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犬二匹3



3




 新校舎の屋上の縁に寝転がり、矢来は折り畳んだ新聞を読んでいた。矢来は大抵屋上にいて、新鮮な空気を吸いたがった。


「見つけたよ。しけた記事だ。みてみ」


 僕は、ゴールデンウィークが明けた後の三日間ずっと昼休みに矢来の元についていた。


 休み明け、学校が始まった、その日、犬に食い殺された不良を偲ぶ全校集会が行なわれた。先生たちは厳粛な顔をして、生徒たちを怖がらせまいと、とても長い話をした。僕は、その場にいたけれど、校長先生らが、何を話したのかまるで覚えていなかった。僕は、この事件の当事者の知り合いということで、気が気じゃなかったからだ。何度も体育館を出て行きたくなったが、その地獄のような集会を堪えた。目立つようなことはしたくなかった。欠席や早退するようなことも、である。


 矢来の持ってきた新聞を読んでみると、実際に起こったことが、かなり割愛されて書かれていた。生徒が野犬にかみ殺されたということのみが強調されて、その後、犬がどうなったのかは一切、記述されていない。


「あの犬をぶったおしたのは、俺だぜ。一躍ヒーローってとこだったのになあ」


「犬をあんなふうにしたのは、あなたでしょう」


「待て待て、あれは、犬の自由意志なんだ。俺は、ちょっとしたきっかけを与えただけだって。誰しも力を与えられちゃあ、望みを果たそうとするもんなんだよ」


 矢来は、粉をつまんで振りかけるような素振りを数回繰り返して、手拍子を打った。


「なら、なんで犬を殺したんです?」


「俺の自由意志があるだろうが。あのくそ野郎どもは、よわっちいなりに日頃から人様のペットに優しくすべきだったな。弱いものいじめするようなやつは、いじめ返されるってことさ」


 僕は、顔を伏せた。矢来が顔をのぞき込んでくる。


「俺たちは悪を正したんだよ。犬は復讐を遂げ、死んでいいやつは死に、俺は、犬が、他に危害を加えないようにした。あの犬っころの末路はわかりきってる。人間の肉の味覚えて暴走するだろうし。あと不良二人は、残ってるが…死ぬほどビビッてるだろうな。一生、犬という犬に近づけもしないかも。なんにしてもキリのいいところだよ。そういや、犬の餌の葬式は、もう終わったかな?ふははは」


 どうも納得がいかなかった。


「ならなにか?犬もお前も殴られ続け、蹴られ続けでもいいってのかい?」


 答えられない。


「俺にはわかるんだぜ。お前のせいせいした気持ちが、とても」


 矢来と購買で買った昼飯を食べた。(矢来は、お金をどっさり持っていた。それをどうしたのかは、怖くて聞けなかった)四枝さんとは、違った魅了がこの人にはあることを感じた。矢来の言ったことは図星だった。あの犬に食われた金髪の不良への同情はこれっぽっちもなかったのだ。




 リコさんや四枝さんに会いに行くのは、忍びなかったが、僕は、残った犬に毎日、餌をやり続けた。犬は、動くものすべてに怯えて震えていた。かわいそうに思って、散歩にも連れて行けなかった。僕はその犬をロンと呼んだ。果たして本当にこの犬がロンなのかはわからない。


 その日の放課後、僕は、犬小屋の前でしゃがんでいるリコさんの後姿を見つけた。声を掛けづらかった。見なかったことにして帰りたかった。でも、そうはいかない。僕は、犬が変貌する姿をしっかり見たのだ。


「散歩いきますか?」


 リコさんは目のあたりを袖でぬぐって振り返り、僕を見た。


「どうして止めてくれなかったのよ…」


 いきなりだった。


「し、知らなかったんですよ。あんなことになるなんて」


 僕は、変に言い訳をした。


「悪いのは、あの不良たちなんです。何度も犬をいじめてて」


「だから、あれを使ったの?」


 マスターキーのことだ。


「僕じゃないです。犬を守ろうとして…あいつらに殴られて僕は」


「矢来から聞いたわよ」


 矢来が?わざわざリコさんに?


