第二章 黒猫の天幕 ― もう一つの帰る場所
その日の最後の客を見送り《黒猫の天幕》は静かな夜へと戻っていった。
蝋燭の火を落としタロットカードを一枚ずつ箱へ収めながらクロエルは今日も訪れた客たちの顔を思い返す。
占いの結果を告げても客たちは「う、うん……そうか」と、どこか煮え切らない返事をする。そもそもクロエルの占いがよく当たると思って通っている者は少ない。結果についても「まあ、そんなものだろう」と受け流してそれ以上を気にすることもない。
それでも客は帰ろうとしなかった。しばらくカードを眺めていたかと思えば、ぽつりと別の話を始める。
「そういえばさ……最近、うちの娘が全然言うことを聞かなくて」
「ああ、それは大変ですね」
「聞いてくれよ。昨日なんて――」
そこから先は占いとは関係のない話ばかりだった。商売の愚痴、家族の悩み、恋人との喧嘩、近所で起きた小さな揉め事。クロエルは口を挟まず、急かすこともなくただ相手の話に耳を傾けている。
占いはあくまで話を始めるきっかけにすぎない。
《黒猫の天幕》へ来る者たちが本当に求めているのは未来を言い当てる魔女ではなく、誰にも言えなかったことを安心して話せる相手だった。
◇
蝋燭の火が揺れる静かな店には、さっきまで交わされていた会話の余韻だけが残っている。
今日もいつも通りの一日だった。木製の黒猫が描かれた看板を店内へしまい扉に鍵を掛ける。
「さて……帰りましょうか」
誰に聞かせるでもなく呟いてクロエルは東区の夜へ歩き出した。
そして――東区の夜が始まる。
東区は日が沈んだからといって眠りにつく街ではない。むしろ昼間より人の目が減るぶん、表通りから外れた路地には別の顔が浮かび上がる。
商人たちは日が暮れる前から店の戸締まりを念入りに確認し、一般の住民たちも用事がなければ家から出ない。酒場や賭場の並ぶ盛り場へ近づく者も少なく、夜道を一人で歩けば、思わぬ揉め事に巻き込まれる可能性が昼間とは比べものにならない。
だからこそ、クロエルも普段なら早々に自宅へ戻る。――普段なら。
黒いローブの裾を揺らしながら歩く彼女の足取りは店を開けていた昼間とは少しだけ違っていた。丸眼鏡の奥にある青い瞳が暗い路地の先を静かに見つめる。
クロエルの自宅は、東区の中央通りに面した場所にある。
東区の中では、比較的治安のいい一角だ。少なくとも夜道を歩いているだけで誰かに絡まれるような場所ではなく、通り沿いの店々も日が暮れる頃には戸締まりを済ませ、住民たちも余計な騒ぎを起こさぬよう静かに暮らしている。
もちろん首都フランヴァル中央区の中央通りと比べれば話はまったく違う。街灯の数も巡回する警備兵の数も、建物の造りもそこに暮らす人々の安心感さえも別物である。
それでもクロエルがそこを選んだのは、女性魔導士が一人で暮らす以上、多少家賃が高くても安全を優先したほうがいい――という、ごく真っ当な理由からだった。表向き上は。
今夜、その自宅へ向かうはずのクロエルは職人街を目指した。
向かった先はある工房である。
◇
夜の職人街は、昼間とは別の顔をしている。
昼には金槌の音や魔導炉の唸り、職人たちの怒鳴り声が飛び交う通りも、今はひっそりと静まり返っていた。工房の扉はどこも固く閉ざされ、窓には内側から板が打たれている店まである。
東区で夜まで営業している店など、酒場や賭場のように夜そのものを商売にしている場所を除けば珍しい。何者が客として訪れるか分からないからだ。金目の物が置かれている工房なら、なおさらだった。
クロエルはそんな通りを歩き目的の建物の前で足を止めた。
古びた看板には、魔導器具を扱う工房であることを示す文字が刻まれている。入口は、当然のように閉ざされていた。
「……よし」
クロエルは周囲を見回した。
人影はない。それを確認すると中央通りを歩いていたときとは明らかに違う軽やかさで身を翻した。
黒いローブが夜気を切る。壁際へ足を掛け、そのまま二階の窓枠へ身体を引き上げる動きには、魔導士らしい慎重さよりも、盗賊を思わせる無駄のなさがあった。
窓を一枚ずつ確かめる。――閉まっている。――これも。そして三枚目。鍵が掛かっていない。
「ふふっ」
口元に、小さな笑みが浮かんだ。
クロエルは慣れた手つきで窓を開け、そのまま音もなく室内へ滑り込んだ。
◇
二階の廊下を抜け、階段を下りる。
建物の一階には昼間なら職人の出入りが絶えない工房がある。今は暗いが、その奥から微かな明かりが漏れていた。クロエルは迷うことなくその光の先へ向かった。
扉を開ける。そこには小さな魔導灯だけを頼りに一人の老人が作業台へ向かっていた。
白くなった髪。年季の入った作業着。細かな魔導部品を器用な指先で組み合わせながら、老人はクロエルが入ってきたことなど最初から分かっていたかのように作業を続けている。
クロエルはそんな老人の姿を見るなり昼間の占い師としての穏やかな表情をすっかり捨てた。椅子へ腰を下ろすでもなく、作業台の横を通り過ぎ置いてあった飲み物へ勝手に手を伸ばす。
「ガル爺~。疲れたぁ……」
仕事を終えた孫娘が祖父の家へ帰ってきたような声だった。
老人――ガルド・ベルナールは、振り向きもしない。
「……扉は閉めていたが?」
「いつものところからよ」
「そうか」
「そうよ」
クロエルは当然のように飲み物を注ぎそのまま口をつけた。まるで自分の家である。
ガルドは作業台に向かったまま細かな魔導部品を組み合わせる手を止めることなく、ちらりと横目だけをクロエルへ向けた。
「勝手に飲むな」
「喉が渇いてるんだもの」
「一言くらい言え」
「ガル爺のところで今さら?」
「今さらだから言っている」
ぶっきらぼうな返事。けれどクロエルは気にした様子もなく、くすりと笑った。この工房だけは、彼女にとって《黒猫の天幕》とも、自宅とも違う場所だった。
もっと昔から知っている。もっと長い時間を過ごしてきた。
そして――ここにいる老人だけは、昼のクロエルも夜のクロエルもそのどちらも知っている。




