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青春リンチ  作者: えくぼ えみ
三章 『スカートの中』
19/21

episode - 17 『手中』

 




 夕陽に包まれる歩道を、踏みしめるようにゆっくりと歩を進める。


 この日、千尋は、珍しく一人で下校していた。


 普段なら健吾と共に帰っていたが、最近までの心にかかった靄のような感覚のせいでうまく声もかけることも出来ず、誘い出せなかった。


 結局、今日は一人の方が気が楽だと思い立ち、そそくさと逃げるようにして教室を後にしたのだ。


 ぼんやりとした眼差しを携え、夕陽の後光で伸びる自身の影を見つめて、記憶は逆走する。



 蒸すような生暖かい音楽準備室で、使われることなくなった椅子に座る千尋と、その華奢で折れてしまいそうなか細い腕で抱き締めた十六女――。



 千尋と彼女の間に、特別な感情など、明白なまでに皆無だ。これまでの経緯を聞けば、百人中百人が、そこに桃色のような感情が生まれることはないと断言できるだろう。


 それなのに。


 あの時間だけは、そこだけを綺麗に切り取ったかのように静止して、春の麗らかな陽だまりに当たるように心地良さがあった。


 健吾の顔を浮かべる度に濃霧に呑まれたような心や、忌々しく大蛇のように締めつけ、呼吸すら忘れてしまいそうになる過去のこと。


 親友に対して抱く鬱蒼とした謎や、昔日に飛び交うトラウマによって生み出されるどろりとヘドロように黒々とした感情も、たった数分しかなかったあの時間では沸き立つことがなかった。


(僕は、何をしてるんだ)


 千尋の当初の目標は、十六女の更生。


 その過程で、周囲に危害が及ばないように彼女の玩具となり、ただ殴られるだけのサンドバッグに千尋はなっていた、はずだ。


 それなのに、いつの間にか、それとは全く関係のない己のことを、見たくもなかった大きな心の傷を抉り、開いて、べらべらと自白してしまった。


「やっちゃったな……」


 千尋は、いつかの『狂人(シシメ)』に大怪我を負わされた左の米嚙みに手を添えて、独りごちる。


 こんな事態を、誰が予想しただろう。


 千尋の脳内では、エマージェンシー、と心の防衛サイレンががなり立てる。これ以上深入りするな、と頭の隅の方で『自制』側の己が、声を掛けてくるようだ。


 狂人の相手を適当にしていれば良かったのに、いつの間にか、その狂人相手に弱味を見せるなんて。


 今の千尋は、まるで、いつどこで肉食動物が息を潜めているかも分からないのに、野っ原で呑気に雑草を食べるウサギのようなものだ。


 冷静に、又どうでもいいそんな喩えで現状把握する。

 そんな考え事をしているとわいつの間にか、自宅マンションのエレベーターに乗っていた。


 電子板の数字が、繰り上がっていくと、千尋は、一つ息を吐いて、憂鬱な気持ちを切り替える。母・千穂に要らない心配をかけたくない為に、今日も何事もなく平穏に過ごせたと振る舞うように『態度』を生成。


