侯爵令嬢エミーリエの脱出
エミーリエ・バートランドの地獄は、十歳で第一王子と婚約したことから始まった。
伯爵家以上の同世代の令嬢が集められ、何度か王子と交流するためのお茶会が開かれたのを覚えている。
そこで選ばれたのが、どうしてかエミーリエだった。
当時、第一王子の婚約者は王国の二大貴族家と言われているアードルング公爵家とヘルツフェルト侯爵家の令嬢だろうと思われていたため、歴史が古いだけのバートランド侯爵家の令嬢が選ばれたことに、誰もが驚いた。
中でも一番驚いたのは、間違いなくバートランド家だっただろう。
しかし、王家からの打診を断るほどの理由はなく、エミーリエ自身も当時は嫌がっていなかったため、両家の婚約は滞りなく結ばれた。
この時に全力で嫌がっていれば良かったと、のちにエミーリエは何度も後悔した。そうすれば、いくらことなかれ主義の父でも考え直してくれたかもしれない。一度婚約してしまってからそれを解消するのはなかなか難しいのだ。
改めて第一王子と対面することになった日、エミーリエはたくさん緊張と少しの期待で胸をいっぱいにしていた。
仲良くなれるだろうか、どうしてエミーリエを選んでくれたのだろうかと、初めての婚約者にドキドキしていたのだ。
しかし、そんな淡い期待はすぐに砕け散った。
「近くで見ると、思ったより地味で平凡な女だったな」
「え……」
対面して自己紹介をしたエミーリエに、第一王子クリストフ・ヴェルデ・ファラリス
はつまらなそうな顔でそう言い放った。
クリストフ王子はきらきらと輝く金髪に王家特有の紫の瞳、国王陛下と王妃陛下の良いところだけを集めたような国一番の美貌の王子だ。
対してエミーリエはミルクティー色の髪に琥珀色の瞳という王国ではありがちな色の平凡な容姿だったため、王子はそう思ったのだろう。
だが、エミーリエ自身は母とお揃いのその色を気に入っていたし、今までそんなことは言われたことがなかったから驚いた。
クリストフ王子は、そんなエミーリエを一瞥すると、すぐにそっぽを向いてそれっきり無言だった。
色が平凡だから機嫌を損ねてしまったのかと、当時のエミーリエは不機嫌になった王子の横でオロオロとすることしかできず、初めての茶会はひたすらに気まずい空気のまま時間がきて終わった。
だが、それは始まりにすぎなかった。
クリストフ王子は自分が美しいからか、外見の美しさに絶対の自信を持っており、外見で人を見るところがあった。
彼からすれば、エミーリエは容姿が平凡な分、王子の婚約者として最初から劣っており、隣に立つためには相応以上の努力をするのは当然なことだったのだ。
じゃあなんで婚約者に選んだんだ、というのがエミーリエの疑問だったが、クリストフ王子に聞いてもただただ、分かるだろう? というエミーリエが理解して当然という様子で全く話にならなかった。
クリストフ王子には自分の世界があって、周りはそれを理解して当然なのだった。
王子の婚約者として、エミーリエはひたすらに努力を求められた。
学園の成績はもちろんのこと、礼儀作法、マナーは完璧でなくてはならず、婚約してから始まった王太子妃教育もあって、エミーリエの毎日は過酷なものとなった。
王子との気まずいお茶会は、その次のお茶会も、その次もとずっと碌に会話が出来ないまま続いた。
エミーリエがどうにか会話をしようと話を振っても返事はこず、一杯の紅茶を飲み切ると飽きたように中座してしまう。
そんな茶会が三回続いた時点で、エミーリエは父にそのことを相談した。
父も困惑していたが、婚約して半年もたっていないのに解消なんてできるはずもなく、その時はまだエミーリエもどうにかして今の関係性を正せないかと考えていた。
