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犬二匹2



2



 体当たりして、部室に入って手錠を切るためのヤスリを持ってきた。僕は、四枝さんにかかった頑丈な手錠の鎖をヤスリで擦り切ってあげた。ワッカの方は、そのままだ。


 四枝さんは、シャツの襟、タイを整えて、言った。


「今からは、慎重に行動しなければ。第一に、草加と矢来を会わせてはならない」


 当たり前のように反論と質問が出てくる。


「だから、その矢来ってのは、どんなやつなの?」とリコさん。


「部員だ。俺たちとは正反対の偏った考えを持っている。特に鏡を壊すことをよく思ってない」


「どうして僕と会っちゃいけないんですか?」


「やつは、君を見つけたら、捕まえるだろう。矢来は、君のできることを欲している」


「僕のできること?」


 四枝さんと僕らは、物置から鏡の部屋へ移った。


 天井の鏡を差す四枝さん。


「光が見えるだろう。マスターキーだ。おそらく君に引き寄せられて、やってきた。入るな!」


 僕が鏡の部屋の敷居へ踏み出そうとすると、四枝さんは、いきなり怒鳴った。


「君が立つとマスターキーが、ここへやってくる」


「あたしたち、さっきここに入っちゃったわよ。ね?」


「仕方ない。予測できなかったことだ。俺は、三日前に気づいた」


「あれは、なんなんです?」、鏡に映った針の輝きを見て言った。


「生物を化け物に変えてしまう危険な代物だ。俺は、あれがくる前になんとしてもここを破壊したかった。また、やってくるなんて…」


「化け物ってあんたねえ、あたしはもう充分、化け物になってんのよ。どうしてくれんのよ」


「リコ、君の場合、マスターキーの影響下ではあるけど、この鏡が機能しなくなれば、途切れるし…それに君が歳を取れば、その雷を呼び寄せる力は、無くなっていく。俺が言いたいのは、生物へ直接マスターキーの作用を及ぼすと、肉体が変貌して、凶暴化するということだ」


「なにいってんの?こいつ?」


 リコさんは、呆れ顔して僕に助けを求めた。


「そんなものをどうして、欲しがってるんです?その、矢来さんという人は」


「子供は、おもちゃをほしがる。甘いお菓子を好く」


 四枝さんは部屋から廊下に移っていった。


「とにかく、ここから出よう。矢来が戻ってくるかもしれない」


「その人は、僕を探してるってことですか?」


「心配ない。マスターキーが君に引き寄せられていることを知っているのは、俺とリコだけだ。俺はあいつにいくら、なぶられたって口を割らないし、あいつもそれをわかっている」


「これからどうするのよ。あたしもそんなやつとあいたくないわ」


「幸い時間稼ぎができた」


 僕たちは、階段を下りながら彼の話の続きを聞いた。


「俺は、二枚のアンケート用紙を持っていた。一枚は、なにも記入されてない草加のアンケート。もう一枚は、事細かに書かれている水上湯々のアンケート。矢来が、俺のポケットからそれを見つけて、君を水上湯々と誤解した」




 一階の裏口を通り過ぎた。四枝さんが、学校をうろついているところを見られるのはまずいと言って、旧校舎の職員室から入れる地下通路を使った。それは、昔の戦争の時に防空壕を造るかたわら、裏山につながるまで掘ったということらしい。


 僕は、四枝さんの口から水上湯々の名前が出た時点で黙りこくってしまった。水上さんは、僕と同じように不用意に飼育部に興味を抱いてしまったせいで、先生からアンケートを受け取って飼育部へ提出しなければならないはめになった女の子だ。


 四枝さんは、最終的に僕を助手にしたようだから(僕は認めていないけど)彼女については、それ以上関知していないはずだ。何も知らない無関係の人を危険な人物に差し出して、「幸い時間稼ぎができた」なんてぬけぬけと言ってのけることに反感が起こった。


