第一章 首都フランヴァル東区 ― 黒翼はまだ空を知らない
大陸西部――フランヴァル連合都市圏。
幾多の都市国家、自治都市、研究都市、商業都市が連なり、人と物資、文化と魔導が絶え間なく往来する広大な連合都市圏。その頂点に座す都こそ首都フランヴァルである。
千数百年前、西部開拓の最前線に築かれた小さな拠点は河川と街道が交わる地の利を活かし、人を呼び、商人を呼び、学者を呼び、やがて都市を束ねる都市へと姿を変えた。武力で周囲を屈服させたわけではない。物流を整え、契約を記録し、争いを仲裁し、誰もが安心して取引できる仕組みを積み重ねた末に、人々は自然とこの街を「西部の中心」と認めるようになったのである。
現在では人口、経済、政治、文化、魔導、工業、そのいずれもが西部最大級を誇り、大陸中央との外交窓口としても重要な役割を担う一方、東側休戦地帯では今なお燻り続ける火種を抱え、連合都市圏各都市との利害調整にも追われる栄光ある調停首都として知られていた。
ここで政治に携わる者は、華やかな権力者などではない。終わりの見えない交渉に心を擦り減らして職を去るか、それとも誰よりも人心と利害を読み切る怪物へ変貌するか、そのどちらかだと囁かれるほど、この街の実務は過酷である。それでもなお、人は集まる。契約が最も信用され、情報が最も高く売れ、夢すら事業へ変わる場所だからだ。
この都市では、剣を振るう英雄だけが歴史を作るわけではない。一枚の契約書。一通の紹介状。一つの認証印。その価値は、時として一万人の兵より重い。
だからこそ首都フランヴァルは、西部最大・最古・最先端の都でありながら、誰よりも現実的な都市でもあった。
◇
そんな首都にも、表と裏がある。
白亜の評議会庁舎が並ぶ中央区。豪商が店を構える中央商業区。歴史を刻んだ石畳が続く旧市街。職人たちの槌音が響く工房区。どれも首都の誇りであり、旅人が思い描くフランヴァルそのものだった。
しかし、フランヴァル東境大橋巨大石橋を渡れば、その景色は色を変える。
石造りの街並みはそのままでも壁には長年消えない補修跡が走り、建物は継ぎ足しを繰り返し、露店の屋根は布と木材を無理やり繋ぎ合わせたようなものばかりで、行き交う人々の視線には、首都らしい余裕よりも今日を生き抜く覚悟が宿っていた。
◇
――首都フランヴァル東区。
中央区の者たちは半ば冗談交じりに言う。
『あそこはもう首都じゃない』
その言葉は、決して完全な誇張ではない。
東側休戦地帯――通称フランヴァル内戦で故郷を失った者たちが、この地区へ流れ着いた。家族を失った者。職を失った者。祖国そのものを失った者。行き場をなくした人々が少しずつ住み着き、年月と共に人口は膨れ上がり、それに比例するように治安も悪化していった。
密売人が路地裏で囁くように商談をまとめ、闇商人は正規の市場では決して並ばない品を並べ、偽造屋は薄暗い工房で今日も新たな書類を書き上げる。行き場を失った流れ者は酒場の隅で夜を明かし、腕一本で生きる傭兵は危険な依頼を求めて街を歩き、その日のパンさえ手に入らない子どもたちは、人混みの中を縫うように駆け回っていた。
混沌、荒廃、暴力――東区とは何かと問われれば、多くの者は迷わずそう答えるだろう。
だが、それは街の半分しか見ていない者の言葉でもあった。
朝になれば職人は炉へ火を入れ、パン屋は焼きたての香りを路地へ漂わせ、母親たちは井戸端で笑い合い、子どもたちは石畳を駆け回る。瓦礫の隙間にも花を植える老人がいて、壊れた靴を何度も繕って履き続ける青年がいて、明日こそ少しでも良い暮らしになると信じて汗を流す者たちが確かに存在していた。
悪人ばかりが暮らす街ではない。この街で生きる者の多くはただ運命に見放されただけの、ごく普通の人々だった。故郷を戦火に奪われ、帰る場所を失いそれでも生きることを諦めなかった者たちが辿り着いた先がこの東区である。
栄光に包まれた首都の片隅で、今日も誰かが静かに人生をやり直している。 しかし、この街にはまだ誰も知らないもう一つの顔がある。
夜更けになると、闇よりなお黒い影が石造りの屋根を滑り、月光だけを味方に首都の夜空を駆け抜け、誰にも気付かれることなく姿を消す。人はそれを都市伝説だと笑い、ある者は義賊と呼び、ある者は悪魔と恐れた。新聞は派手な見出しでその名を躍らせるが、現場には決まって一枚だけ、静かにタロットカードが残されている。その意味を知る者は誰もいない。
首都フランヴァル東区。通称、スラム街。
一人の占い師がひっそりと店を構え、夜になれば黒翼の魔女と恐れられる大怪盗が、首都中を舞台に華麗な犯行を繰り広げる街である。
◇
東区商業区の一角。
賑わう大通りから一本路地へ入った場所に、その小さな店はひっそりと建っていた。
黒く塗られた木造の外壁。入口では、丸々とした黒猫を象った木製看板が風に揺れ、その下には控えめな文字で《黒猫の天幕》とだけ記されている。
扉を開けば、ほのかに香る薬草と香木の匂いが鼻をくすぐり、柔らかな蝋燭の灯りが静かな店内を包み込む。中央には一枚の丸テーブル。その上には使い込まれたタロットカードが整然と並べられ、訪れた者は皆、自然と声の大きさを落として椅子へ腰掛けていた。
ここは占い館《黒猫の天幕》。
東区で暮らす人々が、不安や迷いを胸に訪れる小さな憩いの場所だった。
「あなたの前途は……」
