四,真実はふたつ
『知らない』ということを『知っている』人こそ知者である。
『知らない』ということを『知らない』人は知者ではない。
この世ではPhysis(肉体)は見えても、その中身であるPsyche(魂)、つまりそれをイデアと呼ぶが、そのもの自体は見えない。
例えばここに三角形がある。
三つの直線に囲まれたそれは、どこからどう見ても三角形だ。
けれど、ソクラテスをして言わせるなら、それは三角形では決してない。
ソクラテス曰く、直線には面積があってはいけない。
けれど線を引けばわずかだが面積が生じてしまう。
そんな面積を持った線は直線ではなく、したがって直線ではない線に三辺を囲まれた三角形は三角形そのものではない。
そんなソクラテスの最期はあっけないものだった。
彼には変わった癖があり、道の真ん中や戸口の前などで急に立ち止まり、何時間でもぼーっと立ち尽くしていることが多々あったらしい。
何故急に立ち尽くしたりするのか、ある人物がソクラテスに尋ねると、彼は、ダイモンの声が聞こえるから、と答えたそうだ。
ダイモンとは神の名である。
けれどその神は、ソクラテスの暮らす国、アテナイの神ではなかった。
当時のアテナイでは、アテナイの神以外の神の声が聞こえるなどと言ってしまったら、処刑の罪により罰せられていた。
ソクラテスは、そして処刑されたのだ。
「彼の人生を充実したものだ、と言える人がこの世にどれほどいるだろう?」
彩世はノートを閉じながら私にぽつりと問うた。
私はノートから目を離さずに、考えてみた。
「・・・少なくとも、西教授はそう思ってるみたいね」
課題提出は今日の午後四時までだ。
私は彩世のノートから写し取った英文の訳を読みながら、同時に原稿用紙を埋めていく。
「彼は正しかったのか、それとも正しくなかったのか。それを決めてしまうにはこれはあまりに難しい問題だと私は思うよ」
彩世が意外なことを言ったので、私はペンを走らせる手を止め彩世に視線を向ける。
「難しい?」
「そう。この世には沢山の正義や秩序があるだろう?日本国憲法によれば、人を殺すことは犯罪だし、そんな決まりがなくても、誰かを殺すなんてリスクの大きすぎる業に手を出す人間なんてそうはいない。けれど、一方では止むに止まれずと言った理由だってあるのだと、暗黙の了解のようになっていることだってあるんだ」
犯罪者にも弁護人がつく、それは憲法による『平等』の原理に基づくものだ。
多くは、何という屁理屈だろうと感じることばかりだけれど、例えば、復讐という言葉の前で『平等』は揺れ動いてしまう。
そして正当防衛という言葉の前でも。
「つまり、たった一つの真実なんてないということの例えだと、私は思う」
「ソクラテスの人生を肯定する人がいても、彼の人生を無駄なものだと言ってしまう人がいても、当たり前?」
あまりに突飛すぎる例え話だけれど、大袈裟に言ってしまえばそうなのかもしれない。
たった一つの『正しい事』なんて、この世のどこにもない。
「ある意味ではソクラテスの生き方は正しかった。そして同時に、あまりに愚かな人生だったとも思うよ」
そう言う彩世の目は、どこか遠くを見ているようだった。
それは、道端や戸口の前で急に立ち止まり、何かの声に耳を傾けているソクラテスの姿を思わせる。
私はしばらく、そんな彩世の横顔に見惚れていた。
「ほら、あと一時間だぞ?」
「え?ああ・・・」
彩世に微笑まれ、私は忘れていた原稿に視線を落としながら考えた。
裁判にかけられたソクラテスは、何故、ダイモんの声など聞いていない、と答えなかったのだろうか。
多分授業ではその理由を言ったのだろうが、私はその時の授業には出ていなかったので理由を知らない。
けれど私は、わざと彩世には聞かず、ただ考えてみた。
もしかしたら彼は、生の世界に嫌気がさしていたのではないだろうか。
三角形に屁理屈をつけてまで、イデアの世界を主張していたのは、生の世界を嫌っていたからではないのだろうか・・・。