 備え付けの懐中電灯を手に真っ暗闇の地下通路を行く。リコさんは、水上湯々のことを僕に聞いて、言った。


「最低」


「この件に関しては、どうにもできなかった。やつに草加のことを話せば、状況はもっと悪くなった」


「じゃあ、あの子は今どんな目に」


「わからん。ただ、やつだって馬鹿じゃない。うまいことやって、水上湯々を鏡の部屋に連れて行くだろう」


「ちょっと待ってください。四枝さん。いつ物置に閉じ込められたんです?」


「三日前だ。鏡の部屋で待ち伏せされた。マスターキーが来たことは、やつが教えてくれた。痛い指摘だった」


「三日前って…まだ、その子が草加くんの身代わりだってばれてないっていうの?」


 リコさんが口をさしはさむ。そうだ。水上さんが危険だ。


「ばれたら、俺のところへくるはずだ。それとも怒り狂って、我を忘れてしまったか。いずれにしろ不気味ではある」


「水上さんのところへ行きましょう」


「いや、矢来とばったり会うかもしれん。泣きを見るぞ」


「なら他にどうすりゃいいんですか?!僕らのせいですよ!こんなことになったのは!」


 僕は、四枝さんに耐えられなくなって声を張り上げた。叫び声が地下の壁に反響していった。


「ねえ、それ、あたしも人数に入ってる?」


「ふう、対策が立つまで、隠れるしかない」


「駄目ですよ。そんな我関せずなことじゃ。何も知らない人が巻き込まれてるかもしれないんです」


「やつに会ったら、そんなこと言ってられなくなるぞ。あいつは、リコとは違って、ちゃんと『力』を制御して、俺たちに危害をくわえることができるんだ。今、矢来と出くわすとなると、みすみすやつの誤解を正す結果になるのが目に見えている」


「水上さんに危害が加わってもいいってことですか?」


「そんなことは言っていない。だが、そうする意外に方法はない」


 四枝さんは、自分の額を小突いて何かを考えている。


「くそ、嫌な予感がする。一度、俺の家に行って。そうだ。これを」


 四枝さんは、自分の靴底を手探りして、マジックペンのようなものを取り出した。それを懐中電灯に照らし、僕に見せた。


「これだけは取られなかった。武器だ。もっておけ」


「これは、なんですか」


「パラライザーだ。この金具の先を敵に当てて、スイッチを押すと、電気が流れる。どんな人間でもこれを食らって動き回れるようになるまで早くて三、四分はかかる」


 僕は、とりあえず、懐にしまった。


 一本道の通路は、終点のようだった。僕たちがやり取りしている間、リコさんは、出口の扉を押したり引いたりしていた。


「開かないわよ」


「ずいぶん使ってない。どいてくれ」


 四枝さんは扉を蹴り上げた。扉と壁に数センチすき間が開いたが、光は差さない。四枝さんはすき間をのぞいた。


「おかしいな」


 僕ものぞいてみた。真っ暗だった。四枝さんがすき間の下に懐中電灯を照らすと土がぽろぽろ流れ込んできた。


「向こうは、裏山なんだが」


 僕は四枝さんの言ったことについて考えをめぐらせていた。さっきリコさんにさえぎられて、僕は言いたかったことが言えなかった。三日間、四枝さんが物置に閉じ込められていたのなら、あの部室の扉に張ってあった伝言は、あれは、一体、なんだ?


 僕とリコさんはこの二週間、毎日、部室に四枝さんがいるかどうか見に通ったのだ。ということは、今日、見つけた旧校舎へ集合のメッセージを書いた人は、四枝さんではない。


「四枝さん、部室に張ってあった伝言…」


 言おうとした時、入り口の方向から、声する。いや、歌だ。誰かが歌を歌っている。


「おもえばとおくへきたもんだ~」


 そんな歌詞だ。歌声の主は、ワンフレーズだけ歌って、それから言葉を発した。


「なら他にどうすりゃいいんですか?僕らのせいですよ。こんなことになったのは!」


 僕の声真似をしていた。四枝さんが通路の方へ懐中電灯を向けた。その一筋の光は、声の主の姿を見せなかった。


「違う違う。全部四枝のせいだよ。言い切っちまえ。君は関係ない。だからね。帰れるんだ。俺のいうことさえ聞いてくれちゃさ」


「矢来」、四枝さんは言った。


「俺はさ。君たちの気持ちが、わかりすぎるほどわかるんだよ。四枝は嘘つきなんだ。嘘つきは世の中の正しい働きを悪くする。自分の都合だけでいたいけな女の子を何のためらいもなく巻き込んじゃったり」