占い師クロエル・レイヴンは静かにカードを一枚めくり、その絵柄をじっと見つめる。向かいに座るのは四十代ほどの商売人。つい先日、中央区で店を構える許可をようやく得られたらしく、願掛け代わりに占ってほしいと足を運んできたのだ。
ごくり、と男の喉が鳴る。
「……そこそこですね」
「そこそこォ!?」
勢いよく立ち上がった男は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「いやいや! そこは大吉とか、大成功とかあるだろ!?」
「ありませんね」
「ないの!?」
「頑張れば、そこそこ良くなると思います」
「結局そこそこじゃねぇか!」
納得できない様子で頭を抱えながらも、男は「まぁ、悪くないならいいか……」とぼやきつつ店を後にする。
東区で評判の占い師。――そう聞けば腕利きを思い浮かべるだろう。
だが、クロエルの占いは飛び抜けて当たるわけではない。当たる日もあれば、外れる日もある。本人も「そこそこです」と言い切る程度の、実にそこそこの腕前だった。
「あのね、この前いなくなった猫、先生が言ってた場所とは全然違うところで見つかったの」
「それは良かったですね」
「この前、今は告白しない方がいいって言われたけど、思い切って伝えたら付き合えたよ!」
「それは良かったですね」
「全然当たってないけど...」
「結果オーライです」
クロエルは丸眼鏡の奥で表情をほとんど変えないまま、小さく頷く。
それでも不思議と店から人が絶えることはなかった。占いを信じている者ばかりではない。仕事帰りに今日あった出来事を話したい者、家族の愚痴をこぼしたい者、誰かに「大丈夫」と言ってほしい者。それぞれが思い思いの理由で《黒猫の天幕》を訪れ、気が付けば一刻ほど世間話をして帰っていく。この店にとって占いとは、未来を決めるものではない。
誰かの話に静かに耳を傾け、その背中をそっと押すための、ほんの小さなきっかけに過ぎなかった。
◇
もっとも、東区は人情だけで生きていける街ではない。
陽が傾けば、酒場から酔客があふれ、路地裏では揉め事が始まり、力で物事を決めようとする者も珍しくなかった。その日も、店じまいを終えたクロエルが《黒猫の天幕》の扉へ鍵を掛けたところで、三人の男が道を塞ぐように立っていた。
「しけた店だな、おい」
傷だらけの革鎧を着た大男が鼻で笑う。
「こんな胡散臭ぇ商売でも、意外と稼げるもんなんだなぁ?」
「今日よぉ、飲み代がちょいと足りなくてな」
別の男が親指で酒場の方を示しながら笑う。
「貸してくれねぇか?」
貸す気など最初からない。返す気も、当然ない。東区では誰もが知るただのたかりだった。
「嫌です」
クロエルは丸眼鏡を指先でそっと押し上げ、淡々と答える。その一言で、男たちの笑みが消えた。
「なんだと?」
「聞こえませんでしたか?」
静かな声だった。それが余計に癇へ障った。
「調子に乗るなよ、小娘」
男が一歩踏み込む。しかしクロエルは逃げようともしない。男たちを見つめたまままるで占いの続きを告げるように穏やかな口調で言った。
「あなた達――近い将来、大怪我をしますよ」
一瞬、沈黙。そして三人は腹を抱えて笑い出した。
「ハッハッハ!占いのつもりか!」
「だったら見てもらおうじゃねぇか!」
「その未来が当たるかどうかをよ!」
先頭の男が拳を振り抜く。狙いは確かだった。鍛え上げた腕なら、華奢な女など一撃で吹き飛ばせる。誰もがそう思った。だが、拳は空を切った。
「……え?」
目の前からクロエルの姿が消えていた。男が目だけを動かしたその刹那、視界が反転する。腕を軽く取られた感触だけを残し巨体は宙を舞い、背中から石畳へ叩きつけられた。
「がぁっ!?」
何をされたのか理解できない。二人目が怒鳴り声を上げながら飛び込み、三人目は逃げ道を塞ぐように背後へ回る。
それでもクロエルは一歩も慌てない。まるで散歩の途中で道を譲るような自然さで半歩だけ身をずらし、男の拳を紙一重でかわすと、その勢いを利用して肩へ指先を添える。男の身体は自ら転んだように体勢を崩し、勢いのまま石壁へ激突する。
「ぐっ……!」
最後の一人が短剣を抜き、怒号とともに飛び込む。
「危ないですよ」
クロエルはわずかに身体を開き、振り下ろされた刃を指先ひとつで受け流す。宙へ弾かれた短剣は石畳へ乾いた音を立てて転がり、その直後、男の視界が大きく揺れた。
「がっ……!」
鳩尾へ吸い込まれるように放たれた一撃で呼吸を奪われ、体勢を崩したところへ流れるような追撃が重なる。鈍い衝撃音が路地へ響き、男は地面を転がったまま苦悶の声を漏らした。起き上がろうとした先頭の男も、腕を取られた勢いのまま再び石畳へ叩き伏せられる。
「こ、こんなの占い師じゃねぇ……!」
「逃げ……逃げろ……!」
三人とも、まともに一撃すら入れられなかった。
クロエルは服についた埃を軽く払い、倒れた男たちを見下ろす。
「……外れましたね」
男たちが顔を引きつらせる。
「近い将来ではなく――」
丸眼鏡の奥の青い瞳が、わずかに細められた。
「今すぐでした」
それだけ告げると、クロエルは何事もなかったように静かに歩き出す。東区では占いの腕はそこそこだと言われている。
だが、《黒猫の天幕》には決して手を出すな。
その忠告だけは、東区では妙によく知られていた。