「僕はなにもしてないんです。リコさん」


「あたしに話しかけないで、この子の世話はあたしがする」


「誤解ですよ…みんな矢来さんがやったんです」


「卑怯者」


 僕は、なんとかリコさんに話を聞いてもらおうと食下がり、


「落ち込まないでください。死んだ犬はロンじゃないかもしれないじゃないですか」


 無理やり笑みを浮かべて言った。けど、リコさんは、涙目で言った。


「あなた最低ね」


 慰めのつもりだった。リコさんは、犬にリードをつないで、僕の前から歩き去った。


 僕は、犬を守ろうとして、袋叩きにあったのだ。矢来からなにを聞いたにせよ、あの状況を知らないリコさんから非難される覚えはない。


 僕は悪くない。


 この犬小屋の前で散々蹴られたことを思い出し、後味の悪い思いが広がっていった。どんどん、リコさんへの怒りがこみ上げてくる。三日間、犬を世話した僕は、一体何なんだ?あたしが犬の世話をする?だいたい、不登校のくせに。どうして、たかが犬のことで泣けるんだ。僕は、悔しくて情けなくて目をこすった。




 授業は退屈だった。どうせ、どの授業でも、みんなの前で問題を立って答えることはないから、なおさらだった。先生たちはあきらかに僕を無視していた。その理由は、飼育部に関係すること、つまり、ゴールデンウィーク前に起こった、あの事件のことなのだろう。クラスのみんなにも、僕に対しての無関心さを装う雰囲気が伝染していた。


 しかし、その中でも鈍いやつはいるものだ。僕の隣の席のトシは、屈託なく僕に話しかけ、未だに部活の勧誘をしてくる。僕は、幸運な方かもしれない。ただ、リコさんや四枝さんもこんな経験をしているのか聞いてみたくなった。ああ、そうだ。忘れてはいけない。水上さんも。


 いつものように僕は、矢来のいる屋上へ向かった。矢来には、他にも聞いておきたいことがあった。矢来は、屋上の淵で読書をしていた。転がれば、まっ逆さまに落ちてしまうような場所だ。


「リコさんに何を話したんです?」


「なんだよ?」


「犬のことですよ」


「ああ、リコちゃんを仲間にしたかったんだよ。雷なんて、おもしろい力だからな。マスターキーで一生、力を維持できるようにしてやれるって言ったのさ。ふられたよ。ちっちゃい身体して気のきつい女だ。俺が、女だったら正味、殴ってる」


「僕のこと、なにか言ったでしょう。矢来さんがやったことが僕のせいになってるんです」


「お前と俺が友達だ、くらいのことは言ったよ。マスターキーは、お前が引き寄せたんだぞ。俺とお前は友達じゃないのか?」


 それには、答えられなかった。僕はどうして、ここにいるのか、自分でもわからない。


「あの犬はリコさんの犬だったんですよ。仲間だ、なんて正気なんですか?」


「犬は二匹いただろ。一匹いなくなったくらいで、がたがた抜かすなって、これだから女は苦手なんだ」


 それに近いことを僕はリコさんに言った。嫌われるわけだ。


「なんでもいいや。次ぎの遊びを考えようぜ」


 矢来はマスターキーを腰から取り出して、眺めた。


「そうだなあ。犬よりももっと大きいものを試してやろうか」


「あんなことは、ごめんです。大騒ぎになります」


「大騒ぎ、上等だね」


「そんなこと、だめですよ」


 矢来は、口の端をつり上げた。


「反対に、俺は聞きたいね。草加くん。どうして、真面目に授業なんか受けてんだよ。あほらしい」


「僕は普通の学生なんですよ?」


「そうだが、ならどうして、飼育部は、教師どもからやっかまれて、その存在が無視されるんだ。お前、自分の扱いが我慢ならないと思わないのか?」


 矢来は、そのことを知っていたのだ。


「認めろよ。お前の考える良識なんて、どこにもない。特に俺たちにとっては犬も食わん―不良を食う犬でもな、いひひひ―建前は止めにして、言っちまえよ。力がほしいんだろ?」