 四枝さんは、向こうに聞こえないように言った。


「雷だ。リコ。落としてくれ」


「はあ?そんなのできるわけないじゃない!」


「いや、できるはずだ。やってくれ」


「無理よ」


「雷が落ちてくる時の感覚を思い描くんだ」


「空も見えないのにどうしてそんなことができるの。傍若無人っていうのはあんたのためにある言葉ね。ばか。ばか。ばーか」


「俺は、信じる。扉の前の土砂を雷で取り除くんだ!」


「いや!つきあってらんないわよ!」


「喧嘩はやめてください!うんざりです!」


 僕は思い切って声のするほうに話しかけた。


「矢来さんですか?」


「そうだよ。君の味方の矢来だよ」


「水上さんのことは知ってますか?」


「知ってるよ。かわいい女の子。俺は、四枝の嘘の犠牲者だってすぐわかった。今頃は放課後をハッピーにすごしているよ」


「よせ。やつとしゃべるな」


「話さなくて、どうするんです。水上さんが無事だってわかったじゃないですか。僕らが勘違いしたまま逃げ続けたって、何の解決にもならないんです」


「君の名前は?」、矢来の声が、闇の中から響いてくる。


「草加です」


「草加くん。こんな暗いところで、お互いの姿も見えず話し合うのはフェアじゃないとは思わないかい?こっちへ来ておくれよ」


「そうですね」


「草加、いくな。この扉を塞いだのは、矢来だ。君たちが、俺を物置から助けるように仕向けたのも矢来だ。マスターキーを引き寄せている君を見つけるために、ここまで泳がされていたんだよ。わかれ」


「でも、四枝さん、出口は一つしかない。戻りましょう」


「俺は動かない。お前は事の重大さに気づいていないんだ。出て行ったら、それは、もうマスターキーをやつに渡すことになるんだよ!リコ、助けてくれ。草加が行ってしまう」


「話し合えばいいんです」


「あたしもそうするわ。話し方はいけすかないけど、悪いことは言ってない」


 旧校舎の出口の方向に光が灯される。矢来が、歩きやすいように懐中電灯をつけてくれた。僕たちはそれに向かって歩き出した。


 四枝さんは、動かなかった。しかし、俺たちが通路の半分くらいに差し掛かると、足を踏み鳴らし駆けていった。僕たちを追い越して、真っ先に出口へ着き、旧校舎の職員室へ飛び出した。


 四枝さんがやけを起こした。俺たちも急ぎたかったが、懐中電灯は四枝さんが持っていて足元が照らせないので、危険だから、歩くしかなかった。


 僕たちが出口を抜けると、職員室の机が乱雑に動かされ、四枝さんは地下通路の出口から一番遠い壁際のあたりでうずくまっていた。


 そこに矢来もいた。彼の顔は、タレ目で、口が大きかった。背は、僕よりいくぶん低い。小男だ。


 彼は、四枝さんと僕、リコさんを見比べて、両手を広げて言った。


「えー、正当防衛?」


 矢来を目にすると突然、息苦しいような圧迫感に襲われた。耳の鼓膜が引っ張られている感じだった。僕は唾を飲み込んで、その感覚を取っ払おうとしたが無駄だった。僕らは、ひとしきり相手を確認しあった後、四枝さんの元へ駆け寄った。


「あいつに近づくな」


「被害者面しないでほしいな。俺は、草加くんにお願いしにここへやって来たんだよ。あんたと喧嘩するためじゃないんだよ」


 矢来が、僕に微笑む。


「草加くんもリコちゃんもこんなわずらわしいこと、ちゃちゃと終わりにして、お家に帰りたい。そうじゃないのかい?」


 僕は、釈然としなかった。この体の圧迫感が、脅迫しているような感じがした。僕とリコさんは、お互いの目を見合わせた。彼女は、不機嫌そうだったが、矢来の言い分に傾いているふうに見えた。