 ポン、という電子音のあと、エレベーターは止まり、徐ろに鉄扉が開いた。


 右方向の廊下を少し歩いて、黒い玄関扉の前に立つと、ポケットの中から鍵を取り出し、鍵穴にそれを差し込んで、カチャ、と開錠し扉を開ける。


「ただいまー」


 いつも通り、変わりなく帰宅を伝えると、千尋は砂汚れたスニーカーを脱ごうと、踵部分を踏んづける。


 そのまま部屋に上がろうとした時だ。


「ん…?」


 見慣れた玄関は、いつもと少し違っていた。

 玄関先には、仕事終わりの千穂の黒のパンプスと、見慣れない男物の革靴があったからだ。


「誰か、来てる…?」


 普段からあまり来客がない、森川家。今回は誰かが来ているということが物珍しくもあり、千尋はそう呟いた。


 踵部分のスニーカーを踏んづけたまま、しばらくそれを見ていると。


 パタパタ、とスリッパの足音が部屋の奥から聞こえて、そこへ目を向けた。


「ああ、おかえり、千尋」


 リビングの扉を開けて、千穂が微笑んで出迎える。

 千尋は、スニーカーを脱いで、部屋へ上がると、


「ただいま。…母さん、誰か来てるの?」


「あ…うん、まぁね」


 どこか取り繕ったような笑顔で、千穂が言った。


 千尋が、気まずそうにする千穂の態度に、怪訝そうに眉を顰めていると、


「息子さん、帰って来ましたか」


 リビングの方から、現れたのは、ぱりっとした灰色のスーツを身に纏い、きっちりとネイビーのネクタイを締めた男。


 綺麗に分けた七三分けの髪と、人に柔和な印象を与える笑顔の整った顔立ち。180cm以上はあろう長身とすらりとした体型も相まって、モデルのように見えた。


 思わず見入ってしまった千尋は、さっと千穂に目を向けて、「えっと…、」と落ち着かない様子で聞き返した。


 千穂は、その男を手で指して、


「ああ…、この人は、五嵐川(イソカワ)さん。警察の方よ」


「警察…?」


 千尋は、驚いたように目を開いて、五嵐川を見返した。


 五嵐川は、ふ、とまた柔らかく微笑んで、胸ポケットから、さっと黒革の警察手帳を出して、


「改めて、私の方から…。五嵐川 京紫(イソカワ キョウジ)と言います。雪野署捜査一課の刑事です」




 ※※※




 カチカチ、と壁掛け時計の秒針が、やけに近く、鼓膜に響く。


 千尋の自室には、なぜか刑事・五嵐川がいた。


 円卓テーブルに両肘を置いて腰を下ろし、部屋の主である千尋より随分とリラックスした様子で、またその笑顔も崩れてはいない。


 その向かいにいる千尋は、冷房の効いた部屋にいるにも関わらず、蛇に睨まれたように嫌な汗が滲む。


 五嵐川が、家の廊下で自己紹介を終えた直後。


『申し訳ないのですが、お母様。千尋君と、二人っきりでお話をしたいので…宜しいですか?』


 五嵐川の言葉に、母の千穂は何の疑いもなく、それに二つ返事した。


 その後、同意を得たことを確認するように目配せした五嵐川に、千尋は、どこか心に引っ掛かりを感じつつも、自室に案内したわけだが……。


 刑事が、家に来た。


 特に悪事を働いたこともない一般的な高校生として過ごしていた千尋に、後ろめたいことはない。しかし、それ以外のことには、大いに心当たりのある。


 少し落ち着いたとは言え、今だ世間を騒がせる『通り魔事件』。子供心ながらに安直に思うのは、事件の犯人が逮捕されたのでは、と思った。そして、その犯人は、同じクラスメイトであり、尚且つ秘め事を共有している十六女だ。


