05
ノボルとヒメモスは研究棟の廊下を早足で進んでいた。ヒメモスは背中で揺られるのが心地よかった。ノボルの鼓動も感じられた。心地よくて埋めた背中の中で微笑んだ。
ノボルは自分の鼓動が高まっているのを感じた。口の中はからからに乾いている。目はきょろきょろと忙しなく動いている。息は上がっている。果たしてうまく外に出られるのだろうか。ノボルは生唾を飲み込んだ。
二人は研究棟の廊下を駆けて行く。幸い誰ともすれ違わず、気づかれずに研究棟を抜けられた。ノボルは胸をなで下ろした。本社に入れば、なんとか言い訳もできる。
二人は研究棟と本社を繋ぐガラス張りの短い廊下に出た。遠くビルの合間に夕陽が沈んでいく光景が美しかった。ノボルはこの風景をヒメモスに見せてやりたいと思ったが、それはできなかった。ノボルは一度立ち止まったが、すぐに歩きだして本社に入っていった。
ノボルが本社の長い廊下を進んでいると、前から一人の研究員が来るのが見えた。ノボルは心臓が跳ねあがるのを感じた。若干の吐き気もする。
ノボルは歩みを努めて遅くした。表情も平静を装った。上がっていた息を抑え込む。
前から来る研究員はノボルに気がついた。彼はノボルの事を知っている人物だった。また、ノボルが何かを背負っている事にも気がついた。
お互いの表情がわかる距離まで近づいた。研究員はノボルに向かって手を振ってきた。ノボルは笑顔をつくってそれに答えた。
「関川じゃないか」
研究員はノボルの目の前まで来た。そして背中のヒメモスを覗きこむ。ノボルはすかさず説明を始める。ヒメモスが約束を守ってくれることを祈りながら。
「姪っ子なんです。本社に見学しに来てたんですが、途中で寝ちゃって……。これから送るとこなんです」
「へぇ……そうなんだ」
研究員は、まだ訝し気にヒメモスを覗きこんでいる。ノボルの背中に汗が多量に滲む。
「すみません、こいつを早く送ってこなくちゃいけないんで……、失礼します」
「……おう」
研究員は納得し切っていない表情で答えた。ノボルが通り過ぎてからも首を傾げていた。
ノボルは背中に研究員の視線を強く感じながら、ゆっくりと歩いて行く。
ノボルは廊下の曲がり角を過ぎてから、周りに誰もいないのを確認すると、大きくため息を吐いた。額には汗の玉が浮かんでいる。
――なんとかやり過ごせた……のか?いや、怪しまれていた……。早く外に出ないと。
ノボルはまた、歩みを速くして廊下を進んでいった。
しばらく進んでから壁にある鉄の扉の前で立ち止まった。そこは人の利用が少ない階段だった。ノボルは扉を開けると階段を下りていった。
二人は本社の一階まで下りてきた。ノボルは片手で鉄の扉をゆっくりと開ける。一階のエントランスホールに出た。ホールは広く、社員が数十名と受付嬢、出口には守衛がいた。ノボルは堂々としてロビーを通っていく算段でいた。もし誰かに尋ねられたら、先ほどと同じように姪っ子だと説明するつもりでいた。
ノボルはホールに入るとすたすたと足早に出口へむかった。数名の社員が奇異の目を向けてきたが話しかけてくる社員はいなかった。中にはくすくすと笑っている社員もいた。
ノボルは守衛の前まで来た。守衛はじっとノボルの背中のヒメモスを見つめている。しかし守衛は何も言わない。口を固く結んで険しい表情で二人を見ているだけだった。結局、何事もなく二人は会社の外に出れた。
ノボルは駐車場内の自分の車へと駆けて行く。車の前まで来たノボルは周囲を見回して、誰もいないのを確かめた。それから、ヒメモスをゆっくりと背中から降ろした。
ヒメモスは四方を見回して、それから空を見上げた。ヒメモスは目を輝かせた。そこには本でしか知らなかった現実の風景が広がっていた。
――これが空……、青くない、でも紫色で綺麗。これが外、生臭い風だけど何故か懐かしい。地面が暖かい、これは石?遠くに見えるのは山? 森?
ヒメモスは大きく息を吸った。自然の雑多な香りが胸に満ちていくのが心地よかった。ヒメモスは何度も何度も深呼吸した。瞳は涙液に潤んでいた。
ノボルはそんなヒメモスしばらく優しい眼差しで見つめていたが、やがて慌ててヒメモスを助手席に押し込むと、シートベルトを着けさせた。ヒメモスは見る物全てが珍しいといったように、常にきょろきょと目を動かしている。
そして自分も運転席に乗るとエンジンをかけた。ここまで来たら大丈夫だ、と胸をなで下ろした。
煙草を吸おうと一本咥えた。ヒメモスが興味津々にノボルの口元を見つめる。ノボルは横目でヒメモスを見る。二人の視線がかち合う。ノボルは煙草を吸うのをやめて、ドリンクホルダーに取りつけられた灰皿に押し込んだ。。
ふと、バックミラーを見ると、守衛がこちらに駆けて来るのが映った。何か叫んでいるようだった。ノボルは背筋がざわめいた。
「くそっ!」
ノボルは悪態を吐いて、アクセルを踏み込んだ。ヒメモスが小さく悲鳴を上げる。
「きゃっ!」
「ちょっと我慢してろよ」
ノボルはそう言うと、乱暴な運転で駐車場を出ていった。
ノボルとヒメモスを乗せた車はバイパスを飛ばしていた。車で追われている様子は無かった。カーステレオからは聞こえるか聞こえないかくらいの音のラジオが流れている。ノボルは一つ息を吐いてから、横目でヒメモスを見た。
ヒメモスは白い顔を更に青白くして俯いていた。その表情は辛そうに皺が寄っていた。
ノボルは気色ばんで、眼を見開いた。額に嫌な汗が浮き出した。
「おい、ヒメモス!どうした!」
ヒメモスは俯きながら、絞り出したような声をだした。
「……気持ち悪い」
「車に酔ったんだな?……どこかで止めるか。いや、家に急いだ方が……」
ノボルはぶつぶつと呟きながら考え始めた。そのうちヒメモスはえづき始めた。
ノボルは心配そうにヒメモスにちらりと視線を送る。
「すまんな……。家に着くまで我慢してくれ……」
ヒメモスは涙目になりながらも、こくりと頷いた。
ノボルはアクセルを踏み込んで、スピードを上げた。