episode - 7 『異変と異常』
七月三日、午前六時。
スズメの囀りが、遠くの方で聞こえた。やがて、それが少し近づいた時、森川千尋は瞑っていた目を徐に開く。
「ん……ぅ」
寝ぼけた声と、瞼の裏に張りつく眠い目をこすりながらゆっくりと起き上がった。
足元の見慣れた学習机と、ベッドの横にあるクローゼット、腰あたりまでの本棚にずらりと並んだ漫画。
狭くも広くもないちょうど良い一人部屋を少し一瞥して、
(ああ……、そうか、)
家に帰ってきたのだ、と、そう自覚するとほっとした安心感が心に滲む。
と言っても、そこまで感傷的になっているわけでもなく。
少ししてから、ベッドの頭の方にあるデジタルの目覚まし時計を手に取った。
時間を確認して、アラームが鳴る三十分前に起きたことを知ると、まだあと少し横になれたと心の中で少し損した気分になっていた。
「緊張……でもしてるのかな」
微睡んだ声で、そう独り言を呟き、小学生かよ、と心の中で情けない己への補足。
無理もない。今日から一週間ぶりに学校へと登校しようと言うのだ。
医者からは、特別止められているわけではない。
が、何分まだこめかみの裂傷の抜糸も終わっておらず、様子見ということでまだ休息は必要だと言われてはいる。
しかし、千尋にはどうしても確かめたいことがあったのだ。
そう、ちょうど一週間前に自らを半殺しまで追い詰めようとした気の狂った女・十六女杏子のこと。
六月二十八日以来、その姿を見せるとはなく、すっかり安堵していたところに二日前の押し花の栞――。
裏切らないで、というクロッカスの花言葉を用いた何とも生易しい比喩。
結局遠回しに「通報するな」という意味合いを込めたものだ、とその花言葉を聞いてから瞬間的に千尋はそう決めつけた。
そして、その日、固く心に決意した『静かな宣戦布告』。
奴を通報すること……、それを一時的に止めて、自らの手で奴の心を暴き、そして最終的には、
「自首させる」
その言葉と同時に、半袖のワイシャツを羽織った。
頭の中で一連の出来事を振り返りながら、千尋は身支度を整えていた。
こうして、制服を着るのも一週間ぶりだ。期間で言えば、とてつもなく短期間だが、それでも病室は暇を持て余してしまうし、
流れる時間がとても緩やかだった。妙な高揚感と緊張感が三割、残りの七割は、恐怖だ。
「あ、」
姿見の前に立つ千尋は、思わず声をあげた。
ワイシャツのボタンを留める右手が、小刻みに震えていることに、気がついたからだ。
左手で、ぐっと右手首をきつく握り、青緑の気色悪い血管が浮き出るほど締め上げた。
「…………、」
母から、退院した時に聞かされたことが一つある。
意識を取り戻したその日の真夜中のことだ。
眠っていると思っていたら突然言葉にならない叫び声をあげ、ベッドの上でのた打ち回っていたらしい。
あまりにも激しくのた打ち回ったせいかベッドから転げ落ちて、その日に食べたものを口や鼻から吐き出し、
駆けつけた看護婦が来た時にはその吐瀉物が気管に詰まって呼吸困難になっていた、と。
『ねぇ…、千尋。あの日の夜、本当は何があったの?』
昨日の、車を運転していた母の後姿を思い出した。
記憶の中の、その声色は、ひどく抑揚はない。
それを思い出して、千尋は、深く息を吐く。
不幸中の幸いか、吐瀉物を撒き散らしていたその場面に母はおらず、また帰ってきてからもその現象が起こることはなかった。
とは言ったものの、今のところは、だが。
「……よし」
右手の震えがようやく止まったところで、千尋はスクールバッグを持って部屋を静かに出た。
※ ※ ※
病院食生活が続いていたせいか、食欲は前に比べて落ちてしまったらしい。
朝食も食べる気が起きず、結局家を出るまでに口にしたものは牛乳くらいだ。
朝は比較的家の中はばたばたしている。と言っても、母・千穂が、だが。
夕飯の用意をして、自らの身支度に加え、朝から仕事の用件で電話応答。
