Ⅸ名前と花言葉
グランディア近郊、北東の山道。
磨かれた黒い車体に、銀色の金具。
馬車は傾斜の続く山道を登っていた。
窓の外を眺めていた教祖が、小さく息を吐く。
「この風景を見ると、帰ってきたって感じがします」
「本部ってのは、山の奥にあるんだな」
カイも窓の外へ目を向けた。
「もっと便利な場所はなかったのか」
「山は、神に近い場所とされていますから。ネグラの本部を置くなら、ここが一番ふさわしいんです」
「そういうものなのか」
「戻ったら、ずっと本部で過ごすのか?」
「はい。また祝福を授けに各地を巡る時以外は」
「こないだみたいな奴が、また来るんじゃないのか」
「あんなことは初めてでしたよ」
教祖は困ったように笑った。
「カイさん、とても頼りになりましたよ」
座席にいる金属の蜘蛛にも声をかける。
「あ、ニムさんもですよ」
蜘蛛が一本の前脚を上げた。
山道の先に、大きな外壁が見えてきた。
開かれた門の向こうには、いくつもの建物が並んでいる。さらに奥には、城のような巨大な建物が山肌に沿ってそびえていた。
「……すごいな」
「昔はもっと小さかったんですけどね」
「毎年、人が増えすぎちゃって。今じゃ、こんなに大きくなっちゃいました」
馬車が門をくぐる。
多くの信徒が集まっていた。
「教祖様!」
「お帰りなさいませ!」
次々と声が上がる。
教祖は窓の外へ手を振り、カイへ向き直った。
「これで、本当に終わっちゃいました」
「カイさん」
「教祖って、本当は名前を教えちゃいけないんです」
「そうなのか? 変わったしきたりだな」
「はい。教祖は教祖ですから。個人の名前は必要ないんです」
教祖は声を落とした。
「でも、カイさんには、名前で覚えていてほしくて」
「ルベカっていいます」
「ルベカか」
「はい」
ルベカは嬉しそうに笑った。
「来年も、カイさんたちに護衛してもらえるように頼んでみますね」
「依頼が来ればな」
「最後に、一つお願いしてもいいですか?」
ルベカが少し恥ずかしそうに言った。
「『ルベカ、頑張れ』って、言ってもらえませんか?」
「そんなことでいいのか」
ルベカがカイの方へぐっと身を乗り出す。
「それがいいんです」
「ルベカ、頑張れ」
ルベカの顔がぱっと明るくなった。
「はい! 頑張ります」
馬車がゆっくりと止まった。
信徒が扉を開ける。
ニムがカイの肩へ上り、ルベカは馬車を降りた。
「ありがとうございました」
二人へ頭を下げ、待っていた信徒たちの中へ進んでいく。
ルベカの姿は、すぐに白い法衣の中へ紛れていった。
◇
帰りの馬を借り、カイは山道を下っていた。
肩にはニムが乗っている。
木々の切れ間から、グランディアの街が小さく見えた。
ダンに襲われた時、ルベカは祭壇側へ下がっていた。
ただ怯えていただけだったのだろうか。
カイは街から目を離した。
……護衛には関係のないことか。
◇
メリディア支部。
ソラ、ヴェイン、アニカは、担当してくれた三人の前へ並んでいた。
「三人とも、お疲れさん」
ラディスの言葉に、三人が頭を下げる。
「アニカちゃん、よう頑張ったわ。あの追跡、よかったでぇ」
「こちらこそ、ご指導いただきありがとうございました。憧れのラディスさんと働けて、ほんまに光栄でした」
「褒めすぎや」
ラディスが笑った。
「またオクシリアへ行ったら、挨拶するさかい。よろしくな」
「はい。よろしくお願いします」
シンはソラへ向き直った。
「ソラ君、お疲れ様でした。授与式のときは、君を持ち上げすぎだと言いましたが……あれは撤回します」
「君は立派な捜査員になれます。これからも頑張ってください」
「はい! 一週間、ありがとうございました」
ソラはシンと握手を交わした。
ダルトンがヴェインへ声をかけた。
「一週間、助かった」
「俺、生意気なことを言って、すみませんでした」
「謝るな。お前が納得できなかったのは分かってる」
「……はい。お世話になりました」
ヴェインが頭を下げた。
「ほな、皆さん。別れの挨拶も済んだっちゅうことで」
ラディスが時計を見る。
「列車の時間、もうすぐやで」