「なにをすれば?」


「二階に行こうか。鏡の部屋ね。リコちゃんは、帰っていいよ」


「あたしのこと知ってるの?」


「俺も飼育部だよ。雷事件のことは、耳に入ってる。去年は、忙しくて、学校に顔出せなかったもんでさ。鏡を壊すなんて無駄なことして大変だったね」


 リコさんは、苦笑いをした。


「いくな…」、四枝さんが、わき腹を押さえて、うめいた。


「四枝さん、あとで保健室に行きましょう」


「そうそ。あとで手当てしてもらいなよ。四枝さん」


 矢来は、嫌みったらしく四枝さんに言った。


「保健室には、あたしがつれていくわ。馬鹿につける薬があったらいいんだけど」


 僕は、矢来と二階へ上がり、鏡の部屋へ入った。


「僕が断ったとしたら、どうしました?」


「そんなことは絶対ないよ。俺は君の味方なんだから、君も、俺の味方になってくれる。君は、話のわかる男だろ?」


 矢来は、天井の鏡を見上げて、あの針の光を見つけた。


「おお、前より進んでるね。君も見て、上に光ってるやつがあるでしょ?」


「知ってます。今日見ましたから」


「話しが早い。光の真下に立って」


 僕は、光を見つつ、下へと移動した。例のごとく、僕の服だけが鏡に映っている。矢来も同じだ。


「さあ、あれに来いって命じるんだよ」


 と言われたが、どうしていいのかわからず困った。


「ど、どんなふうにです?」


「声に出しても、言葉を頭の中で思っても。光を見て、呼べよ」


 僕は、言うとおりに思った。不思議だった。光は、隔たりがないかのようにゆっくりと落ちてきた。これを目にすると、鏡が、窓に変わってしまった風な錯覚を起こしてしまった。明らかにあれは鏡に映ったものではなかった。次第に輝きを放っているものの輪郭が見えてきた。向かってくる速度も増してくる。


「きたきた。とめるなよ」


 形は、長さ三十センチはある十字架だ。とうとう、それが手前まで落下してきて、僕は、怖くなり、目をふさいでその場を飛びのいた。音も衝撃もない。


 目を開けると、矢来が、それを手にしていた。どうやら空中で捕まえたらしい。僕もその物体を眺めた。それは、装飾もなにもなく、全体にミラーコーティングされて、先が尖った形をしていた。


 矢来は、喜んで興奮していた。その十字架の端を持って、振っている。彼の目が、その十字架といっしょに輝いていた。


 僕は、拍子抜けしていた。そんなものがなんだっていうんだ。


「あの」


「ああ、行っていいよー」


 矢来は僕に関心をなくしたようで、あれを手のひらにのせ、眺めたまま、言った。


 一応、旧校舎の職員室を見に行ったけれど、リコさんと四枝さんはいなかった。


 新校舎の保健室にも四枝さんはいなかった。


 部室に行けば、もしかしたら会えたかもしれない。でも、面倒な言い合いになりそうだと思い直し、家に帰った。帰路の途中、こうするしかなかったと、何度も言い聞かせた。けれど、煮え切らないものが、胸の中で残っていた。






 翌日の学校は、気が重かった。思い出すことは、四枝さんと矢来、そしてあのマスターキーと呼ばれるものだった。僕も、リコさんと同じように、元はといえば、すべて四枝さんの責任として考えて、腹を立てたら、気が楽になった。


 僕は、授業中、ポケットの中を探って四枝さんが地下通路で渡してくれたパラライザーという武器の感触を確かめた。こんな物騒なものを持っている必要は僕には、ないから、返しにいくべきだと思った。


 放課後の方が、彼が、部室にいることが多いと感じていたので、昼休みは、窓の外を見ながら、考え事をして過ごした。


 どうして、あのマスターキーというやつは、僕が思っただけで動き出したのか。矢来は、そのために僕を呼んだ。どうして、それが僕にしかできないんだろうか。リコさんでもなく僕だ。僕が最近、鏡の部屋に入ったからだろうか?


 クラスメイトの女子たちが、雑誌を見て騒いでいる。水上湯々のことを思い出した。彼女は、矢来が言ったとおり無事であるか、自分の目で確かめたくなった。水上さんのクラスは、アンケート用紙に書いていたから、覚えていた。


 彼女の教室をのぞき見てみる。それらしい女子は見当たらない。僕は、ちょうど廊下から教室へ入ってくる女生徒に聞いた。


「あの、水上さん、今日来てる?」


「あ、はい…来てますけど」


 女生徒は、不思議そうな顔をして僕をじろじろ見て言った。


「そう。ありがとう」


 それだけ聞いて僕は、安心して自分の教室に戻った。


 午後の授業で妙なことが起こった。数学の授業で本来なら僕が当てられて答える順番だったのに、先生は僕を飛ばして、次ぎの生徒に回した。クラスのみんなは、誰も反論しなかったし、僕も黙っていた。


 やっと放課後になって、部室へ行く前に、一人では心細いので、リコさんを誘おうと二年生の教室に急いだ。彼女は、今日、登校していないようだった。空が曇っているからか。


 東棟の廊下は、相変わらず埃まみれだ。部室の扉は、開きっぱなしになっていた。昨日ヤスリを取りに行った時のままだ。なかは、僕たちがヤスリを探して、棚や机の引き出しを引っ掻き回したから散らかっている。


