episode - 5 『器用さと念入り』
蒸し暑い夕暮れがやってきた。
今日もまたうなされて眠りにつく人が多そうだ、とキンキンに冷房が利いた病室のベッドに腰をかける千尋は、他人事のようにそう思った。
白い壁や真っさらなベッドはその陽射しをふんだんに吸収して、オレンジ色に染まる。
ベッドにはスライド式の机があり、その上には紙袋から取り出したノートや課題のプリントがそれぞれ重ねられ、置いてあった。
課題プリントには一通り目を通したが、一方の十六女が書き写した授業ノートには手つかずだ。
千尋は、ここぞとばかりに大きく溜息をつき、「よし…」と意気込んだ。
ノートは五冊ほどあり、国数英社理と学科ごとにまとめられている。適当に手に取ったノートには『現国』と表紙にとても丁寧な字で書かれていた。
千尋は、開く気が起きないのか、しばらくそれを眺めるだけ。情けない、と己でもそれは重々分かっていた。単純に、怖い、の一言に尽きる。あんなことをされておきながら、トラウマにならないわけがない。
威勢があっても、それはその場の勢いのようなもの。一人になると、どうも恐怖感が消えず、十六女杏子の名前を聞くだけで思い出すだけで、手が軽く震えるくらいだ。
それくらい、心には影響が出ている。
千尋は、またここで一息つき、何が書かれていようと怯えないことを決意した。
そして、片目をぐっとつむり、表紙を開いていく。
それは、ゆっくり、ゆっくりと。
徐々に開かれ、日の目を見始めた一ページ目。
千尋は、少し覗いたそれを視界に捉えた瞬間、何かの『違和感』に気づいた。
思わず慄いてつむっていた片目を開いて、ばっと勢いよくノートを開く。
そこに記されていたのは――、
至って何の変哲もない授業を書き写した必要最低限の文字の羅列だけだ。
暴言や、脅迫めいたものは、一切書かれていない。
「な、んだよこれ……」
千尋は、呆気に取られたように言い、それを食い入るように見る。あまりにも心配性をこじらせ、縦読みや斜め読みと文字のありとあらゆる角度から読んで、それらしきものを探したが一向になかった。
一ページになければ、二ページ目、三ページ目、四ページ……とノートをめくればめくるほど、千尋の当ては外れていく。まるで粗探しする方がよっぽどおかしいと思わせるほどに悪いものは、何一つ書かれていない。
ただ洗練な線の細い字で、見えやすい文字サイズで綺麗にまとめられた文章だけが、全てのページに記されていた。
だが、千尋には、あの狂気じみた女が丁寧にノートを取るなんてそんな善人のような行動が考えられない。しかも、それは自分の『行い』を法的機関に通報しようとしていた千尋のために取るなんて――。
(絶対、何かしらのメッセージを隠しているはずなんだ……)
裏を掻い潜りたくなるが、いくらページをめくろうとあるのは『善い十六女』の顔しか出てこない。学校では絶対に見せない優しげな微笑を貼りつけ、人の懐にすんなりと入り、その人物の印象操作を根深く植えつけるそんな彼女の姿を、千尋は思い浮かべた。
すると、ぼんやりと、思考は停止し、自然と手が止まった。
めくられることも閉じられることもなく、ただ開かれただけのノートは冷房の風で少しそよいでいる。千尋は、項垂れてただノートに視線を落とすだけだ。
そして、ふ、と息を吐いた。
(だめだ、飲み込まれる……)
そう思ったのは、なぜだか分からない。漠然とそう思ったのだ。
美しい花の美味たる蜜のように思えたそれは、食虫植物だと気づいた時には遅い。粘着質な体液で手足を拘束され、全身にまとわりつき、捕らえて逃がさない。
そして、蠅は甘い蜜の匂いに包まれて、己の身に何が起こったかなんて一生分からないまま死んでいくのだ。
千尋は、そうなるわけにはいかなった。
頭を軽く振って、記憶からその十六女杏子の姿を振り払った。
そして、またノートに視線を落とし、思う。
(厚意じゃないにしろ……、課題には役立つだろうな)
千尋は、疑念を今だけは取り払い、物の捉え方を変えてなるべく良い方に受け取ろうとした。
現国のノートを、ぱたり、と閉じてゆっくりと腰の裏手に置く。そして机の上にある次のノートを手に取ると、表紙には『数学』と書かれていた。
最初の数ページは、十六女の字ではなかった。
どうやら、高崎が言っていた『初日だけ』ノートにまとめてくれた数人の女子の誰かだろう。
しかし、それが誰かを思い当たる間もなく、十六女が書いた洗練な文字の羅列へと切り替わる。普通の女子より、よっぽど字が綺麗だった。
可笑しい話で、人を襲い、血祭りにあげる人物が書く字とはとても思えないほどだ。心の荒みすら、そこからでは垣間見えない。
また流し読みし終えると、また流し読みし、数ページの十六女ではない他の女子の字を見、いつの間にか切り替わる十六女の字を見つめ、次のノートへと、また次へ。千尋はその行動をただ単調に続けた。
読み終えたノートは、腰の裏手側に回り、乱雑に置かれていた。
やがて、嵩があったのに手を伸ばしただけでは空を掻くだけになる。
ふ、と机に視線を向けると、ノートは最後の一冊だけになっていた。
「これで、終わりか……」