音量をかなり小さめに流しているテレビの中では、七月二日の明朝に発見された『怪我人の不良ら』の話で持ち切りだ。
昨日の出来事をまるで今日起こったことのようにやかましく、そして大々的に取り上げ、
大袈裟にコメンテーターは声を張り、犯罪心理学だののお偉い先生は冷静につらつらと分析結果を述べる。
「ここ最近、こんなんばっかだな」
ダイニングテーブルの椅子に座っていた千尋はそう言って、マグカップに入った牛乳を一口飲んだ。
付け加えるように、
「テレビってこんなにうるさかったけ」
暑苦しい映像の絵面的にもそうだが、なぜか小さめに流してるはずのテレビの音量がどうも耳のすぐ近くまで聞こえてくる。
あまりにもうるさく感じてしまい、少し顔を顰めて、手元のリモコンで電源を落としてしまった。
スマートフォンで時刻を確認して、ちょうど仕事内容の電話が終わった母に向かって、
「母さん、行ってくるよ」
「あら、そうなの?今日は、早いのね」
「まあね、早めに学校に行きたいし。どうせ今日行ったら次の日は土日で休みだから」
そう言いながら、千尋は席を立つと、足元のスクールバッグを取り上げ、肩から斜め掛けする。
ダイニングを早々に出ると、普段玄関先まで見送りなどしない母がついてきた。
背後から感じる母の視線は、いつになく強く感じる。
心配、の二文字が千尋の脳裏に過った。
(無理もないか)
そう淡泊に思いながら、ローファーを履いた。
立ち上がり、心配させないために上っ面な笑顔を作って、
「それじゃあ、」
徐にドアノブを下げ、扉を開けた。
今更『行ってきます』なんて、照れくささもあって言えはしなかった。
外へ出る挨拶も、普段ならリビングで済んだのだ。
そう、『普段なら』。
「気をつけて……、行ってらっしゃい」
あくまで心配を見せないようにしたのだろう。
けれど、笑顔で見送ろうとした母のその顔は、ひどくぎこちなかった。
バタン、とゆっくり閉まった扉。
千尋は、しばらくその場に留まり、ゴツン、と玄関扉に額を軽くぶつける。
そして、何事もなかったように面をあげ、歩を進めた――。
※ ※ ※
「なんだ…よ、これ……」
千尋は、通学によく歩いた見慣れた大通りに出て、気づいた。
外は夏らしく、朝からかんかん照りだ。
しかし、天候のことなど、むしろこの『現象』に比べたら、眼中に入りはしなかった。
パー、と道路を走る乗用車が軽く鳴らしたクラクションが、鼓膜を突き抜けて三半規管を揺らす。
「う…ぐ……」
まるで激しく悪戯に回されたグローブジャングルのように目の前の景色が目まぐるしい。
人の話し声、ハイヒールの足音、笑い声、
車の走行音、犬の息遣い、自転車のベル、
全ての『日常の音』が大音量のヘッドホンをつけて聞かされているように耳元で鳴り響く。
千尋は何か危機感を感じ取り、思わず、住宅街の路地に逃げ込んだ。
眩暈とイカれた聴覚、三半規管と直結しているように胃の中をぐちゃぐちゃと搔き回されているようだ。
そして、
「おげぇえ……」
さっき家で飲んだ温かい牛乳が胃液とともに、口から飛び出た。
空っぽの胃は、悲鳴をあげるように気管を押し上げ、最後の一滴まで丁寧に吐き出させる。
四つん這いになっていた千尋は、胃が落ち着いてから、どて、と後ろに尻もちをつくように腰を下ろした。
嘔吐したことで、生理的に出た妙に熱のこもった涙が頬を伝う。鼻水を拭い、ぜーぜーと息があがる。
自分の体に何かが起きているのは、理解できた。
しかし、なぜそうなったのか、この短時間ではまだ分からずじまいだ。
「クソ」
真っ白でどこか粘着質な、自らの吐瀉物を一瞥し、思わず吐き捨てた言葉。
回らない頭を抱える。まだ幻聴のように耳に残るクラクション。
これから、登校しようというのに、幸先が不安だった――。
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