第五十三話:鬼ごっこ
カツン……カツン……と、ネロの商館は、やけに暗い。壁も、一面薄銀色であり、小さなランプが屋根から垂れ下がり、ポッ…ポッとついているのみの、まるで洞窟のようである。
そして、不気味にも。
ホスロの先を行くネロは、何故か無言だ。
「……商談する部屋は…まだなんか」
まだ、ホスロは杖を、ラヴェンナを握っている。手から染み出した汗が、杖の取っ手部分にコーティングされている鉄をジワリ…と湿らせている。
その上、異様に、汗が出る。気温は別に高く無いのだが。
「さぁ…ホスロ、ここですよ」
少女は、そして、廊下で急に立ち止まると九十度に曲がり、壁に直接扉が付けられた、大きな部屋へとホスロを誘導する。
扉は龍の彫刻がされており、マラレル風であった。
カチャリ…ギィィ…とネロが執事のように、丁寧に開けると、中には……円卓が置かれ、そしてその上に香が焚かれていた。
甘い匂いである。砂糖ではなく、香水のような、甘い香り。蜂蜜よりも…甘かった。
そして薄暗く、円卓の他にもソファが二つだけ、向き合うように置かれており…とにかく幽霊屋敷のよう。
(……いや、危害は加えん、そうネロと契りを結んだがな)
扉を開けてもらい、中に入ろうとする。
だが、中々足が前に進まない、進めたくなかった。
「あらホスロ…どうしました?」
ネロが、意地悪そうに笑いながら続けて
「早く…入りましょう……商談を」
「…あぁ」
ホスロは念の為、半魔法結界を体内で発動させる。
精神魔法や、洗脳系統の魔法に軽く耐性を付けたのだ。
「ふふっ…怖がりですね、ホスロは」
ホスロの魔力量が減ったのを、ネロは騎士候補のクセして、まるで魔術師のように感知すると、用心深いですねと笑う。
「……」
だが、ホスロは無言で部屋へと、今度こそ入ると、ズカズカ進み、ドカッ!とソファへと図々しくも座った。
「そんで、さっき言っとった…死鶏手懐ける為の…獣薬、出してや」
「横柄ですねぇ……まぁまぁ、少し待って下さい」
それにしても…ホスロは、この少女が憎いらしい。
彼女に対して敬意が払えないのだ。どうしても、赦そう!と決意しても…やはり、性格が、性根が、相容れぬ。
いや、相容れ無くなってしまった。
ネロはガサゴソ…と部屋の隅に置いておいた薬品類を卓上に並べると
「希釈回復薬、原液、獣薬……何でも有りますよ」
(いや、回復薬は正直…まだ、あまりマドラサの土地柄を知らんけん、何とも言えんけど)
回復草と呼ばれる、原液の元となる薬草が栽培出来る環境であるかどうか、調べてから来れば良かった…と少し後悔した。思い付きで飛び出してしまうのは、ホスロの愛嬌でもあるが、欠点でもあるだろう。
ただ……なるほど、獣薬に関しては製造方法が特殊な為、ここで買い占めた方が良いかも知れぬ。
「倉庫にある獣薬まで、全部買ったら……何匹分の死鶏を服従させるに足るん?」
「ほぅ…在庫の全てを使うならば、二百匹分は有るかと」
ちなみに、魔法使いや、魔道具で全身をガチガチに固めた重騎兵による魔獣に騎乗しての突撃は、この時代、戦術の根幹を成すものである。
特に竜や…流石に、少し威力は落ちるが、体格に恵まれるコカトリスによる重騎兵突撃は、精鋭揃いのマラレル相手でも有効となるだろう。
「……もし、全部買うた時の値段は」
「銀の含有率が比較的高いマラレル貨幣だと、十三万リーベルくらいになりますね」
「銀のキロ数だと?」
ホスロは、続けて質問した。
「単純な換算は難しいですが、三〜四十キログラム程になるかと」
(俺の持っとる財産で…前金くらいは作れるな)
「なら、ネロ…後払い形式になるけど、エエか?」