 僕は、はっとする。矢来の手の中のマスターキーが太陽の光で輝く。


「そうだな。今度は、先生のどいつかを刺してみてやろう。学校がどう動くか見ものだ」


「冗談ですよね?」


 薄く笑う矢来。


「そうだ。全部冗談みたいなもんさ。それを現実にするんだ。しばらくすりゃさ。お前の力もどんなものか、わかってくる。自分で見極めろ。俺についていれば、強くなれるぜ。そうしてさ。こんなチンケな学校で遊ぶより、お前と俺でもっとでかいことをやるんだよ。わくわくするなあー」


 矢来の話しから、自分の思いが鮮明になっていくのに驚いた。ここにいるのは、矢来の行動に責任を感じて、彼を止めるためなんかじゃない。単純に力が欲しいからこの人についていたんだと気づいた。




 次ぎの日曜日の朝。僕は自分の部屋にいた。


 赤いセロファンシートを手鏡に貼り付けて、自分の顔を見ていた。本当なら、鏡に自分の姿が映らないのだが、この赤いシートを透すと見えるようになる。リコさんが教えてくれた方法だ。


 僕は、その方法で不良に蹴られて出来た傷の様子を確かめたかった。きれいに治っていた。身体の傷も、すでに痛みはなく、アザすら消えている。


 そして、僕は、小学校のころに自転車に乗っていて、車にはねられ、膝と肘が傷だらけになったことがあった。その傷跡が、今でも残っているはずなのだが、それも、なくなっていて、驚いた。リコさんの雷に打たれた時の火傷もきれいに治っている。治りにくい、口の中の傷も。


 自分の身に起こっていることを確かめるよう、机の引き出しからカッターナイフを持ち出して、腕に数センチほどの切り傷を作った。痛いし、血がどくどく出てくる。この傷は、どうなるだろうか。血が止まらないので、バンソウコウを張った。


 家で宿題をしてから、母が作ってくれた昼食を包んで学校へ持って行った。リコさんになにを言われようが、僕は、犬の世話をするべきだと思った。


 四枝さんにも会いたかった。日曜に、学校にいるとは限らないけれど、彼に矢来のことを伝えたかった。それで、少しでも僕の肩の荷を下ろしたい気持ちもあった。日曜日で部屋にこもって一人もんもんと、飼育部の一連のことを考えつづけるなんて気が変になってしまう。


 犬は、近づいてきた人が誰だかはっきりかわからないと、うなったり、犬小屋に隠れたりする。しかし、僕だとわかって、母さんの作った焼きそばをうまそうに食べた。何でも食べる犬だ。


 僕は、この犬を自分の家に引き取ることを考えてみた。こんな誰が来るかわからない場所でつなげられているのは不憫だ。リコさんの家で飼えないのなら、その方が決まっている。今まで、ペットが欲しいなんて考えたこともなかった。親に頼み込んでみよう。その前にリコさんの了解がいる。だけど、リコさんに会うのは、忍びない。彼女は、僕に腹を立てて話を聞いてもらえない気がした。


 始めてリコさんと会ったとき、リコさんの家まで、仲直りにいった四枝さんの気持ちが今になってわかった。誰かについていて、もらわないと話にならない。四枝さんは、どこにいるかわからないし、矢来を連れて行くのは、彼女の気を逆なでするだろう。こういうことを気軽に話せるのが、あのおかしな人たちしかいないことが、泣けてくる。いや、ああいう、おかしな人たちのせいで、こういう突飛で厄介なことに巻き込まれたのだ。


