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 帰りの電車、ヒメモスはノボルの肩に身体を寄りかからせて眠っていた。ノボルは愛おしそうにヒメモスを見つめる。自然と頬笑みが浮かぶ。

 電車の窓からは夕陽が射しこむ。ノボルはその光に目を細める。

 ふと、いつもの疑問が首をもたげる。

 ――俺のしている事は、意味のある事なのだろうか? ヒメモスは楽しんでくれている。だがこれは自己満足なのではないか? 数多の世界の見知らぬ人間を犠牲にしてまで……。いや命の重さは比べることはできないはずだ……。できないはずだが……。

 ノボルは片手で額を押さえた。眉根を寄せて目を瞑る。ちらりと肩に寄りかかるヒメモスを見る。寝顔は穏やかで無垢だ。この世の煩わしい事など何も知らないような。

 ノボルはまるで自分に娘が出来たような気分になった。それもとんでもない問題を抱えた娘を。

 ――青臭い言葉かもしれないが、俺はヒメモスが残りの命を笑顔で過ごしてくれれば、それでいいんだ……。その為だったら俺はなんだって……!

 がたり、と大きく電車が揺れた。その拍子でヒメモスが薄らと目を覚ました。

「うぅん?」

 ヒメモスはうつろうつろと目を擦りながら唸った。ノボルが頭を撫でて声をかける。

「まだまだ時間がかかるから寝てなさい」

「……うん……わかった」

 ヒメモスは再び目を瞑ると、夢の中へと帰っていった。ノボルはヒメモスの寝顔を見つめる。 電車内は夕陽の熱がこもって蒸し暑かった。




 アパートに着いた二人は、長い間電車に乗っていた疲れがどっと押し寄せた。日はすっかり暮れていた。ヒメモスはベッドの上にうつ伏せに身を投げ出す。ノボルもソファに身体を埋める。

 二人は人心地ついてため息を一つ吐く。それから沈黙。二人は自然の眠りについた。

 三十分位経ってから二人は目を覚ます。疲れも若干抜けている。

 二人は冷蔵庫からスーパーの弁当を二つ取り出すと夕食にした。食べ終えた二人は、映画を観ることにした。映画は昔のフランスの映画だった。

 二人は集中して映画を観ている。

 ヴーッ! ヴーッ!