勿論、払える分は、最初にしっかり払っておくと、ホスロは言った。
が、ネロはゆったりと安心させるように首を振ると
「いいえ、大丈夫ですよホスロ…あるコトをして頂ければ……十キログラムの銀だけで…いえ、無料で良いですよ」
そう言うと…ソファから立ち上がり、ヌルリ…とネロの雰囲気が変わったので、途端に、ガタリ!とホスロも立ち上がって警戒した。
実際に『ラヴェンナ』さえ構え、変形させる。
だが、ネロの方は慣れているかのように、全く慌てず、トントン、と指だけ円卓を叩きながら、先程から卓上に置いてあった水を勧める。
「まぁまぁ、子兎じゃ無いんですから…そんなに警戒しなくとも……気が落ち着かぬのならば、水でも飲みなさい」
「阿呆か、お前の用意した物なんか飲めたモンじゃ無いわ」
すると、ネロは残念そうに、自分の手元に置いていた水をコキュ…コキュ…と口に含む。
そして……ススス…とホスロの方に寄って行き……椅子に座る獲物を捕まえた。
ガシリ…と肩を掴む。
「…?……!おい、契約じゃ、お前から危害を加えんのじゃ__」
呆気に取られるホスロを無視し、拘束したまま…そのまま、顔を近づけ、すぐに唇も近付けると……コトリ……と自身の口中の液体をホスロに注いだ。
当然、そうはさせんとバンッ!バンッ!と苦しそうにホスロがネロの背中を叩き、拒否しようとするが、だんだん……弱まり、力が抜けてゆく。
「…ッン゙……!ッッ……!!」
まだ、離れない。
彼女の瞳は、暗い部屋の中でも煌々としている。
液体を確実に飲むまで、終わらないようである。
「プハッ……はぁ……がぁぁ………はぁ…」
「ホスロ、どうですか?気分は」
そして、急いで離れ、ホスロは漸く空気を吸い込むと、ブルブル…と小鹿のようにしてネロから離れる。
(なんなん…急に!)
突然の行動に驚いたのもあるが、ソレよりネロの行動原理が分からず、恐怖した。
だが、そんなホスロの動揺を落ち着かせる暇を与えぬかのように……一歩、また一歩と……猟師のように少女は床に倒れたホスロへと迫ってくる。
「あえ……?…!あえろ…すこしぃ…まえぇ…」
(……思うように…力が入らん……麻痺薬かッ!!)
先に飲まされた水のセイだろうか…喋れすらもしない。廊下に居た時よりも、ドッ!と冷や汗が染み出してきた。
死の匂いが、ホスロの脳をつんざく。
(逃げんと……嫌じゃ、一体…何をされるか……)
一所懸命、ガリガリ、ガリガリ、と体の力を振り絞り、床を舐める体に鞭打って、立とうとする。
「頑張って下さいホスロ!もう少しで立てますよ」
そんなホスロの様子を見て、心底愉快そうに、そしてわざと一定の距離を取り、嬉しそうにネロは見つめていた。
「はぁ……く…そぉ……ッ!……」
ホスロとしては、今にも泣き出したい気分である。
戦で、戦士として死ぬのはまだ良い。だが、こんな……こんな誰にも知られず…コイツと、こんなヤツと!実質心中(ホスロに対して危害を加えない、という契約を破ってしまうと、ネロにもペナルティが課される為)するのは嫌だ、と。こんな形で夢が壊されるなど、有り得ん、あって良い理由が無い。
力が抜け、ヨダレさえ垂らし、目に涙を浮かべながら立つと…ドアを体を倒すようにして開け、ザリ…ザリ………と広い、広い商館内を、ホスロが壁伝いに歩く。
「ホスロ!鬼ごっこですよ、十回数えて待ってあげますから、逃げて下さーい!」
昔のように。ネロは無邪気にそう笑った。頬が赤くなっている。
ただ、目は死んでいた。そして、暗かった。
(早く…出口に……声が出せて居れば……)
「十!」
「たのむ……あれかぁ…」
(クソ!ヨナタンを行かせたのが間違いじゃった!)