表紙には『物理』と題されていた。
さすがに、もう何も書かれていあないだろうと、指で紙を弾きぱらぱらとノートはめくっていく。
すると、ノートのちょうど真ん中あたりにきた時、
「ん…?」
ひらりと千尋の膝に何かが落ちた。
それに視線を向けると、
「しおり……か?」
拾い上げると、それは和紙のようなもので作られたしおりのようだ。反転させると、一房の紫と白を基調とした花が押し花にされていた。
「何の花だろう……」
そんなことを呟いた時だった。
病室の入り口から、女性の大げさに疲れた溜息が聞こえ、千尋はそこへ目を向けた。
「あら、起きてたのね」
「母さん、ああ…大丈夫?」
そこには母の千穂がいて、彼女は片腕に大きな紙袋を抱え込み、もう片手に花をあしらえたバスケットを持っていた。
千尋は、慌ててベッドから立ち上がって駆け寄ると、重たそうな紙袋をひょいっと千穂から取りあげる。
千穂は「ありがとう」ととても助かったように笑って言うと、千尋は「いえいえ」とまた少し笑って返した。
紙袋の中を見ると、今にもこぼれそうな程果物がいっぱいに詰め込まれた。
「どうしたのさ。こんなに買ってきて」
冷蔵庫に入るかな、と千尋がぼそっと言うと、千穂はバスケットを木製の戸棚の窪みにそれを飾りながら、
「全部あなたのじゃないわよー。お世話になった看護婦さんや先生たちにもお裾分けするの。でも大人買いしちゃったから、半分以上は千尋と私で消費しなきゃいけないけど」
「なんだ、また店の人に煽られたの?買ったじゃなくて、買わされたくせに……」
「だって、べっぴんさんって言われたんですもの。買わないわけにはいかないわよ~」
えっへんとなぜか得意げなお調子者の母を見て、千尋は呆れたように大きく溜息をつき「へいへい、そうでござんすね~」と返しまともに取り合うのをやめた。
んふふ、とにやつく上機嫌な母をよそに、千尋は次に顎をくいっとあげてバスケットを指し、
「それは?母さんの自作?」
「ああ、これは…ほら、母さん今フラワーアレンジメント教室に講師しに行ってるでしょ?そこの生徒さんが作ってくれたものなの。息子さんのお見舞いの品に、て」
千穂は「センスあると思う、この人」と付け加えるように言って、少し傾いていた花を手直しする。
温かみのある色合いのバスケットに薄緑のギンガムチェックの布を淵から覗かせるように出し、そこに小さなひまわりを主にオレンジや薄い黄色、白などの花をあしらえたアレンジメントを見て、確かに心惹かれるものを感じた。
男というのもあるのかもしれない。花は母が生業としているが、千尋自身はからっきし興味があまり湧かず、そのせいかその方面に詳しくない。
よって、「……なんていうか、見てて心が暖かくなるよ」とそのまま千尋は感想した。
しかし、まるで自分のことのように千穂は嬉しそうに微笑んでいる。
すると、ふと千尋の手にあるしおりに目が止まった。
「クロッカスの押し花?珍しいわね~」
「ああ…これ、そんな花の名前なんだ?」
「ええ、そうよ。……ふふ、千尋ってば色男ね~」
「は?」
千穂の言葉に千尋は、思わず顔をしかめた。
千穂は、それを気にも留めず、
「それがどんな花言葉か、知ってるの?あなた」
「知るわけないだろー、そんなこと」
いきなり色男呼ばわりされて、少し癇に障った千尋は母を押しのけ、戸棚の隣に設置された小さな冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。
冷蔵庫を開けると、紙袋からこぼれ落ちないように支えて、一つ一つ手に取り丁寧に入れていく。
そんな息子を見ながらにやにやする千穂は、続けて、
「クロッカスの花言葉はねー……、『私を裏切らないで』」
その言葉が耳に入った瞬間、手にもっていたオレンジが、ごとっ、と重たい音を立てて地に落ちた。
「え……え!?」
千穂は、ごろごろと転がってベッド下に隠れたそれを見て、慌てたように声をあげる。
そして、かがみ込み同じくベッド下にもぐり込む。
「も~、せっかく買ってきたのに~…粗末に扱っちゃだめ――、千尋…?」
そこから出てきた千穂の目には、息子の背中が見えた。冷蔵庫に伸ばしたまま固まる手は、震えている。いや、手だけではない。体も少なからず何かに怯えているかのように震えていたのだ。
俯かせる顔は、背後からでは確認できない。
しかし、千穂の目はそれ以外に、息子の『変化』を捉えていた。
「千尋……、その手の怪我、」
そう言った瞬間、ハッとしたように千尋は硬直し空を搔いていた手を下げた。まるで、何かをひた隠そうとしているように。
すると、
「ごめん、ちょっとトイレ」
「え…?あ、ちょっと待――った!」
そう言って、千尋の立ち上がった。その拍子に支えをなくした紙袋はぐしゃりとその口を曲げ、まるで吐き出すようにごろごろと色とりどりの果物が零れ落ちる。
慌ててトイレへ向かおうとする息子を静止しようとした母は、ベッドの下で勢いよく頭をぶつけていた。
母の声を振り切り、ただ脳天に走る痛みに耐えながら、病室を出る息子の足を千穂は見送ることしか出来ない。
その表情は、なぜか、いつになく見えることがなかった――。