「早く言うてくださいよ!」
アニカが荷物を持ち直した。
「ありがとうございました!」
三人はもう一度礼を言い、駅へ向かって走り出した。
◇
オクシリア、宿。
帰還を翌日に控えた夜。
ようやく顔を合わせた二人は、どちらも疲れ果てていた。
「……宿に戻るの、何日ぶりかしら」
ミレアが荷物を下ろす。
「私も、ほとんど医療センターにいたよ」
「ミレアちゃん、すごい匂い……」
「ルーナもね」
用意されていた宿は、オクシリア支部から近い場所にあった。
窓の外には、明かりの灯る街並みが広がっている。
「こんなにいい景色なのに、全然見てなかったね」
「見る余裕なんて、なかったわよ」
「大浴場があるみたい。着替えを持って、行くわよ」
「うん」
◇
大浴場に、ほかの客はいなかった。
汗と砂を洗い落とし、湯につかったあと、二人は並んで寝湯へ移った。
頭を大理石の縁へ預けると、ガラス張りの天井の向こうに夜空が見えた。
「……寝ちゃいそう」
「駄目よ」
ミレアも目を閉じかけた。
暗闇で光っていた赤いコアが脳裏に浮かび、すぐに目を開けた。
「こんなにいいお風呂があったのね。もう明日には帰るのに」
「もっと早く来ればよかったね」
「その元気もなかったけど」
「……うん」
ルーナは湯の中で、指をゆっくり開いた。
「すごい一週間だったね」
「グランディアでの生活が、嘘みたいだったわ」
ミレアは夜空を見たまま言った。
「前の日に話していた人が、次の日にはもういないんだもの」
「……ミレアちゃん」
「卒業したら、ああいう場所でも働くのよね」
「うん。帰ったら、また学院だけど……」
ミレアは左手を湯から上げた。
銀色のブレスレットの刻印が、わずかに光っていた。
濡れた指で模様をなぞる。
「ミレアちゃん。この前は、ごめんなさい」
ミレアはルーナへ顔を向けた。
「何が?」
「抜け駆けしたこと」
「……な、何のことよ」
「ソラさんと、お出かけしたこと」
「別に、何とも思ってないわよ」
「私ね……ソラさんのことが好きです」
「ミレアちゃんには、ちゃんと言っておきたくて」
「……そうだったの」
ミレアは天井へ顔を戻した。
「いいんじゃない。抜けてるあいつには、お似合いでしょ」
「それでね、帰ったらソラさんと出かけるの。私の誕生日のお祝いに」
「そう。私も今度、お祝いするわよ」
「ありがとう」
ミレアは起き上がり、濡れた桃色の髪を払った。
「のぼせたから、先に出るわ」
「うん」
「一階に、ご飯を食べられるところがあるの。あとで行くわよ」
「分かった。私もすぐ出るね」
ミレアが浴場を出ていく。
小さい頃から、ミレアを知っている。
ソラと話すときのミレアは、ほかの同級生と話すときとは表情が違う。
「……私も、あんな顔をしてるのかな」
ルーナも寝湯から起き上がった。
◇
グランディア学院。
ソラは自分のベッドで目を覚ました。
身体を伸ばし、ゆっくりと起き上がる。
「やっぱり、慣れたベッドが一番……」
一週間の実習で、思っていた以上に疲れが溜まっていた。
洗面台の鏡を見ると、黒髪はすっかりぼさぼさになっている。
「整えないと……」
「おっす、ソラ」
「おはよう、レオン」
「メリディアはどうだった? 刺激的な街なんだろ!」
「繁華街は、大人の街って感じだったよ。僕はグランディアの方が好きだけど」
「俺も行ってみてぇな、メリディア」
「来年、希望してみたら?」
「そうするかな」
「レオンはどうだったの?」
「いつも通り。グランディア支部で書類整理して、学院に戻って課題して、その繰り返しだよ」
「……それも大変そうだね」
「だろ?」
「ソラは今日、休みか?」
「うん。久しぶりに街へ出ようと思って」
「いいよなぁ。俺は今日一日、支部詰めだよ」
「頑張ってね」
「くそっ、羨ましいな」
レオンはそう言いながら、食堂へ歩いていった。
ソラは着替えを済ませ、ルーナからもらった三日月の飾りピンを胸元へ留めた。
棚に置いていた小さな包みを鞄へ入れ、部屋を出た。
◇
グランディアへ入る手前の橋で、ソラはルーナを待っていた。