 散歩をしに、ロンを連れて、学校の外へ出た。学校の近所をあてどなく歩いた。犬が怖がりそうな大通りを避けて、住宅地の方へ入っていった。僕の家とは、反対方向で、始めて通る道だった。周りに木がはえた広い公園とその隣に神社がある場所を見つけ、そこで休むことにした。ずいぶん歩いたし、犬に水が飲ませられればと思った。


 遊具がいくつか固まっているほうに、子供が集まって騒いでいた。水場を探したが、見当たらなくて、遊び道具の近くのベンチに座った。ロンは、機嫌がよくて、子供たちのほうに興味しんしんだ。


「あー犬がいる」


 早速、子供に見つけられた。砂場から5歳くらいの男の子が、足を走り寄ってきた。子供は、僕に言った。


「さわってもいい?」


「いいよ」


 子供は、砂だらけの手で犬の頭をなでた。ロンは、複雑そうな目で僕の顔をうかがった。…断れないだろ。


 子供は、喜んで犬の頭をなでながら、タコの山へ振り向いた。


「ユーユー!犬がいる!」


 その子供の声で、さらに他の子供たちが、ぞろぞろと集まってきた。二十人は、いるだろうか。しかし、子供は、目当ての人物が出てこないので、幾度も叫んだ。


 ようやくしてタコ山の中から子供を二人引き連れて出てきたのは、子供たちから見るにかなりお姉さんなるだろう女の子だった。僕は、その姿に見覚えがあった。遠目からでもわかる。奇遇にもそれは水上湯々だった。


「早く来てユーユー」


「なになに?」


 水上さんは、僕に気づかずに犬を見て、飛んできた。彼女の服も砂だらけだった。


「かわいい」


「かわいいね」


 彼女は、犬に群がった大勢の子供の間から手を差し伸べて、ロンに触った。ロンは、顔を近づけてくる子供の頬を舐めていた。人数が集まりすぎて、息苦しそうなロン。


 子供は、僕に対してもまったく警戒心がなくて、足にもたれかかってくる。僕は、ロンの首輪からリードを離し、自由に走り回れるようにしてやった。子供たちの隙間をすり抜けて、逃げた。子供が全員、嬉しそうにそれを追って、駆け出した。


「こんにちは」、ひしめき合っていた子供が去った後、僕は、水上さんに言った。


 彼女は、石のベンチに座った僕がいることに気づいて、びっくりした。


「驚かせてごめん」


「…子供たちばかりだと思ってたから」


 水上さんは、目をぱちくりさせて僕を見ている。


「今日って日曜日ですよね?」


 僕は制服を着ていた。学校に行くのだから、私服では、校則違反だ。


「うん、学校で飼ってる犬だから、休みでも餌やらないわけにはいかないしね」


「学校に犬が、いるなんて知りませんでした」


 子供たちが、犬を捕まえようと必死で追いかけている。犬は、タコ山の中に入り込んでいった。


 水上さんが僕の隣でもじもじし始めた。飼育部の部室の前で僕と出会ったことを思い出したのだろう。僕は、無言で肯く。彼女は、場景反射的に会釈して返した。その仕草が、なんだか、かわいい。僕は、ちょんちょんとベンチを指差して棒立ちの水上さんに勧めた。


