episode - 3 『病床と再会』
暗闇が、怖かった。
覆い被さるような闇が目の前を支配して、体の感覚を麻痺させていく。
暗闇の中は生温いんだ。
例えるなら、蒸し暑い熱帯夜みたいな温かさだ。分かるだろ?とても気持ち悪くて蒸れるんだ、肌が。
暗闇の外から声がした。
『チヒロくんは、お姉さんのことが好きよね?』
※※※
瞼が何回か小さく痙攣すると、森川千尋は目を覚ました。
目覚めの悪い夢をまた見てしまったようだ、あの夢の続きのようだが、しかしどことなく違うのだ。
例えるなら、靄がかかって見辛かった『景色』が徐々にはっきりしていくような、それに似ている。
そんなことを思いながら微睡みの中で、いつもと違う景色を彼は見た。
見覚えのない、大きな白い天井だ。火災報知器のついたそれなど、千尋の知っている自宅の自室ではない。
「どこだ……、ここ」
ぽつりと呟き、やけに怠い体を起こすことなく、視線を左に傾けた。
真っさらで新品、生活感のない簡易ベッドが向き合って五つ設置されている。千尋の寝ているベッドも合わせて、計六つ。
「病院…?……ッ」
何故だ、と思いながら記憶を振り返った途端、ずきん、と頭痛が走った。
苦悶の表情を浮かべながら、今度は右に視線を向ける。
陽射しは、カーテンにより遮られているが、たまに吹く風によって靡いたそれをかいくぐって病室へと射し込む。
その窓の隣に設置された暖かみのある色合いをした木製の戸棚があった。
そこのちょうど真ん中あたりにある窪み―物を置く思われる場所―にあった、デジタル時計を千尋は見つけた。
「今日の日づけは……二十八日?」
寝て起きたと思えば、いつの間にかタイムスリップしたかのような感覚に捉われた。
だが、千尋は、二日前に起こったことを綺麗に忘れているわけでない。むしろ、きちんと補完されていた。
なぜ、この病室でベッドに横たわり、頭周りや腕などに包帯を巻かれ清潔なガーゼなどで処置されたかを――。
「早く…っ、警察に知らせないと……」
強い意思を感じさせるように呟きながら、ベッドの柵に掴まり、体を起こす。
すると、
「せ、先生!」
病室をちょうど覗きにきた看護婦が意識を取り戻した千尋を見て、すぐに廊下の向こう側へと声を張り上げた。
すぐさま、駆け足と共に白衣を靡かせた医師が到着。
看護婦と共に入室してくると、
「意識を取り戻したかい?」
そう尋ねてきた。
看護婦は無理やり起きようとしている千尋を宥めながら、再び寝かせた。
千尋は、医師の言葉に気怠げに首を縦に振る。
医師が白衣の胸ポケットからペンライトを取り出すと、彼の目に光を当て、瞳孔の様子を伺った。
眩しい光が彼の眼球に直射され、左右確認し終えると、
「意識もはっきりしているようだ。でも、まだ起き上がるのは危険だよ?安静してくれないと……、今度からはナースコールを使うといい」
「は、はい……すいません」
畳みかけるように要件を簡潔に伝えられ、千尋は謝るしかない。
頭部に大怪我をしたのだ、患者を預かる立場からしてみれば妥当の言葉だろう。
その後、聴診器や血圧、体温などを簡易的に診察されていると病室の入り口から、
「千尋!」
声を震わせてそう叫んだのは、40代くらいの女性だ。
ツヤも少ないその黒く長い髪を一つにまとめて、薄い白い生地のサマーニットを羽織っている。
その女性を見て、千尋は、
「…かあ、さん……」
「あんたって子は…!」
その呼び声に、千尋の母・森川千穂は医師を押し退けて我が子に抱きついた。
か弱い声からは叱っているようだが、言葉を詰まらせる。
無事であったことが、何よりのようであった。
「ごめん、母さん。心配かけて……」
抱きついた母を見て、千尋は少し苦笑しながらも答える。
当たり前だ、とでも言うように千穂は千尋に軽くボディーブローを食らわせた。
それを見た医師からは、「あまり激しい歓迎は……」と小声で言われたが、それでまた千尋は頬を綻ばせた。
しばらくして千穂も落ち着きを取り戻し、その頃合いを見て、千尋は医師を見つめた。