 テーブルの上のスマートフォンが振動する。

「ちっ、またか……」

 ノボルはスマートフォンに手を伸ばす。そして発信者を確認する。

 そこには笠原キョウコ、と表示されていた。彼女はノボルの元妻だった。




 ノボルは少しの間、スマートフォンの画面を睨み付けていた。それから着信ボタンをタッチした。

「……もしもし」

「もしもし? ノボル?」

「ああ、どうしたんだ」

「どうしたんだ、じゃないわよ。あなたのお父さんから連絡があったのよ。ノボルが失踪したって」

「失踪なんかしてない」

「そうなの? 実は心配だからあなた家に向かっていたところなの」

 ノボルはソファから立ち上がった。玄関に向かいながら通話する。

「来なくていい! なんでもないと言っているだろう!」

「そうもいかないわよ! 私だってケイゾウさんから、どうしても息子を頼むって言われたんだから。家にいるかどうかくらい確認させてよ」

 ノボルは舌打ちをした。それからヒメモスの方を振り向く。ヒメモスは不安気にノボルを見つめている。

「……わかった。玄関までだぞ、家の中に入るなよ」

「何それ? まぁ別にそれでもいいけど」

「じゃあな、切るぞ」

「あ、ちょっと、まっ」

 ノボルは一方的に電話を切った。

 それからヒメモスのもとに駆け寄る。

「ヒメモスお前は賢い。だから俺のいう事を聞けるな?」

 ヒメモスはこくりと頷く。

「いいか、これから人が来るが玄関までだ。だからお前は部屋の隅で黙ってじっとしていること。もしも家の中までそいつが入って来たら俺に話しを合わせること。出来るな?」

「うん、できる」

「よし、いい子だ」

 ノボルはヒメモスの頭をぐしゃぐしゃと撫でつけた。ヒメモスはくすぐったそうにした。

 しばらくしてノボルの部屋のインターホンが鳴った。ノボルはヒメモスに目配せすると、玄関へと向かった。

 玄関のドアを開けると隙間から黒髪の女性が顔を表した。笠原キョウコだった。キョウコはノボルの顔を確認すると、ホッと息を吐いた。

「なんだいるじゃない……。心配して損したわよ」

 ノボルはさも帰って欲しそうに、つんけんと言い放つ。

「さ、わかったなら、帰ってくれ」

「何よ、久しぶりなのに冷たいわね。ちょっとお茶くらい……」

 キョウコの視線が玄関に並べられた靴に映る。その中に女児用のサンダルがあることを見つけた。

 キョウコの視線に気がついたノボルは胸中で舌打ちした。それから言い訳を始める。

「ああ、そのサンダル? 実は姪っ子が遊びに来ていてね」

 キョウコは怪訝そうに顔をしかめる。

「そんな話、聞いたことないわ……」

 ノボルはこれ以上言い訳出来ないと感じ、無理やりドアを閉めようとする。

「それじゃ、閉めるから。また今度な」

 キョウコは足をドアの隙間に挟んだ。

「わたし、わかるんだから。あなたが嘘ついた時は」

 キョウコはドアを無理やり開けるとずかずかと部屋に上がりこんだ。ノボルは慌ててそれを引きとめる。

「あ、おいっ! ちょっと待てよ」

 部屋に上がりこんだキョウコはヒメモスと目が合った。ヒメモスはおずおずと会釈した。

「……こ、こんばんは」

 ヒメモスはこわごわと言った。キョウコはきょとんとしている。それからノボルの方を向いて険しい顔になった。

「……誘拐?」

 すかさずヒメモスが答える。

「違うんです。私、ノボルに助けてもらったんです」

「助けてもらった?」

 ノボルは沈痛な面持ちでキョウコに話しかける。

「複雑な事情があるんだ……察してくれ」

 キョウコはややヒステリックになってノボルに話しかける。

「察せ……って、はいそうですか、なんて言えるわけないじゃないの! こんな幼い子と二人で居たら誰だって邪推するわよ!」

 ノボルは首を垂れてただひたすらに繰り返す。

「頼む、キョウコ。これ以上は何も聞かないでくれ。見逃してくれ」

 キョウコは頭を振ってため息を吐く。

「見逃してくれって、あなた馬鹿じゃないの? 目の前で犯罪が行われているかもしれないのに放って置ける訳無いじゃない!」

 キョウコはそう叫ぶと身を翻して玄関へと向かった。

「警察に言ってくるから……」

 ノボルは黙ってキョウコを見据えている。

 勢いよくドアが閉まる。ノボルはしばらくその場に立ち尽くしていた。その後、部屋に戻ってヒメモスを撫でた。ヒメモスはぷるぷると震えていた。

「ごめんな、大きい声を聞かせて。あいつなら大丈夫だ、いつも口だけだからな」

 ヒメモスは不安気な表情のまま頷いた。ノボルは顎に手を当て考え始める。

 ――キョウコのやつ、まずは親父に連絡するだろうな。そこで警察沙汰にはしないでくれと懇願されるはずだ。そもそもあいつは警察に連絡するなんてたまじゃない。

 ノボルは表情を入れ替え、明るく努めた。

「さて、気分直しに映画でも観ようか」

 ヒメモスも表情を明るくした。そしてしきりに頷いた。

 ノボルは適当に一枚取ってプレイヤーに入れる。ノボルはソファに座りその上にヒメモスが座る。定位置である。

 映画のタイトルは『自転車泥棒』。


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