 つまり、罪人を隠匿していたことがバレた、と危惧していた。


 依然として、五嵐川は、数分前に『話したい』と言っていたのにも関わらず、口を開くことはない。不気味な程に、その笑顔を崩すことなく、千尋を見ている。


 それに、居心地の悪さを感じた千尋は、視線を逸らして、遠慮がちに声をあげる。


「あの…、それで、何かあったんですか」


「ん?ああ…、突然のことで驚かせてしまったね。学校帰りで疲れているだろうに、申し訳ない」


 五嵐川は、また取り留めのない笑顔と物腰柔らかな口調で謝罪する。


 千尋は、首を横に振って「大丈夫です」と短く返事した。


 それに気を良くしたように五嵐川は、また一層と笑顔を深めると、


「学校では、変わりないかな?体調や怪我の具合は、大丈夫かい?」


「学校は、それなりに楽しく過ごせてます。体調も良いし、怪我もたまに痛むくらいで、そこまで深刻にはなってないです」


 千尋は、緊張を悟られないように、淡々と答えた。


 彼の答えを聞いて、「それは良かった」と、五嵐川が安心したように言う。


 同じ空間に、法律と秩序を重んじる機関の人間がいる。その事実は、千尋の心に重くのしかかり、自らの部屋であるにも関わらず、取調室に早変わりしたようだ。


 言い表しようもない居心地の悪さに、千尋は、落ち着かない心臓を一刻も早く一定値に戻したくて、口を開く。


「それで…、話したいことっていうのは、なんですか?」


 五嵐川は、千尋の質問に、思い出しように「ああ、そうだね」と声を上げると続けて、


「それじゃあ、本題に入ろうか。…森川君は、被害に遭った通り魔事件のことは、覚えているかな?」


「はい…。そりゃもうハッキリと…」


 千尋は、心臓の高鳴りとそれに比例して大きく増していく『秘密』を悟られたくないように、控え目な声で、そう言った。


 五嵐川が、両肘を立てて、両手の指を組み合わせると、


「…入院している時も、他の刑事さんに色々聞かれたんじゃないかな?被害に遭って間もないのに、無遠慮で申し訳ないね。うちの刑事の対応は、大丈夫だったかな?」


 物腰柔らかく相手を気遣うように、そう声をかける。

 五嵐川の言う通り、千尋が入院している間にも事情聴取に来た刑事はいた。結局、十六女から悪戯に与えれた恐怖で、何も言えずじまいに終わったが―。


 千尋は、五嵐川の問いかけに頷いて、


「皆さん、優しく聞いてくれたので…。それよりも、僕の方が、刑事さん達が知りたかった情報を教えられなくて…すいません」


「いやいや、気にしないで。何せ犯人は、ヘルメットを被って、こんな猛暑日にコートを羽織るおかしな人間だ」


 はは、と五嵐川は軽く笑って言うと、その冗談に釣られて、ふ、と思わず千尋も頬が綻んだ。


 五嵐川は、続けて、


「今までだって他の被害者からは、犯人の人相を聞けた試しがなかったんだ。誰も、知りはしないさ」


 独りごちるように思ったよりも小さな声で言った。


 一瞬、言い知れぬ薄暗さが煙のように漂う。千尋は、うまく聞き取れず、訝しるように眉を顰めた。


 五嵐川は、その上がった口角を真横に戻すと、切れ長の瞳に濁ったような光を宿した。


 千尋は、どこかで感じたような既視感のある畏怖で、体が、がちりと音を立ててしまうのではと思う程、硬直してしまう。


 五嵐川は、まるで難詰するかのような鋭い眼差しで、千尋を睨みつけた。


「ところで、千尋君。君に、一つだけ質問していいかい?」


「…な、なんですか?」


 喉から絞り出したような怯えた声で、千尋は聞き返した。


 すると、五嵐川は、どこか翳りが垣間見える微笑を浮かべて、


「君は、本当に、犯人に心当たりはないのかな」


 その表情とは裏腹に、やけに棘のある問い詰めるような声色で、彼は、そう聞いた。


 コロコロと仮面が入れ替わるような表情の変化から、こちらを覗く五嵐川の『本性』。


 それが、一体どういうものなのか。およそ学校という小さな箱庭以外での対人経験が少ない千尋には、推し量ることは出来なかった。


 だが、白日の如く明確に、その笑顔の裏に潜んでいる『もの』からは、だだならない恐怖を感じさせる。


 千尋は、思わず固唾を飲み込んだ。鏡を見なくとも、顔は滲み出た恐怖の色で固くぎこちないものになっているだろう。


 しかし、意を決して、


「…心当たりは、ないです。ごめんなさい」


 内心に広がる恐怖心など無視して、自身でも驚くほど淡白な声で、千尋は言った。


 五嵐川は、刹那、真顔に戻ったが、すぐに不気味に思えるほど自然体に柔和な笑顔を携えて、



「そうか」



 短く、一言、そう返した。





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