「いい天気だね」


「そうですね」


 天気がよすぎて暑いくらいだ。


「奇遇だね」


「はい」


 彼女は、自分か着ている白いシャツの袖先を弄っている。


「家、近いの?」


「はい、あのすぐそこです。屋根が見えます」


 彼女は、大きな声で自分の家のある方向を指した。子供たちに滑り台の上まで犬は、追い込まれ、器用に滑り降りていった。


「ユーユー!」


 滑り台の上で小さな女の子が、こっちに手を振っている。彼女は、手を振り返す。


「近所の子供?」


「そこの団地の子たちです。日曜日になるとよく遊ぶんです」


「えらいな」


「そんなことないです。高校生にもなって公園で遊んでるって笑われてます」


「でも、みんな楽しそう」


 遊んでいる子供たちを見ていると、なんというか、やさしい気持ちになれた。


「あの、わたしまだ名前聞いてないです」


「ああ、草加、草加正」


「草加さん」


「何年生ですか?」


「一年生。君と同じ」


「あ、わたしの名前は」


「ユーユー?」


 水上さんは恥ずかしそうにして微笑んだ。


「同じ学年だと思いませんでした」


「どうして?」


「えーっと、なんででしょう?」


 首を傾げる水上さん。


「僕もわかんないよ」


 あまり女の子と話したことがないので、どう話せばいいか迷った。変に彼女を意識してしまって、話が続かない。とにかく、僕は、笑った。彼女も僕につられて笑う。


 二人でひとしきり笑い合った後、僕は、前々から、聞きたかったことを水上湯々に思い切って言ってみた。


「変なこと聞くようだけど、飼育部にアンケート用紙出したじゃない?」


「はい」


「…やっぱりいいや」


 水上さんの屈託のない表情を目にしていると、やはり聞けなかった。


「はい…」


 突然、話を打ち切ったので、気落ちした返事をする彼女。僕は話を変えた。


「ここ、水が出るところないかな。犬に飲ませたくて」


「えーと、この公園の水道、蛇口はあるんですけど、ひねるところがないんです。わたしの家がそこですから、いっぱい飲んでください」


 僕は、水上さんの家に案内された。公園にいた子供たちが、全員ついてきた。それが、犬への好奇心なのか、水上湯々の人気なのかはわからない。おそらく、両方だろう。彼女の両手は、子供たちのなかでも、とりわけ小さい子とつながれていた。しきりにきゃっきゃっと騒いでいる。


 水上さんの家は、高い塀に囲まれた、大きな三階建ての家だった。門構えも立派だ。僕は、子供たちと犬とともに敷地内に通されて、玄関先で待った。家に上がるかどうか彼女に聞かれたが、さすがに遠慮した。こんなすごい家にたぶん何ヶ月も風呂に入っていない犬を上げるわけにはいかない。


 水上さんが、お盆を持って家から出てきた。水の入ったグラスの底にはコースターまで置いていた。てっきり庭の蛇口を借りられると思ったのだが、犬もここまで人間扱いされると戸惑うのではないか。


 グラスには、氷も入っている。水上さんはお嬢様なんだな…快くグラスを受け取って、犬の口元に寄せてやった。ロンは、舌を使って氷をからから言わせながら上手に飲んだ。犬に不平はなかった。飲めればいいのだ。


「もっと、もってきましょうか?」


「うん、充分」


 子供たちが、うるさくなってきたので、僕たちは、また公園へ戻ることにした。その道の途中、水上さんに学校へ帰ることを告げた。


「そろそろ行くよ。水、どうもありがとう」


「いえ、あの、わたしも今度飼育部に行っていいですか?」


 僕は、黙ってしまった。彼女が飼育部に関われば、いやな思いをすることが、目に見えている。


「あ、ああ…あの、今は、すこし駄目なんだ。その…部はいろいろあってね。ごめん」


「そうですか…」


 本当のことは話せないし、僕は誤魔化すのが下手だった。気を悪くさせたかもしれない。


「けど、また日曜日に犬を連れてくるよ。迷惑じゃなかったらだけど」


「…はい。また来てください」


 さよならを行って、別れた。子供たちがみんなして僕と犬にバイバイと手を振ってくれた。水上さんは想像以上に感じのいい子だった。




 学校の正門まで帰ってきた。新校舎の上の空に黒い影がぽつんと浮いていた。鳥かと思ったが、僕は、鳥以外に飛べる人物に心当たりがある。空中を散歩できる人なんて矢来くらいしかいない。僕は見なかったことにして、犬小屋へ急いだ。早く帰った方がいい。