何故、こんなにも商館内は薄暗いのだろうか……自分は今、何処を歩いて居るのだろうか…何故だ。
商談のハズである。
「九」
「八」
「あぁ……らゔぇんな…くそッ……うぅ……」
唯一、共に…ソレこそ杖代わりのようにして歩いている、ラヴェンナを見て「落ち着こうか」と安心するが…ソレが一時のモノだと深く理解している為、また、少年はネロのカウントダウンを聴きながら絶望した。
「七」
麻痺薬のせいだろう。涙腺も緩み、顔は濡れている。ポタポタ、と液体も垂らしている。
「六」
(なんで……嫌じゃ、こんな所で、死にとうない……まだ、リュクリークの素顔さえ、見てないのに……)
俺は一体、何をしているのだ。
情けない。全く、早くこんな館から出て……
(出て……嘘じゃろ…目もボヤけて来たわ……)
「五」
「四」
だが、ズリズリ…と体を引き擦りながら突き当りの角を曲がると……ジワリ…と光が、見えてきた。ソレは、ランプのような人工的なモノでは無く、太陽であった。
自然の温かみを、目に受ける。
パァァ、と陽光が窓を貫き、薄暗い廊下を照らして居るでは無いか。
「三!」
「よかった……これで…出れる」
「二……一」
ホスロは、足に…既に殆ど無いが、少ない魔力を込め、意地で歩く。壁に寄らず独立し、商館の扉へと向かう。
タッタッタッ……ガチリ……
そして、やっと……ドアノブに触れる事に成功した。
「…ハッ、ざまぁみろや…ネロ……俺の方が__「ゼロですよ、ホスロ」」
同時に、少年の掌に、柔らかい少女の手が乗っかった。スベスベとしていて、それでいて良い香りがする。
カサリ…と少女が纏う武道着が、ホスロの服とこすれる音も耳に入る。
「待って、なぁ……そもそも、おまえは俺にきがいを加えれんじゃろ!」
また暗い屋敷へと戻される事が確定し、流石にストレスが限界を越えたのだろう、ふつふつ、と涙を落とし振りまき、腰も落とし、後退りしながら、泣きながらホスロは言った。
(コイツが、契約の効果を承知で俺を殺すつもりなら……命乞いは意味が無いかもしれんが……)
だが、意外と…ホスロの理性はまだ残っているらしく、ここから逃げる術を今からでも編むらしい。
「えぇ、ですから危害は加えないと…言っているでしょう?」
「……?」
おや、どうやら…命は取らぬらしい。ならば何故このような……
不幸にも、少女はホスロの下腹部へと眼をやった。
「前に…まだ、私たちは若いと言いましたよね」
「しかし…正直、もうどうでも良いかなぁと思いまして」
ホスロは、その言葉で、彼女がコレからしようとしている行動を読んだ。
一瞬殺されぬ事が分かり、安堵しかけたが…現実に引き摺り戻された。
「チッ!こんな…お前にされるくらいなら、そのへんの魔獣を誘った方がエエわ!」
嫌だ。ソレは別だ。違う、お前のようなヤツとなんか……ガバリ…とネロは、そんなホスロを嘲笑うかのように上に跨ってきた。
抵抗したが、魔力も無く、力も抜け、動けん。
「待て、止めろや……!」
「落ち着いて、落ち着いて、ホスロ」
「この……マラレルの犬風情…がッ!」
それきり、ホスロの声は別の声に変わり__今夜は……ネロの商館は、やけに静かであった。
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「お早う御座います、ホスロ」
「……クソが」
廊下の…玄関で無い場所でホスロは目を覚ますと、朝日が窓越しに燦燦と見えており、既に館は薄暗くなく、光を多く含んで照っているではないか。
「どけ」
何故廊下では無いのだろうか、きっとネロが運んだに違いあるまい。
過去から今に至るまで、本当に…一番の不快な目覚めにホスロはイライラとして、起きるや否や、その部屋に貼られた大きめの窓を叩き割り、出ようとする。
が
「ホスロ、獣薬の件、後ほど公国まで送って置きますよ」
だが、嬉しくは無い。まるで肉体と交換したミタイでは無いか。
しかしながら、人間というのは不思議なモノで。
なんとなく、ホスロはネロに対して大きな声で怒鳴りつける気分にはなれない。
(…まさか…!?…情が…湧いたんか…?)
自分でも不思議であった。そして、なんとも弱いと思う。
「……分かった、獣薬と…ソレに、回復液も付けとけ、俺はもうココを立つ」
「そうですか、では、昨日のダンテ将軍と約束していた場所まで見送りを」
「要らん」
言うと、ホスロは廊下に転がって居たラヴェンナを大切そうに、そして「ごめんな……ごめんなぁぁ……」と辛そうに謝りながら拾うと、ネロに赤い顔と、瞳で一瞥すると
「コレで…契約する時の条件の重要さがよぅ分かったわ」
と、悔しそうに吠え、言い残し、去る。
コレも不思議と…去り際は双方引き止めず、軽かった。