しかし、そんな場所はどこにもなかった
「だからねぇー、どうでも良くなっちゃったんだ」
ベッドに腰をかけて、私はここまでの経緯を話した。なぜ、あんなところで歩いていたのか、と聞かれたから説明したのだが、今まで想定内の言動しか見せなかった男が、初めて意外な反応を見せた。
「意味わかんないんだけど」
場を和ませようとか、冗談で返すとか、そういうつもりもないらしく、心底理解できないと言わんばかりに、真顔で言うのだった。
「……そう?」
私は男の意外過ぎる反応に、逆に動揺して、それしか言葉が出てこなかった。てっきり、男は毒にも薬にもならない慰めを並べて、最終的には「今を楽しめばいい」みたいなことを言うと思っていたのだ。それが、この全力の意味不明顔である。いや、むしろ不快感を抱いているようにも見えた。
「俺、そういうの、無理だわ」
男は、はっきりと言う。
「何て言うの、君みたいなタイプ。メンヘラって言うの? 俺、よく分からないんだよね。いや、そういう人が一定の層からモテることは知ってるよ。でもさ、他人の庇護欲を刺激してちやほやされているだけなのに、いい気になっている感じ、気に入らないわ。あと、意味わからないことで悩むくらいなら、すぐに行動すれば良いじゃん。楽しいこと見付ければ良いじゃん。それなのに、引き籠もって無駄に暗くなって、周りを巻き込むんだよな。みんなに迷惑かけているのに、自分が一番被害者みたいな態度でさ、関わったら面倒なタイプだよ、本当に。やめた方が良いと思うよ、そういうの」
「……そうなんだよねぇ」
真っ当だ。彼の言うことは、真っ当だ。だけど、少しも優しくない。ああ、そうだ。優しくされるべき人間ではないのか、私は。
「悪いけれど、君みたいなタイプ、本当に無理なんだわ、俺」
ホテルを出た。苛立った彼の態度に、有無を言わさず、という形だった。彼は律儀なことに、私を拾った場所まで送り届け、車を降ろした。
「その性格、ちゃんと考え直した方が良いよ。自分を大事にすべきだし、周りの人にまで迷惑かけるんだから」
「そうだねー、本当にその通り」
最後まで、不快感を露わにしたままだった。もしかしたら、私が彼の助言を聞き入れていないことがバレているのかもしれない。
遠ざかるテールランプを眺めながら考える。色々と、ハッキリ言ってくれたな…。この後、私がどんな行動を取るのか、想像しなかったのだろうか。しかも、こんな深夜に女を降ろすなんて。せめて、朝までホテルで過ごさせてくれればいいのに。
朝まで、コンビニの駐車場で過ごした。何もせず、縁石に座って過ごすのも、なかなか苦痛だった。その時間、私はずっとさっきの男について考えた。そして、一つの結論に至る。きっと、彼はとても生きることに肯定的で、だからこそ、あんな風にお金が流れてくるのかもしれない。そう思うと、凄く自然なことであるような気がした。
世の中、上手くできている。そう思わずにいられなかった。
朝になって、今度はできるだけ人通りが少ない方へと歩くことにした。人気が少しずつ減って行く。さらに、人がいない方へ。そんな選択を徹底したら、いつの間にか山道を登っていた。
それでも舗装された道なので、歩きにくいということはない。ただ、雨が降り出してしまった。濡れてしまうな、と考えたが、そんなことを心配している自分が馬鹿らしく思えた。
もう歩けない。幸運にも、と言うべきか、限界を感じたタイミングで、ちょっとした駐車スペースに、東屋を見付けた。
ここなら、ベンチに座れるし、三角形の屋根は雨を防いでくれる。何時なのか気になったが、確認する術はなかった。ずっと歩き続けたのだから、それなりに高い場所まで登ったはず。だから、この東屋からの景色も、晴れていれば素晴らしいものかもしれない。暫く、何もせずそこに止まっていると、自分は何をしているのだろうか、という疑問が浮き上がってきた。
何と言うわけはない。ただ、このまま朽ち果ててしまおう、というだけのことだ。だから、何もしないことを、しているのだ。