 犬小屋に犬をつないだら、案の定、背後に人の気配がした。


「デートかい」


 矢来は言った。


「見てたんですか」


「学校にくるやつは、たいてい全部見張ってる」


 僕と歩調を合わせてまとわりついてくる矢来。


「あの娘と飼育部のことを話したのか?」


「話してません。話せるようなことじゃないし、だいいち信じてもらえません」


「まーな」


 矢来が顔をニタつかせている。


「何をそわそわしているんだ?俺とユーユーのことを話すのが嫌なのか」


「あなたが、何を考えているかわからないからです。もう行きます」


 僕の口調は、無意識のうちに強くなる。 


「なに怒ってんだ?」


「怒ってませんよ」


「お前、あの娘が好きなんじゃないか?」


「なんでそうなるんですか!?」


 必要以上に声を荒げてしまった。からかわれているのは承知の上なのだが、抑えが効かない。僕は、矢来を放って早歩きしていたが、やつはついてくる。


「かわいい子だ。相手もまんざらじゃない。お前に気がある。そう思うね」


 矢来は、頭の後ろに手を組んで言った。何でも明け透けな矢来のせいで汗が吹き出てきた。


 学校の玄関口まで、黙って歩いた。僕は、矢来の顔を一瞬だけ見た。無表情だった。


「なあ」


「なんです?」


「職員用の駐車場に三台の車が止まってる。ちょうどいい。今日、やれるぜ」


「なにを?」


 矢来は腰からマスターキーを引き抜いて、放り上げた。落ちてくるところをつかみとる。


「決まってるだろ。こいつで人刺して、どうなるか試すんだよ」


 僕たちは、コンクリートブロックの壁でできた危険物倉庫の陰に隠れて駐車場にやってくる先生を待ち伏せした。


 そこは、運動場からも校舎からも離れている。ここでは、グラウンドで運動部がクラブ活動している喧騒がかすかに聞こえる程度だ。


「矢来さん、やめましょう。こんなことしても何にもなりませんよ」 


「やつら、俺たちを無き者としている。悔しくないのかよ。憎いとは思わないのかよ?変えなきゃならねえんだ。俺たちがここにいることを証明するんだ。おもしろおかしくな」


 やつの話を聞いていると引き込まれていく感じがあった。僕は、うつむいて首を振った。その場から逃げ出そうにも動けなかった。矢来を怒らせるのではないかという恐怖心があったからだ。


 矢来は、危険物倉庫の屋根の上に身を伏せて駐車場に向かって来る人を見張った。もう夕方になっていて、いつの間にかグラウンドからの音も消えていた。


「獲物がきた」 


 すたっと矢来が屋根から下りてくる。僕は、ブロックの壁から駐車場へ入る階段を見た。


 中年の男の先生だ。腹が、前へと突き出たような太り方をしているので、のそのそと進む亀の歩みように見える。名前は知らない先生だけど、あの先生は、たしか入学式の日に新入生へ厳しい身だしなみ検査をやっていた覚えがあった。僕は引っかからなかったが、反抗的な生徒には、手を上げて、入学式に参加させなかった人だ。


 何も知らないで自分の乗用車へ向かってきている。矢来は、犬の時と同じようにサングラスとマスクをして、倉庫の物陰から颯爽と飛び出していった。


 足音が出ないように矢来は、少し浮いていた。気づかれず、その太った先生の背後に回りこんだ。先生が、車の鍵をポケットから取り出すところで矢来に後頭部を張り倒された。車に寄りかかるように押さえられた先生が、じたばた手足を動かして、抵抗しようとした。しかし、矢来が、あのマスターキーの先を背中につきつけた。当てるだけで、身体に刺し込んではいないようだ。矢来は先生の耳元でなにか言っている。ここからでは、声が小さくて聞き取れない。


 その後、先生は、両手を挙げた。矢来は、まだ手が挙がりきらないうちに先生のわき腹に蹴りを入れた。痛みに耐えかねて地に膝を突く先生。彼は、抵抗する気力を完全に奪われていた。その間に矢来は、先生へバンダナで目隠しをし、立たせた。そして、僕のいる方へ先生を歩かせてくる。