「先生、あの、僕の……頭の具合は?」
そう尋ねると、医師は少し表情を困らせて、
「意識は失っていた期間は二日間だけで、幸い脳にもダメージはほとんどなかったし、陥没骨折自体も浅く軽いものだったよ。ただしばらくは様子を見るために、ここにいてもらうけどね」
「それって、いつまでですか?」
「あと三日から一週間程度かな」
それを聞いて千尋は、表情をしかめた。
そして、
「……警察を呼んでくれませんか、話したいことがあるんです」
「え?あ、ああ……」
なぜか、医師は戸惑いを隠せないような表情を見せた。
まるで、深刻そうに言う千尋を不思議がっているようだ。
母の千穂は、「千尋、あんた大丈夫なの?まだ目が覚めてすぐだっていうのに……」と心配そうに耳打ちで伝えたが、千尋には時間がないと思った。
(僕は、襲われたんだ。十六女に……)
はっきりと、克明に覚えている。
これから一生恐らく忘れることが出来ないであろう、連続通り魔事件の犯人である同級生に殺されかけたことを――。
六月二十六日のその日のことを、まるで走馬灯のように記憶が駆け巡る。
満月の夜、
血を垂れ流している男たち、
長い黒髪を靡かせた同級生、
血、
高架――。
無表情で見下ろすあの顔を思い出すだけで、妙な動悸に襲われる。
まだ手先が震えるほどの恐怖が、心に居座っていた。
ひどい眩暈がして、ぐっと目を瞑ったその時。
カツン、とやけに耳に残る、学生が履いているローファーのような足音が聞こえた。
「良かった、ようやく目が覚めたんですね」
凛とした声に可愛げをわざとらしく混ぜ合わせたかのような口調。
千尋の視線が、病室の前に向いた瞬間、瞼をひん剥くように見開いた。
そこにいたのは、
「し、十六女……?」
白を基調としたセーラー服と細い赤リボン、膝丈の涼しげなに生地で黒という日光を吸収やすいなんとも矛盾した夏用の女子学生スカート……制服姿に身を包み、長い黒髪はハーフアップにしてあの古くさい丸眼鏡をかけ、自らを襲い、殺害未遂までした十六女が平然とそこに立っていたのだ。
「あら、杏子ちゃん!いいタイミングね!千尋ったら、もう目が覚めたのよ」
「そんな言い方しないでくださいよ、千穂さん。昨日までずっと森川くんの隣で付き添って、泣いていたじゃありませんか」
ふふ、と緩んだその口元が千尋の目には一瞬、とてつもなく悍ましい笑みに見えた。
言いながら、ゆっくりと一歩、また一歩と千尋のベッドににじり寄ってくる。
千尋の目の前で、千尋を半殺しにした女は、なぜか楽しそうに自分の肉親と話していた。
なんだ、この飲み込めずただ流れる理解できない状況は――。
だが、まだ明瞭な事実が、千尋には見えていた。
「か…っ、母さん!そいつから離れろ!」
「えぇ?」
突然怒声をあげた千尋に驚いて、素っ頓狂な声をあげる母に千尋は続けて、
「こいつだよ!こいつが、僕を襲ったんだ!」
必死に千尋はここが病院であることも忘れて精一杯声を張り上げ、悪の根源を、ギッ、と指差した。
だが、「え?」と千穂はさらに呆気に取られるだけ。
いや、周りの医師も看護婦も襲った張本人である十六女でさえも小首を傾げていた。
「千尋……何言ってるの?杏子ちゃんは、あなたが倒れているところを、『助けてくれたのよ』」
その言葉に、思わず耳を疑った。
千尋は、飲み込めない状況ばかりが立て続きに起きてパンクしそうな脳みそで「は…?」とだけ呟く。
「だから、『たまたま通りかかった杏子ちゃんが、血を流して倒れてるあんたを発見して、救急車を呼んでくれたのよ』」
「……な、なんだよ…それ……」
「他にも倒れている人たちがいて、それもまとめて彼女が救急車を呼んで助けてくれたの!杏子ちゃんは、あなたの恩人なのよ」
「そ、そんなことって……」
ありなのか、と言いかけた言葉は喉のところで止まって消失した。
千尋は、母の言葉を一瞬信じてしまいそうになった。