雨が止んだ。しかし、もう辺りは暗くなっていて、東屋から見えるのであろう景色は、街の灯りだけだ。人工的な灯りは私を不安にさせる。あれだけの人が、明日を怖れずに生きているのだ、と。彼らは幸せを追い求め、もしくはそれを守るために、きっと多くの困難と向き合っている。
私はそういうものから逃げ出したいわけではない。できることなら、同じように人生を踏みしめたかった。だけど、もう…そんな生き方を見付けられるとは思えない。今更、私の未来に何があるのと言うのだ。
東屋の先は、ちょっとした崖になっていた。
ここから飛び降りたら、どうなるだろう。もしかしたら、骨の一本や二本が折れて、動けなくなるかもしれない。そしたら、痛い痛いと苦しんでも、誰かに見付けてもらうことなく、息絶えることになるかもしれない。
最悪な方法かもしれないが、それくらいの苦しみに打ち付けられなければ、自分の中から込み上げてくる卑怯な気持ちは、消えてくれないような気がした。
それなのに、崖の淵に立ってみると足が竦んで、その場に座り込んでしまう。私が抱いていた絶望は、この一歩すら踏み出せないほどのことなのか。そう思うと悔しくて泣けてきた。膝を抱えて、浮いては沈む様々な感情に耐える。怒りの感情が大きくなったとき、今度こそ一歩踏み出してやろうとも思ったが、やっぱり無理で、再び情けない気持ちに心が沈むだけだった。
泣き疲れると、考えることもしんどくなった。ずっと同じ体制で、とにかく体が痛かったけれど、動いてしまったら、それこそ何かに負けてしまう気がして、やはり動かずにいた。横たわって、少し眠ってみたが、体が痛くて目を覚ます。それの繰り返しだった。
そんなことをしているうちに、空が紫色に変わっていた。朝が来る。予定としては、もう朝日なんて見ることはない、と思っていたのに。
山の後ろに隠れていた太陽が僅かに顔を出した。ほんの一部分が姿を現しただけなのに、眩いばかりの光が街中を照らす。まさに、新しい一日の始まりに相応しい光景だ。
私はどれだけ遠くまで来たのだろうか。あれだけ歩いたのだ。きっと、私を不安にさせる世界は、ずっと彼方へ消えたはず。こうやって逃げられるのだとしたら、私はもう一度生き方を選べるかもしれない。やり直せるかもしれない。そんな期待を少しだけ抱きながら、光が広がる様子を眺めた。
しかし、光に照らされた街並みは、見覚えのあるものばかりだった。いつも利用している、最寄りの駅だって、簡単に見つけられてしまうほど、知っている景色ばかりだ。
世界の果てまで、逃げてきたつもりだった。私が暮らしていた日常は、ずっと遠くにあって、もう帰ることができないくらい、逃げ切ったつもりだった。それなのに、現実は私の足を掴んで離さないかのように、すぐそこから見上げている。
だとしたら、この山を越えれば…。
そう思って続く坂道を見上げた。しかし、ここを超えたところでどうなる。そもそも、私にこの道を歩くだけの力は残っているのだろうか。どこまでも続くように見えた道が恐ろしくて、思わず視線を逸らすと、すっかりと日常が始まっている街が目に入ってしまった。
一晩中泣いていたのだから、もう出てこないと思っていたのに、涙が溢れ出す。目に溜まった涙のせいで、朝の光が余計に眩しかった。心の中で、ちくしょう、と呟く。そして、絶対口に出すまいと思っていたはずの言葉が零れる。
「大嫌いだよ、こんな世界。それなのに…」
まだ生きていたい。そんな風に思っている。
朝がやってくることを、何度も恐れた。眠りに付く前、朝がこなければ、と何度祈っただろうか。それなのに、朝の光に生きたいって思わせられるなんて。
最初から分かっていたことだけれど、私はこの世界とお別れすることは、できないようだ。もう一度幸せが。生きていれば、あの快楽が再び私を満たすかもしれない。どんなに否定しても、そんな欲望は消えることがないのだ。