 危険物倉庫の裏側まで先生を誘導すると、矢来は、言った。


「ひざまずけ」


 先生は、大人しく座った。見るからに恐怖で震えている。こんなふうに怯えた大人を僕は、見たことがない。


「た、助けて。助けてください」


「黙れ、豚野郎」


 先生の頭を物のように小突いた。僕は、汗ばみ、おろおろした。矢来は、僕の手を取って、マスターキーを握らせる。


「ほら、やれ。頭にさし込んで、右、四十五度ほど回転させてみろ」


 僕の手も震え始めた。矢来は、僕にあの恐ろしいことをやらせるつもりだ。


「嫌です」


 矢来は、おどけて口を尖がらせた。遊んでいるんだ。


「やっちまえば、どうってことない」


「嫌っていってるのに…」


 手の中のマスターキーが温かくなっていくのがわかった。人肌のような適度な熱を持っている。気味が悪かった。


「強くなりたかったらこれくらいこなして見せろよ」


 僕は、ただじっとする。


「我慢しているようじゃ、なにも手に入らないぞ。力、欲しいんじゃないの?俺が、全部教えてやるからさ。そうだ。あの女も欲しいんだろ?一切合財自由にできるぞ。やってみせてくれって」


「こんなの弱いものいじめじゃないですか。犬の時とは全然、全然違いますよ」


「じゃあ、こいつに飼育部について、聞いてみるか?俺たちが、どうして、こんなみじめな扱いをうけているのかどうか!」


 矢来は先生のアゴを鷲づかみにした。


「お前、なぜ飼育部を無視する?飼育部の問題は、飼育部が解決するなんて校則があるんだよ」


「あ…あ…」


「答えねえと、ぶっころすぞ!」


 先生が、ビクついて上半身を地面へ伏せた。矢来は、先生の髪の毛をつかみ上げて起こす。


「知らない…わからない…助けて」


「これだよ。誰に聞いてもこんなもんだ。こいつら、意味もないことを平気なツラして守り通して、当事者のことなんぞ知らぬ、存ぜぬでさ。いよいよ自分が死のうって時にもだぞ?笑わせる」


 矢来は、先生の頭を足蹴にして、コンクリートブロックにぶつけ、僕をはやし立てる。


「さあ。やれ」


「できない」


「やれよ、簡単だ。ぶっさしてちこっとひねってやるだけ」


「できない!」


 僕は、構わず、マスターキーをその場に捨てて、そこから走り去った。駐車場を横断して、真っ直ぐ正門への道を目指した。決して振り返らなかった。とにかく学校から離れるために走った。


 日が、暮れかけていた。僕は、水上さんと子供たちが遊んでいた公園にたどり着いた。子供たちは、それぞれの家へ帰ってしまったみたいだ。砂場には、遊んだ後がある。そこで空を見上げ、矢来が追ってきてはいないかどうか見まわした。空が怖くなり、タコ山の中へもぐり込んで、夜を待った。


 僕は、四枝さんの忠告を聞くべきだった。マスターキーを矢来に渡してはならなかったのだ。いくら飼育部が、学校に無視をされているからと言って、人殺しをしていいわけではない。矢来の言い分は、間違っている。だけど、僕は、矢来の力で脅されたら、やっていたかもしれない。それが何よりも怖かった。体の震えが取れない。


 腕に力を込めて、震えを止めようとして思い出した。今朝、カッターナイフで傷をつけたことを。腕のバンソウコウをはがしてみる。傷が消えていた。やっぱり、傷の治りが極端に早い。これが、僕の力だっていうのか?


 夜になるまで、タコ山の中に隠れ続けた。嫌に長い時間を過ごしたような気がした。そこから這い出して、水上さんの家の方角へ向いた。昼に、水上さんが指し示してくれた屋根は、薄暗くてよく見えない。


 僕は、四枝さんに謝らなくちゃいけないと思った。だけど、彼は、今、どこにいるのだろう。四枝さんなら、何とかしてくれるかもしれない。期待を抱いて家路につこうとした。





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