でカレオストラまで旅立つと聞いて、私がここで『ああ、そうですか。気をつけて』なんて、のん気に座っていられると思っているんですか!?」


卓を握りしめる彼女の指の関節が、白く強張っている。


「それなら……ルメンティア一人を信じて、このバセテロンまでついてきた私はどうなるんですか? リセラお姉様はどうなるんですか!? 私たちを……ただここに捨てて行こうというのですか?」


鋭い叫びが硬い壁にぶつかり、粉々に砕け散った。セイラの声が通り過ぎた後には、冷ややかな沈黙だけが降り積もった。


イヒョンは唇を固く結んだ。弁明を探そうとする喉の奥が、砂を飲み込んだようにざらついている。


胸の奥が、疼くように痛んだ。彼女の言葉は、何一つ間違っていなかったからだ。


もともとの計画では、リセラとエレンを安全なラティベルナへ送り届けた後、信頼できる仲間と共にカレオストラへ向かうはずだった。いや、内心ではセイラも当然その旅路を共にするものだと疑っていなかった。


だが、『単独遂行』という試験条件がすべての予定を狂わせた。今すぐ力を手に入れるためには、逆説的に彼女たちと一時的に離れなければならない。


そもそもバセテロン行きは予定外だったが、故郷を失ったリセラとエレンに安全な居場所を作ってやることが、ここへ来た最大の理由だった。


その宿題を終えた今、イヒョンは次の目標へ向かって動き出すべき時なのだ。


地球へ帰還するためには、王都カレオストラの図書館に必ず立ち寄らなければならない。


かつてシエラから託された『ダニエルスのノート』によれば、アルテラと地球の繋がり、そして次元転移の秘密に関する古書が、そこの『禁書庫』に保管されているという。


問題はアクセス権限だった。一般の図書室は開放されているが、禁書庫は高位貴族や王室の特別許可を得た者、あるいは二級冒険者ルミナール以上でなければ立ち入ることができない。


イヒョンにとって、禁書庫の閲覧は選択ではなく必須事項だった。


もちろん、エッセンビア伯爵を頼って男爵や子爵の爵位を授かる道もあった。だが、その道はあまりにも多くの足枷を伴う。領地管理の義務、長期間の移動制限、そして有事の際に伯爵の召喚に応じなければならない従属関係。


自由に帰還方法を探らねばならないイヒョンにとって、貴族の爵位など「絵に描いた餅」に過ぎなかった。


ゆえに残された道はただ一つ、二級冒険者になることだけだ。


しかし、セイラの言う通りカレオストラへの旅路は険路そのものだ。コランまでは馴染みのルートだとしても、その先には巨大な山脈と魔獣が跋扈する危険地帯が待ち構えている。


そんな死地へ護衛もなしに飛び込むのは、命懸けの博打に等しい。ましてや戦闘能力のないセイラやリセラを連れて行くなど、想像すらできないことだった。


コランからここへ来るまでの道中でも、何度死線を越えてきたことか。たとえギルドの試験が同行を許したとしても、大切な者たちを再びあの地獄へ引きずり込むわけにはいかなかった。


「すまないが、本当にダメなんだ。たとえ規定が許したとしても、君やリセラを再びあの危険の中に連れて行くことはできない」


イヒョンが改めて断固として線を引くと、セイラは口を尖らせた。怒りと悲しみで頬を膨らませた姿は、まるで激怒したフグのようだったが、その瞳だけは笑い飛ばせないほどに鋭かった。


セイラは眉間に深い皺を刻んだまま、黙りこくってティーカップの中の渦を見つめている。


「本当にすまない。だが、俺一人で行かなければならないんだ。君の気持ちは嬉しいが……こればかりは妥協できない問題なんだ」


「……勝手にすればいいじゃないですか。私はもう、知りませんから」


セイラは椅子を勢いよく回転させ、窓の外に視線を固定してしまった。冷え切ったその口調が、寒風のようにイヒョンの胸を刺した。


もはや、これ以上の対話が成立する雰囲気ではない。イヒョンは今すぐ彼女を説득するより、少し頭を冷やした頃にまた訪ねる方が賢明だと判断した。


「ごめん、セイラ。また後で話そう」


イヒョンは少しでも空気を和らげようと、慎重に言葉を継いだ。


「そういえば……午後は講義と診療の予定があると言っていなかったか?」


すると、セイラの答えが鋭い刃となって飛んできた。


「今日は講義も診療も、全部キャンセルします! ……いいから、もう行ってください」


彼女は最後まで顔を向けようとはしなかった。背中越しに響くその声には、隠しきれない涙が混じっている。


イヒョンは苦い表情を浮かべて席を立った。後ろ髪を引かれる思いを振り切り、彼はスコラの扉へと静かに歩みを進めた。


閉まる扉の隙間から重苦しい沈黙が漏れ出し、窓の外の風だけが、一人残されたセイラの部屋のカーテンを寂しげに揺らしていた。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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