だが、途端にブルブルと頭を左右に振り、キッと不敵な笑みを浮かべる十六女を睨みつける。
そして、『事実』を叫んだ。
「違う!こいつが犯人なんだ!今までの通り魔事件だって、こいつがッ――――」
「大丈夫よ、」
その瞬間、ふわりと、千尋はか細くて生温かい腕の中にいた。
それが、十六女の腕だと理解した瞬間、グリッ…!と右肩の後ろに何かが突き刺さる。
「ぐッ!?」
突然のことに、千尋は呻き声を上げた。
十六女は、そろり、と口元を彼の耳元に添わせ、
「言ったら、殺すわよ?」
喉奥からようやく絞り出したような掠れた声で、そう耳打ちした。
グリグリ、と得体の知れない痛みを生み出す何かを執拗に押し当ててくる。
その痛みに耐えようと、千尋は唇を噛み締めた。
どうあがいても、口を割らせないようだ。
「大丈夫よ、森川くん。きっと今までに味わったことのない恐怖で、記憶が混乱しているのよね。心だって深く傷ついているのに……」
まるで、お化けを見て騒いだ子供を宥めるような語り口調で十六女はそう言った。
しかし、その優しく抱き寄せる手のひらで、グリグリと『凶器』を千尋の右肩後ろの皮膚を突き破ってくる。
その痛みに耐えようと、声もあげずにただ唇を噛み締めるが、代わりに嫌な汗がじんわりと滲み出た。
(こいつ…ッ!やっぱり通報させる気なんて更々ないじゃないか!)
千尋の心は、憤怒と言い知れない苛立ち、恐怖で支配される。
すると、一見、我が子を優しく抱き締める十六女の姿を見た千穂は、
「ごめんなさいね……杏子ちゃん。また退院したら、千尋にはきっちりとお詫びしてもらうから……」
「千穂さん、私は気にしてませんよ!むしろ、こういう経験をしたんですもの。仕方ないですよ」
ありがとう、本当に優しいのね。という彼女の本性を知らない千穂は、涙ぐみながら感謝の意を示した。
最悪だ、と千尋の心は諦めにも似た心境が湧いてくる。
十六女は、子の言葉すら届かないほどの見えない壁を設置し分離させ、完全に状況を掌握したのだ。
用意周到、緻密なその計算に、千尋は更に恐怖心を抱いた。
「森川くん、きっと激しい頭痛がしたんだと思います。今日は少し寝かせてあげた方がいいかもしれません」
この角度からでは微妙に他者から見えない右肩後ろに手を添えたまま、体だけを千穂らの方に向けてそう言うと、
「ああ、そうだね。……あとはお願いしてもいいかな?」
「寝かせるくらいなら、私にも出来ますよ」
医師が看護婦の方を見て、そう言うと、十六女は朗らかな微笑みを浮かべて答えた。
医師もそこまでなら一人でも出来るだろうと踏んだのか、
「分かった、それじゃあお願いしてもいいかな。頼んだよ。……それから、千穂さん、千尋くんの症状や退院した後のケアなどについてお話ししたいことがあるので」
笑顔で答えると、その後千穂にそう話しかけた。
千穂は、少し心配そうにこちらを向いて顔を先ほどから俯かせている千尋を見る。
しかし、「安心してください」と言わんばかりに微笑む十六女を見て、やはり和んでしまう。
不思議な子だ、と思いながらも、視線を息子から医師へと向き、
「……千尋、またあとでね。ちゃんと休んでおくのよ」
千穂は千尋に優しく投げかけると、俯いたままこくっと彼は無言のまま頷く。
そして、行きましょう、と言って、医師や看護婦と共に病室を後にした。
二人っきりになった後も、まだ十六女は病室の入り口を見つめたまま笑顔を崩さない。
俯く千尋の額から顎へと伝い、ベッドへと落ちる冷や汗。先に口を割ったのは、十六女だった。
「画鋲を三本刺されたくらいで、あんなに人って大きい声を出すものなのね」
そう言いながら、右肩後ろに添えた手を勢いよく離した。
ブチッ!という音がしたが、千尋はぶるりと身を震わせ、
「ハァーッ…!ハァーッ…!」
その瞬間極限までにら浅かった呼吸が、正常値に戻ると途端に息を荒くした。
画鋲で刺したと思われるその部分だけの病衣は、赤い小さな斑点が四つ綺麗に並んでいる。
指と指の間に仕込んだカラフルなだるま型画鋲をスカートのポケットの中へと忍ばせた。
