表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ルイ・ヴィトン物語  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/3

第一話 村を出る日

少年は、盗んでいないパンのために殴られていた。

町はずれの市場裏だった。石畳は昨夜の雨を吸って黒く濡れ、荷車の轍にたまった泥水が、蹴られるたびに跳ねた。ルイは地面に片膝をついたまま、口の中に広がる血の味を飲みこんだ。腹が減っていた。昨日から、まともなものは食べていない。だが、盗んではいない。パン屋の荷車から落ちた欠けらを拾っただけだった。

「泥棒め」

木靴の先が脇腹にめりこんだ。息が潰れ、視界が白くなる。見物人はいた。女が一人、籠を抱えたまま立ち止まり、すぐに目をそらした。荷運びの男が笑った。誰も止めなかった。痩せた少年が殴られている。それだけのことだ。町では毎日、もっと大きなことが起きる。

ルイは声を上げなかった。

泣けば許される年では、もうなかった。許される顔つきもしていなかった。十三で村を出てから、彼の顔からは子どもの丸みが削げ落ちていた。頬はこけ、顎は尖り、目だけが妙に静かだった。飢えた犬のように怯えているくせに、どこかで相手を見返している目だった。

「まだ睨むのか」

男が吐き捨てた。パン屋の主人だった。腕は太く、首は短く、怒るたびに顔が赤黒く膨れた。ルイはその顔を見上げた。睨んでいたわけではない。ただ覚えていたのだ。人の顔を。怒鳴り声を。靴の形を。荷車の木目を。どんな町で、どんな人間に、どんなふうに扱われたかを。彼は字を読めなかったが、見たものを忘れないという点では、紙よりも正確だった。

「失せろ」

最後の蹴りは肩に入った。ルイは横倒しになり、泥水に手をついた。指のあいだに冷たい水が入りこむ。爪のあいだは黒く汚れ、甲には古い傷がいくつも走っていた。もう子どもの手ではなかった。何も持っていないくせに、何かを掴みそこねまいとしている手だった。

男が去り、見物人も散った。市場裏には、濡れた藁と腐りかけた野菜の匂いだけが残った。ルイはしばらくそのまま動かなかった。立ち上がれば、また腹が減る。歩き出せば、また遠くなる。そうわかっていた。

パリまで、まだ遠い。

その言葉だけが、頭の中で石のように重かった。

彼はゆっくり起き上がった。脇腹が痛んだ。息を吸うたび、肋の奥が軋んだ。だが折れてはいない。歩ける。歩けるなら進める。進めるなら、まだ終わっていない。

道の端に、さっきのパンの欠けらが落ちていた。泥にまみれ、靴跡までついている。ルイはそれを拾った。少しだけためらい、袖で泥をぬぐい、口に入れた。固かった。砂を噛むような味がした。それでも腹の底に落ちていく感覚だけは、本物だった。

彼は歩き出した。

町を抜ける道には、春先の冷たい風が吹いていた。荷車が行き交い、馬の糞が乾ききらぬまま轍に潰されている。旅人たちは皆、自分よりましな靴を履き、自分よりましな顔をしていた。急ぐ者、怒鳴る者、笑う者。誰も彼を見なかった。見たとしても、道端の石と同じだった。

それでよかった、とルイは思った。

見られない者は、消えた者と同じだ。

消えた者は、どこへでも行ける。

彼はそうやってここまで来た。村を出た朝から、ずっと。


ジュラの山あいの村を出たのは、二年前のことだった。夜明け前、まだ鶏も鳴かぬうちに家を出た。持っていたのは、替えのシャツと固いパン、そして父が最後によこしたわずかな硬貨だけ。字も読めず、地図もなく、パリがどれほど遠いかも知らなかった。ただ、この村に残れば自分の人生はそこで終わる、ということだけは知っていた。

父は、止めなかった。

怒鳴りもしなかった。殴りもしなかった。ただ戸口に立ち、暗い顔でルイを見ていた。母が死んでから、父はますます口数の少ない男になっていた。もともと愛想のある人間ではなかったが、妻を失ってからは、家の中にいるのに、どこか別の場所にいるような目をすることが増えた。ルイはその目が嫌いだった。自分まで、もういないものとして見られている気がしたからだ。

「どこへ行く」

父はそう訊いた。

「パリへ」

ルイが答えると、父は鼻で笑うでもなく、怒るでもなく、ただ一度だけ目を細めた。

「歩いてか」

「そうだ」

「字も読めんくせに」

「だから行く」

あのとき、父の顔に浮かんだものが何だったのか、ルイには今もわからない。呆れか、怒りか、諦めか。あるいは、そのどれでもない何かだったのかもしれない。父は家の中へ戻り、しばらくして布袋を持ってきた。投げてよこされたそれを受け取ると、中で硬貨が鳴った。

「多くはない」

父は言った。

「なくしたら終わりだ」

それから少し間を置いて、最後にこう言った。

「死ぬな」

それが別れの言葉だった。


ルイはその朝、一度も振り返らなかった。振り返れば足が止まるとわかっていたからだ。村の外れのぬかるんだ道を、まだ細い足で踏みしめながら、彼は自分が何を捨てたのかも、何を取りに行くのかも知らなかった。ただ、行かなければならないとだけ思っていた。そうしなければ、自分は父と同じ顔になり、父と同じ沈黙の中で年を取るのだと、子どもじみた残酷さで信じていた。


その信念だけで、二年歩いた。

雨に打たれた。追い払われた。納屋で眠り、教会の裏で朝を迎え、井戸水で腹を膨らませた。親切な人間もいたが、長くは続かなかった。世の中は、見知らぬ少年に居場所をくれるほど暇ではない。だからルイは、居場所の代わりに道を選んだ。道は誰のものでもない。歩ける者のものだ。

そして歩くうちに、彼はひとつのことを覚えた。


人は、持ち物で自分の身分を運ぶ。

粗末な旅人は、布袋を背負う。

少しましな者は、革の鞄を持つ。

金のある者は、箱を運ばせる。


箱は不思議なものだった。中身が見えなくても、持ち主の暮らしが透けて見える。角の補強、金具の重さ、革の艶、持ち手の擦れ具合。そこには、その人間が何を大事にし、何を失いたくないかが出る。ルイはそれを、飢えた目で見ていた。自分には何ひとつないからこそ、他人が何を持っているかがよく見えた。

その日、市場裏で殴られたあとも、彼はひとつの荷車を見ていた。

青い塗装の剥げた馬車の後ろに、ひとつだけ場違いな箱が積まれていた。濃い色の革張りで、角は真鍮で守られ、蓋はゆるやかに丸みを帯びている。泥だらけの道にあって、その箱だけが別の国のもののように見えた。召使いらしい男が、乱暴に扱わず、両手で抱えるように下ろしていた。中に何が入っているのかはわからない。服か、靴か、香水瓶か。だが、ただの荷物ではないことだけはわかった。あれは持ち主の生活そのものだ。旅先でも崩れてはならない、その人間の形だ。


ルイは歩きながら、何度もその箱を思い出した。

腹は減っている。脇腹は痛む。今夜眠る場所も決まっていない。なのに頭のどこかで、あの箱のことだけが妙に残った。なぜ丸いのか。なぜあれほど丁寧に扱われるのか。なぜ人は、自分の持ち物をあんなふうに遠くまで運ばせるのか。

答えはまだなかった。

だが、問いだけは残った。

それが後に彼の人生を変える問いになることを、このときのルイは知らない。知っていたのは、腹が減っていることと、パリまでまだ遠いことだけだった。

それでも彼は問い続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