第1話 婚約破棄の夜、私は鍋を持って出ていった
「君との婚約を破棄する。料理人のような女を、妻にはできない」
アルノー様がそうおっしゃったとき、私の右手には鍋つかみがありました。
場所は、ベルナ伯爵家の秋の夜会。
料理人が階段で足をくじき、晩餐の汁物だけが間に合わないと聞いて、厨房へ入った帰りです。
招待客の皆様は、その事情をご存じでした。
それでも、婚約者が私を指して笑うと、何人かはつられて口元を緩めました。
「ソフィア。俺が欲しかったのは、隣に立って恥ずかしくない令嬢だ」
お隣には、淡い桃色のドレスを着たヴィオラ様。
彼女も、この場で婚約破棄をされるとは聞かされていなかったらしく、笑顔を固めています。
私は自分の指を見ました。
爪の横に、かぼちゃの黄色が残っています。
二年前、初めてこの家を訪ねた日。
私の焼いた菓子を食べて、彼は言いました。
君が妻なら、毎日が楽しみだ、と。
あの言葉は、覚え違いだったのでしょうか。
いいえ。覚え違いにしてあげる必要は、ありません。
「承知いたしました」
鍋つかみを畳むと、アルノー様が眉を上げました。
「わかればいい。料理の帳面は置いていきなさい。厨房の者が困る」
「私が自分で作ったものですので、持ち帰ります」
「君は、料理をするのが好きなんだろう?」
その質問だけは、簡単でした。
「はい。だから、大切に扱ってくれる方のために作りたいのです」
私は厨房へ戻り、火を落としました。
仕上げたスープは、料理長に預けます。足の痛む彼は、椅子の上から何度も頭を下げました。
「お嬢様のおかげで、宴が続けられます」
「足を休めてくださいね。明日はお医者様へ」
持参した小鍋を洗い、料理帳と一緒に鞄へ入れました。
母の形見です。底に少し傷がありますが、まだよく働きます。
父から預けられた婚姻準備金は、婚約成立の条件が消えれば実家へ戻す契約でした。書記に解消の書面を作っていただき、双方で署名しました。
アルノー様は、その段になってようやく落ち着かなくなりました。
「金まで持ち帰るのか」
「私の父へお返しします」
彼は何か言いかけましたが、ヴィオラ様が袖を引きました。
私は二人へ一礼し、玄関を出ました。
王都の秋の夜は、思っていたより冷たいものでした。
宿へ向かう途中、温かな窓を見て、立ち止まりました。
小さな食堂の壁に、求職者向けの札が貼ってあります。
――グレイス公爵邸。夜間の食事を担当する料理人募集。
住み込み可。試作と面接あり。男女、出自を問わず。
その家の主は、呪われた公爵と呼ばれる方でした。
眠らず、笑わず、人を近づけない。
そんな噂を、私も耳にしたことがあります。
でも、勤務条件の最後には、こう書かれていました。
――作る人も、食事を取れること。
私はそこを、二度読みました。
アルノー様の好物を作っているうちに、夕食を抜くことは珍しくありませんでしたから。
この世界へ生まれる前の私も、給食を作る人でした。
母に抱かれた六歳の頃、ふいに思い出したのです。日本という国も、沢井美緒という名前も、雨の夜に乗っていたバスが濁流へ落ちたことも。
二十九年の人生は終わり、今の私は二十歳のソフィア・エルド。
二度生きても、やっぱり作ることが好きでした。
明日、この家を訪ねてみよう。
鍋を抱え直すと、鞄の中で、匙が小さく鳴りました。