「森川くんって、痛みに対しての耐性でもあるのかしら。普通ならあまりにも痛くて突き飛ばしたりするはずなのに」
「それをッ!見込んで、わざと刺したんだろ…!お前は!」
荒い呼吸のまま、千尋は呑気にそう言う十六女を上目に睨みつけた。
すると、
「さぁ、それはどうかしら。私も、さすがにそこまで人を見る目はないわ」
彼女は楽しげに微笑んで、そう答えた。
少しずつ落ち着きを取り戻した千尋は、息を何回か整えて、
「…ッ!!」
ナースコールに飛びついたが、
「っだぁあ!?」
即座に十六女は、スカートの中にしまったはずの画鋲を取り出して千尋の手のひらに何の躊躇いもなく突き刺す。
「ナースさんなんて呼んでどうするのかしら?ナンパでもする気?可愛いものね、ナースさんって」
「冗談ほざいてろ!」
「じゃあ、どうしてナースコールを押そうとするのかしら」
「そんなの決まってるだろ、お前を通報するためだ」
千尋は、手のひらにぽつりと出てきた血を舌で舐め取りながら今だに食い殺す勢いで十六女を見つめる。
しかし、十六女は、それを意に返さないように平然とした様子で、
「そんなに焦らなくてもいいじゃない。あなたは、私とお喋りしたいと思わないの?」
「思わない」
「そう、残念ね。でも私は森川くんとお喋りしたいわ」
「人良さげに言わなくてもいいじゃないか、はっきり言えよ」
「何を?」
視線を艶めかしく流しながら千尋に尋ねると、それとは全く別の怒りに満ちた表情を浮かばせる彼は、
「僕が警察に通報しないように見張っているって」
そう言うと、十六女はまだ微笑を崩すことなく、しばらく沈黙した。
しかし改めて、ふ、と口元を綻ばせると、
「良いのよ、通報したって。警察に駆け込むなりすればいいじゃない」
「まだ言って…!頭でも沸いてんのか!」
普段の穏やかな千尋とは違い、その時は口調も荒かった。
それもそのはずだろう、そう言っておきながら十六女は今だに千尋に『通報させていない』。
「殺人未遂した挙句、今度は画鋲で故意的に脅迫!傷害!お前には、刑務所に入れても恨みが消えない!こんなことしておきながら世の中に放たれているお前が――」
「その威勢があるなら、『いつでも通報できるじゃない』。そうでしょ?」
トン、と跳ね上がるように千尋に背を向ける。
長く軽やかで漆のように美しい黒髪がしなやかに波を打つ間、千尋は見惚れてしまった。
その、誰もかけないような古くさいデザインの丸眼鏡の横から覗く、雪のように白くきめ細やかな肌と、切れ長で妖艶な雰囲気を醸し出す瞳に――。
「それじゃあ、さようなら、森川くん。また三日後に会いましょう」
そう言われるまで、スローモーションに見えた世界は一気に時間を取り戻した。
病室の出入り口へと向かいながら別れを告げる十六女に、千尋は「ああ…また……」と力なく答えるしかなかった。
千尋以外誰もいない病室では、狂気的な彼女の去り際を伝えるように湿気を含んだ生暖かい風が緩やかに病室に侵入する。
生暖かさだけが、病衣と肌が見えている部分だけを気持ち悪く撫でた、そんな静かな瞬間だった――。
こんばんは!活動報告でお会いした方は、また会いましたね。
えくぼ えみです(❁´◡`❁)
今回からなるべく改行多めで執筆していこうかなと…
アクセス解析を話別で見るとやっぱり一章-Aで読み終わっている方が多いので、やっぱり改行少ないのは読み辛いんだなとしみじみ思いました(:3_ヽ)_
それから、今回のお話は長いです。当方、特別章ごとでページ量が変わってきます。今回の二章からは、大体全パート原稿用紙16枚前後ですかね…。
楽しんで読んでもらえたら幸いです(*'-'*)
これからも精進してまいります、第三部まで読んでくださっている方には御礼申しあげます!ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします◡̈♥︎
それでは、次回お会いしましょう