 部屋を片付けて、四枝さんを待った。三十分ほどとどまって、いい加減、しびれが切れてきたが、ここに武器を置いていくわけにはいかない。僕は、上履きで東棟から出て、犬小屋の場所に行った。四枝さんがいるかもしれない。彼は、すすんで犬の散歩をする人ではないとは思ったけれど、そういう日もあるだろう。


 犬の鳴き声がしている。きっと四枝さんがそこにいるからだ。駆け足で校舎を回りこんだ。


 犬小屋の周りで三人の男子生徒が、よってたかって二匹の犬に石を投げつけている。前にも会った、あの不良だ。僕は一瞬たじろいだが、気をしっかり持って、やつらに近づいていった。


「やめてください」


「この前は、よくもやってくれたな」


 三人組が振り返り、敵意の眼差しをよこしてくる。僕は、平静を装って、二匹の犬とやつらの間に割って入ろうとした。


「すかしてんじゃねー殺すぞ」


「殺せ」


 やつらは、二人がかりでつかみかかり、足を払って僕を地面に転がした。


 金髪のやつを殴ってやろうとしたが空振りした。僕が倒れた後は、身体に三人の足が幾度もぶつけられる。顔や腹にも蹴りが飛んできて、身体をくの字に曲げて身を守る体勢を取るしかない。鼻から口から血が吹き出て、声を出すこともままならなくなった。


 犬たちは吠えるのをやめていた。


「疲れた。やめようぜ」、息を切らして三人組の誰かが言った。


「くそが」


 痛みに耐える僕に唾を吐いて、やつらは足早に去っていった。


 惨めだ。


 蹴りを一発、顔に食らった時点で怖気づいてしまった。男の自分が、リコさんほどの勇気をもって、やり返す度胸もないなんて、情けない。


 痛くて立ち上がれなかった。震える手で鼻血をぬぐった。ゆっくりゆっくり、上半身を起こし地面に座った。


 ロンと新しい犬(どっちがどっちか未だにわからないから、新しい名前がつけらない)が、舌をだらり垂らし僕の哀れな姿を見て、うろうろしていた。こんな姿を見られるのは犬だけにして欲しい、そう思った。


 新校舎の三階あたりから、人の影か降りてくるのに気がついた。落ちているわけでもないし、体育館と校舎の間に階段などない。人影は、一歩一歩踏み出して地面に近づいた。空中に浮いているのだ。痛みのおかげで僕は、それをどうでもいいような気持ちで見ていた。


 影が、犬小屋のあたりに降り立つと、それが矢来であるとわかった。彼を見定めると耳に違和感が走った。それは、蹴られた傷のせいではないと思う。


「草加くんは、無抵抗主義なのかい?」


 僕は、黙っていた。


「つまり、力つかわないのか?そういうこと」


 口の中にあふれた血を吐き出して、僕は言った。


「そんなもの、僕のどこにあるってんです」


 僕は、顔の傷に触れた。痛くてたまらない。


「四枝は、君に何も教えてないんだなあ。じゃあさー」


 彼は、不良が去っていった方を指差す。矢来は、芝居がかっていて、身振り手振りの多い人だ。


「俺が、あいつら、やっつけてやろうか」


「なんのために?」


「お前が、よわっちいから、助けてやろうっていうのに、理屈っぽいよな。同じ特権にあやかったもの同士、奇跡は分かち合わないと」


「結構です」


「でもね。この犬たちも同じ気持ちだと思うぞ。守ってもらったこと、忘れない」


 矢来は二匹の犬をなでた。悲しそうにくーんと鼻を鳴らす。


「おなか、空いてる?えさ貰った?」


 今日、リコさんも四枝さんも学校に来ていないとするなら、誰も餌をやってないことになる。


 矢来は、昨日の手に入れたマスターキーを取り出した。太陽光に照らされて全体がぴかぴか光った。


 彼は、いきなり、それで犬の頭を刺して、柄の部分を捻った。


 犬の顔が歪な形に変形して、零れ落ちそうなくらい目玉が飛び出た。


 矢来が犬の頭からマスターキーを引き抜く。犬からは、血が一滴も出ていなかった。四本足をふらつかせて、涎をだらだらとたらし、唸り声を上げた。首輪につながれた鎖を引き千切って口を思い切り開く。


 犬の体形が、みるみるうちに一回り大きく変貌していった。中型犬が山羊くらいの大きさになったのだ。今はしゃっくりのような呻きをして地面を見て動かない。


「首輪がきついのね。ほいほい」


 矢来は臆すことなく、変わり果てた犬にかかった首輪を外してやった。


 もう一匹の犬が、その大きくなった犬を前にして恐れをなし、犬小屋の中へ逃げ込んだ。できれば、僕もそうしたかった。猛獣と化した犬は、野太い咆哮をあげて、僕が座っている方へ突進してきた。