父から話がいったのか、やがて王妃様から王子妃教育の際にお話しする時間をもらうことが出来たが、王妃様言うには王子はただ婚約に照れているだけで、彼は心からエミーリエとの婚約を望んでいて、エミーリエを好いているのだと言われた。
あまりに現実の王子と乖離していたので信じられなかったが、王子の母である王妃様が言うのだからと、またしばらく耐えて様子見ることにした。
しかし、結局その後三年たっても王子の対応は変わらなかった。
その間、クリストフ王子から贈られた物は全て王子の好みで選ばれ、王子の婚約者用の予算から作られたドレスやアクセサリーが届けられた。
エミーリエの好みは一度も聞かれなかった。
デビュタントが済むとそれを着て夜会に出るよう言われたが、夜会に出てもいつも王子はすぐにあちこちへ行ってしまうため、エミーリエは夜会では最初のダンスを踊った後はいつも壁の花だった。
王子はその美貌から令嬢に大人気で、集まる令嬢たちと次々に手を取り楽し気に踊っていた。対して、エミーリエはクリストフ王子の婚約者であるため、彼のいる会場で気軽に誘ってくる男性などいない。エミーリエが美しければ違ったかもしれないが、王子の不興を買ってまで誘うほどの美貌はエミーリエにはなかったのだ。
その頃になると、社交界ではエミーリエは名ばかりの婚約者であり、クリストフ王子には本当に愛する別の本命がいるのだろうという噂がたつようになった。
全員が信じているようなものではなかったが、この婚約には何か裏があるのかもしれないと勘繰られるようになった。
実際、エミーリエ自身も、クリストフ王子の気持ち云々は建前で、何か裏があるのだろうと思っていた。
エミーリエが選ばれてしまったことに、何か訳があるのだと思いたかったのだ。
そうじゃなければ、過酷な王太子妃教育や令嬢たちからの嫉妬や嫌がらせ、クリストフ王子からの冷遇を受けている意味が分からなくなるから。
でも、違ったのだ。
クリストフ王子の婚約には両陛下の親心から、クリストフ王子の希望が最大限反映されたのだと知ったとき、エミーリエの心の糸は切れた。
「だって、君は私を愛しているだろう? 私も、君を愛しているよ」
そう言って、当然のように微笑んだ王子の瞳には、人形のように微笑みを張り付けた自分の顔が映っていた。
宝石のようにきらきらと輝く紫色の瞳は、本当に宝石で出来ているのかもしれない。だから、目の前に座るエミーリエの表情が、最初から少しも変わっていないことに気付かないのだ。
自分の望むラベルを貼るだけだから、彼にエミーリエの真実は必要ないのだ。
毎日、事故が起きないかと願った。
今すぐ、婚約者の頭に天から雷が落ちてこないか、遠乗り中に落馬しないか、はたまた誰かが投げた鈍器が彼に命中しないか。
誰でもいい、何でもいい、このどうしようもなくくだらない現状をぶち壊してくれる第三者を求めた。
求めて求めて。そんな不確かな誰かを待っていても無意味だと分かったから、自分でその誰かを連れてくることにしたのだ。
◇◇◇
「こんばんは」
『おやまあ、自力でここに来た子は百二十年ぶりだね』
夜よりも暗い漆黒の闇のなか。竜でも焼けそうなほど大きな竈の煤の中に寝転んでいた魔女に、エミーリエは声をかけた。
古い文献を漁って、古語まで身に着けて突き止めた魔女の館は、踏み込んだ瞬間、夢なのか現実なのか分からない空間だった。エミーリエは立っているのもやっとだったけれど、意地で笑みを浮かべた。
「貴方にお願いがあってまいりました」
『うんうん、私は人の願いを叶えるのが好きだけど、それは私の気が向いたときだけなんだよねぇ。今は眠くて、そんな気分じゃないんだけどぉ』
