五,さよなら
彩世が大学に来なくなったのは、冬休みが明けてすぐのことだった。
後期の試験が近く、勉強に追われていたので、気にはなっていたけれど私は彼女の家を訪問しはしなかった。
私は彩世の家を知らない
そのことに気づいたのも、彩世が大学に来なくなってからなのだ。
あんなに色々な話をしたのに、家も携帯の番号も、彩世については何ひとつ知らかった。
薄情な気もするけれど、私と彩世との間にあったのは、そんな普通の友人関係などではない気もする。
はっきりとした言葉が、私たちの間にはなかった。
お互いを知らな過ぎたから、良い関係だった気がするのだ。
彩世は、あまり自分のことを話さなかった。
意図的だったのか無意識だったのか、彼女はただソクラテスについて私の考えを問うてきたり、自分の思うことを述べていただけで。
ああ、けれどやはり、私たちは友人だったのだ。
「神谷梗子さん、ですか?」
「え?」
今日の倫理学の授業にも彩世は来ていない。
私はいつもと同じ席に座り、授業が始まるまでの短い読書に没頭していた。
そこに声をかけてきた見知らぬ女性徒は、けれど私のことを知っている口ぶりである。
「・・・そう、ですけど」
「ああ良かった。これ、泉から預かったの」
これ、と差し出されたのは封筒で、封筒には確かに私の名前が書かれている。
それは見慣れた字、彩世の書いたものだった。
「彩世?」
「そう。泉、大学辞めたみたいだから」
女性徒の意外な言葉に、私はしばし呆然としてしまった。
彩世が、大学を辞めた?
「あ、辞めたんじゃなくて、休学かな?あの子、留学したみたいなの、ヨーロッパに」
「留学?」
今まで、彩世の口から留学をしたいなんて言葉、聞いたことはない。
まさに寝耳に水だ。
「突然だったみたい。教授たちも慌ててたし。変な子よね」
それじゃ、と言って、女性徒は去ってしまった。
私はすぐに渡された封筒を開け、中から手紙を取り出した。
神谷梗子様
突然の手紙に、梗子はきっと驚いているだろうね。
私が大学を休んでいることを気にしているだろうから、手紙という形で今私が置かれている状況を知らせておこうと思います。
と言っても、あなたに手紙を書こうと決めてそれをあなたに届ける術がないということに今更気づいてしまいました。
驚いてしまうね、あれだけ沢山色々な話をしたのに、私たちはお互いの住んでいる場所さえ知らなかったのだから。
実を言うと、私は入学式の時から梗子のことを知っていました。
入学式の日、あなたは大学の校門前に植えられている大樹を見上げていたでしょう?
誰もが希望を抱え、校舎に向かって歩いているなか、あなたはただ一人あの大きな樹を見上げていた。
その姿に、私は自分と似たものを感じたんだ。
梗子、私は冬休みが明けたら、大学を休学してヨーロッパに行ってこようと思います。
まだ詳細は決まっていないけれど、ギリシャには足を運ぶつもりです。
梗子には分かってしまうと思うけれど、ソクラテスがやろうとしたことを知りたいから。
決して西教授のように、ソクラテスは素晴らしい、なんて言う気はないけれど、何度も言ったように、私は彼がやろうとしたことに興味があるんだ。
彼は一体何がしたかったのか、何が出来たのか。
そして、彼は本当に知者だったのか。
求めたところで確固たる真実が知れるとは思わないけれど、自分なりに納得のいく答えを見つけてくるつもりです。
それまで、さようなら。
泉彩世