 足がすくんで立ち上がる暇もなかった。僕は目をつむってうつむく。が、猛獣は僕を素通りして、体育館裏から抜け出していった。


「ほらよ!覚えてるうちに、食い殺せ!」


 矢来は、犬の後姿に檄を飛ばし、胸倉をつかんで、僕をいとも簡単に背中に担いだ。


「見に行くぞ。つかまれ」


 耳が痛い。この感覚は、乗っている列車が、トンネルへ入った時に起きるのと同じだ。矢来は、僕を担いでいるにもかかわらず、素早かった。地面をすべるようにして、犬の後を追う。


「うまくいくかな?」


 東棟の横を抜けて、玄関までいった。下校しようとする生徒がたくさんいた。


「まずい。どれが獲物かわかんなくなるかもよ」


 猛獣を目撃した生徒が一様に立ち尽くしている。


 矢来は走りつつ、また階段に登るように、空中へ浮いていった。愉快そうに一言。


「ちょっと浮く!」


 不良が、まだそんなに遠くへは行っていないことは、わかっていた。上から位置確認する。彼は、人の目など気にしてはいなかった。


 不良たちは、正門への道からそれて、運動場へ降りる階段のところでたむろしていた。三人のうち、二人は髪を黄色や茶色に染めているのでよく目立つ。染めてないやつは自転車に乗っていた。臭いでわかるのか、正門の道から脇道へ入っていく猛獣。他の生徒は見向きもしない。


「かしこいぞー」


 正門の路樹の一本のてっぺんに隠れるようにして矢来は、空中に静止した。


 不良たちと猛獣の距離がつまってくる。吠え立てる猛獣に気づいた不良が、ようやく逃げ出した。自転車に乗っていたやつは、それを捨て、三人仲良く、階段を走り降りた。


 矢来は、声を上げて笑った。頭がおかしくなったのではないかと思ったほど、やかましい馬鹿笑いだった。


 運動場では、たくさんの生徒が、クラブ活動に興じていた。まだ入り口付近にいる運動部員が、何事かと、地の砂を巻き上げて走り込んでくる三人の形相に疑問を持つくらいだ。


 三人の不良の中で一番足の遅い金髪が、ばたりと転んだ。後の二人は振り返ることもなく、突っ走った。


 金髪は起き上がろうとしたが、金髪の背中には、猛獣の前足が、飛び乗って地面に押さえつけられた。運動場の目撃者たちは猛獣の風貌と行為に戦慄して、本能的にそこから遠ざかっていった。


 獲物が、獣の腹に収まるうちに。運動場の砂を血に染めて、人が餌食になっていく姿、それを誰も止めるものはいない。


「殺せ、殺せ、殺せ」、矢来は引きつり笑いをして、言った。


 僕は、テレビ中継でも見るようにぼうと眺め続けた。


 猛獣はひとしきり獲物を貪ると、血がべっとりついた口を足で擦って、運動場の地平を見回した。取り逃がした報復の対象を探しているのか。犬は再び走り出した。


 矢来が、サングラスとマスクをかけ始め、「このへんでいいしょ」と言って、自分の肩から、僕を木の先端に移し変えた。


 彼が、木の先端から真っ直ぐ運動場へ駆け下りた。木が風勢で、しなる。その速度は、地面に着くと、さらに加速し、犬のところへ直行した。まるで鳥が飛んでいるようだった。誰もいなくなった運動場をあっというまに犬と並走している。僕には矢来が何をするつもりなのか見当もつかなかった。


 彼は、猛獣の横っ腹に掌底を叩き込んだ。


 猛獣は、打撃を食らったところから、五十メートルは吹っ飛び、砂煙を上げながら何度も回転して止まった。


 矢来は、倒れた猛獣のかたわらに立った。生死を確かめているようだ。それから、さっきと変わらぬ速さで木のてっぺんに戻ってきた。僕は、木の上から身動きしない犬をじっと見ていた。犬は決して立ち上がらなかった。


「すっきりしたか?」


 矢来は、僕を木から下ろして、言った。


 圧倒されて声も出ない。四枝さんがなぜあの時、僕にあんなにもこの人のところへ行くな、と懇願した理由がわかった。この人は、なにかが壊れている。そしてマスターキーの意味。こういうことだったのか。






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