「では、貴方の気が向くまで待ちましょう」
『ここでかい? 気が狂っちまうと思うけどねえ』
「構いません。とっくに壊れていますので」
『ほう?』
淡々と微笑み話すエミーリエに、魔女は興味がわいたのか、面白そうに体を起こした。
「願いを叶えていただけますか?」
『願いの内容だけでも聞いてみようか』
「お城で、王太子に魔法をかけてほしいのです」
エミーリエは自分の願いを魔女に話した。
『王太子に、あんたの心を読む魔法をかければいいのかい? そうしたら、一生あんたの心は王太子に筒抜けになるよ。なーんにも隠せなくなる』
「それでいいんです」
不思議そうに首を傾げる魔女に、エミーリエは頷いた。
「そうすれば、私はあの人に、私の真実をぶつけることが出来る。ただの言葉じゃ信じてもらえないんだもの」
言葉はいくらでも取り繕って、嘘がつける。
大丈夫、僕は分かっているよ、と微笑んで決めつける王太子を、いつもぶん殴ってやりたかった。
「私の心です。勝手に決めつけて、勝手なラベルを付けることなんて許さない」
微笑みながら、その瞳に怒りの炎を燃やすエミーリエに、魔女はにんまりと笑った。
『面白い。いいよ。その願い叶えてやろう。少しは退屈しないでいられそうだ』
「ありがとうございます」
魔女の言葉にほっとして、エミーリエは久しぶりに心から笑った。
◇◇◇
「婚約解消が決まったわ!」
半年後、エミーリエは満面の笑みで魔女に報告した。
「王太子が城の幽閉棟に閉じこもって出てこなくなったの」
『おや、案外持たなかったねえ』
「ほんと、一年も持たないなんて、貧弱過ぎてがっかりよ」
がっかりと言いつつも、エミーリエの声には喜色が滲んでいた。
クリストフ王太子は、エミーリエの心からの罵倒に耐えられなくなった結果、エミーリエから離れようと自ら王族の幽閉棟へ入った。
王族の幽閉部屋は、周囲から隔絶するために高い高い塔の階段を昇り切った最上階にある。王宮の敷地でも中央から離れた森の中にぽつんと立つ棟の天辺ならば、エミーリエの心が聞こえることもない。
安息の地を手に入れた王太子は、そこに籠って出てこなくなったのだ。
政務を放棄して閉じこもったクリストフをいつまでも王太子としていられるほど、ファラリス王国も甘くはない。
国王はクリストフの甘さと弱さを嘆き、第二王子であるアルベルトを王太子にした。
アルベルトには婚約者がいなかったのでエミーリエをという声もあったが、そうするにはエミーリエに良くない噂が些か広がり過ぎていた。
見方によっては、クリストフに冷遇されたエミーリエが、第二王子を王太子にするために動いたようにも見えるのだ。それほどにクリストフの転落は突然であっという間だった。
「私は婚約解消で実家に帰るわ。お父様は厄介者の私を領地の屋敷に押し込めたいみたいだから、貴方に会うのは今日が最後ね」
『あれま、お前さん、それに従うのかい? 婚約者に一矢報いるために魔女の館まできちまう令嬢が?』
「あの時は、本当にどうなってもいい気持ちだったのよ。何もかも茶番でくだらなくて、ぶち壊してやりたかったの」
過酷な教育と政務に追い詰められて、自暴自棄になっていたのだ。
その反動もあって、心の声での罵倒はとても楽しかった。
ひとたび口に出せば不敬罪で首が飛びそうな言葉でも、心の中で呟くだけなら自由だ。他の誰にも聞かれず、聞かせたい本人だけを罵倒できる状況は、エミーリエの心を羽のように軽くした。
「おかげ様で、とてもじゃないけど令嬢が口にしないような言葉も呟いちゃったわね。心の中で、だけど」
『願いが叶ったから、もういいのかい?』
「まさか」
探るような魔女の視線に、エミーリエはからりと笑った。