通り過ぎる人の向こうから、よく知る声が聞こえる。
「お待たせしました」
ルーナは水色のワンピースに、白い羽織を合わせていた。
片肩の前へ流した黒髪が、羽織の上から胸元にかかっていた。
「その服、似合ってるね。髪型も少し変えた?」
「誕生日の主役ですからね! おしゃれしてきましたよ」
ルーナがソラの胸元へ目を留めた。
「そのピン。つけてきてくれたんですね」
「うん。気に入ってるよ」
「……嬉しいです」
ルーナは笑った。
「今日はどこに連れていってもらえるのか、楽しみです」
「楽しみにしてて。行こうか」
二人は橋を渡り、街へ入った。
店先を覗く人々の間を通り、アート街の方へ歩いていく。
「こっちは、アート街の方ですよね」
「うん。もうすぐ着くよ」
通りを抜けると、大きな白い階段が空へ向かって伸びていた。
先には、巨大な庭園が見える。
「空中庭園ですか……?」
ルーナが足を止めた。
「ソラさん、ここって……」
「うん。メリナさんの事件から、来てなかったんだ」
「いいんですか?」
「大丈夫だよ。ルーナなら、ここの庭園も好きかなと思って」
ソラは階段へ足をかけた。
手すりに手を添え、ルーナと並んで上がっていく。
途中で振り返ると、グランディアの街並みが見えた。
「いい景色ですね」
「前に来た時は、見てる暇もなかったから」
二人はしばらく街並みを眺めていた。
◇
階段を登りきると、入口の前に広場があった。
ソラが二人分の入園券を買い、受付で渡された案内図を開く。
園内はいくつかの区画に分かれ、中央にはモニュメントが描かれていた。
「いろいろあるね。どこから回ろうか」
「まずは、真ん中まで行ってみませんか?」
「いいね。行ってみよう」
入口を抜けると、色とりどりの花が道の両側に咲いていた。
ルーナは近くの花へ顔を寄せる。
「綺麗ですね。こんなに咲いてるんですね」
中央へ近づくと、花壇の向こうにモニュメントが見えた。
あの夜は、白い布に覆われていた。
ソラは足を止めた。
今は人々が集まり、順番に写真を撮っている。
「ソラさん?」
「ううん、何でもないよ」
ソラは案内図を畳んだ。
「向こうに、座れるところがあるみたいだね」
「行ってみましょうか」
二人は花壇に沿って歩き、庭園の端にあるベンチへ腰を下ろした。
柵の向こうには、先ほど階段から見た街が広がっている。
「風が気持ちいいですね」
ルーナが黒髪を押さえる。
ソラは鞄を開け、小さな包みを取り出した。
「遅くなったけど、誕生日おめでとう」
ルーナは差し出された包みを両手で受け取った。
「……ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「うん」
包みを開くと、透明な飾りの中に青い花を閉じ込めたネックレスがあった。
ルーナは指先で飾りを持ち上げた。
「綺麗……」
「レストラで見つけたんだよ。中の花、本物なんだって」
ルーナは光に透かし、青い花を眺めた。
「つけてもいいですか?」
「もちろん」
ルーナはチェーンを首へ回した。
後ろへ両手を伸ばすが、留め具がなかなか合わない。
「……少し、待ってくださいね」
「僕がやろうか?」
「お願いします」
ルーナが背を向け、黒髪を持ち上げる。
ソラはチェーンの端を受け取り、留め具をつないだ。
「できたよ」
ルーナが髪を下ろし、ソラへ向き直った。
水色のワンピースの上に、青い花が重なっている。
「どうですか?」
「うん。似合ってるよ」
「よかった。大切にしますね」
ルーナが満面の笑みを浮かべた。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
ソラも笑った。
「じゃあ、もう少し歩こうか」
「はい。まだ見てないところ、いっぱいありますね」
ルーナは指先で青い花に触れた。
頬が赤くなる。
「ソラさん、花言葉って……知らないですよね?」
「花言葉? うん。綺麗だなと思って選んだんだけど」
「……そうですよね」
「どんな意味なの?」
ルーナはネックレスへ目を落とし、笑った。
「今は、内緒です」