「一生、あのクズを罵倒し続けるつもりだったのだけど、思いのほか軟弱であっという間に解放されちゃったから、これからは好きにするつもりよ」
王太子妃だったおかげで、礼儀作法も外国語も堪能だ。なんなら古語も読めるし歴史にも精通している。
王太子妃としての能力は優秀だった。付きまとう不名誉な噂さえなければよかったのだが、それが社交界では致命的だっただけだ。
「少し大人しくしたら、他国へ行くわ。母方の姓でも名乗って一からやり直すわよ。まだまだ若いんだし」
国から解放されたからか、随分と解放的な気分だった。
今なら何にでもなれるし、何でもやれそうだ。
「家には迷惑をかけたから、ちょっとは申し訳ないとも思うけど、あのクズからの仕打ちを訴えても結局何もしてくれなかった不満は残ってるのよね」
だから、全てを置いていなくなることにした。
もともと、実家は親戚から養子を得て跡取りにする予定だったのだ。王家に嫁ぐと決まった時点で、エミーリエの未来は家とは切り離されている。
いなくなっても困る人間はどこにもいない。
『おんや、じゃあ透明になれる薬をあげよう』
エミーリエの言葉に、魔女は懐を探ってひとつの小瓶を取り出した。
ひと際優しい、甘くとろりと纏わりつく声で言う。
『家からも王家からもきっと追手は来るだろう? これさえ飲めば、誰にも見つからず、好きな所で好きなことが出来るよ。それこそ、真の自由じゃないかい?』
(ああ、これは確かに甘えたくなっちゃうわね)
欲しい物を欲しい瞬間に差し出される。そのタイミングが絶妙だ。
「あら便利ね。効果範囲は?」
『自分の体と、それに直接触れている服までは消えるよ。手荷物なんかは直接持ってても消えないけどね』
「まあ、それじゃあ身一つで逃げることになっちゃうわ」
『咄嗟に隠れるくらいならこれで十分だよ。追手が過ぎ去ったら隠した荷物を持って逃げればいい』
エミーリエの質問に、魔女は優しく丁寧に答えてくれる。
魔女は嘘は言わない。しかし、全てを話しているわけでもない。
「持続時間は? ずっと消えてるの?」
『ああ、ずっとだ。飲んだら生涯消えたまま。誰にも見られず、気ままな旅が楽しめる。なあに、お腹が空いたら誰かの皿から取ればいい、料理にデザートに食べ放題だ。歌劇場も美術館も入り放題見放題、好きにしていい。今まで好きにできなかった分を取り戻さないとねぇ』
それは今のエミーリエにはとても魅力的な話に聞こえた。
こうやって、魔女は人々の願いをかなえてきたのだろう。
願われたものも、そうじゃないものも。
楽し気に笑い煌めく魔女の瞳は、まるで新しい劇を見ているかのようにエミーリエを見て輝いていた。
「ふふ、素敵ね……でも遠慮するわ。透明人間をやめたくて仕掛けたんだもの。見られるのは寧ろどんと来いよ」
『……そうかい』
エミーリエが胸を張りながら笑うと、魔女は一瞬のうちに目の前の薬を消した。
ふっと甘い声が消えて、聡明な老魔女が目の前に立っていた。
『なら、あとは好きにするといいさ。少しは退屈凌ぎになったからね』
そう言って、魔女はエミーリエの前から姿を消した。
それ以降、調べた方法で魔女の元へ行こうとしても、魔女の館にはたどり着けなかった。
きっとまた、彼女の気が向いたときに誰かの前に現れるのだろう。
(さあ、私も行きましょうか)
ここから先、天国も地獄も自分次第。
魔女の誘いを断ったエミーリエは、ひとり、自由になった未来に向けて歩き出した。
最初は気持ち悪い王子様が自爆する話が書きたかったんですが、なかなか自爆しなかったので待ちきれなかった令嬢が頑張る形になっちゃいました。でも総じて魔女の気まぐれが強い。




