何度も、繰り返し願った
明日の朝には、この部屋を出る。そう思うと、眠れなかった。
朝方、カーテンの隙間から光が入ってきたと同時に、私は布団から抜け出し、できるだけ音を立てないように準備をして、部屋を出た。きっと広瀬くんは、私がいつになっても起きてこないと思ったら、どこにもいないことに気付いて驚くことに違いない。
久しぶりに朝の空気を吸い込んだ。今の私は、何のしがらみもない。そう思うと、肺を満たす空気が清々しく、吐き出したときは生まれ変わったような気持ちすらあった。
取り敢えず、どこというわけでもなく歩き出す。これだけ早い時間に外を歩くことは稀だ。しかも、仕事に向かうわけでもない、となると、何もかも新鮮だった。まだ近所なわけだけれど、いつも見ていた遊具の少ない公園も、どんな人が住んでいるのか知らない家の庭も、何もかもが新鮮だ。
どれだけ時間が経ったのか、ついに今まで歩いたことのない場所に至った。
既に多くの人が活動している時間である上に、大通りに出てしまったから、目に入るものは走る車ばかり。ただ、それだけのことだけれど、多くの人の営みを感じられた。
誰もが明日のため、一週間後のため、一年後、十年後、もっと先の日のために、何かしらの課題に取り組んで、移動している。何だか果てしなく、途方もないことのように感じた。それでも、こうやって忙しなく移動し続ける人々の原動力は、どこになるのだろう。
もう足が痛くて動かない。世界の果てまで歩くつもりが、お昼過ぎには限界がきた。どこにでもあるコーヒーショップが目に入ったので、そこで休むことにした。アイスコーヒーを飲みながら、ぼんやりと店内を眺めていると、若いカップルが入ってきた。
高校生だろうか。大学生かもしれない。しばらく観察していたが、二人とも緊張した面持で、会話も弾んだ様子はない。たぶん、彼らは上手く行かない。長くても二年で別れるのではないか。でも、いつかこの時間が、良い経験だったと思い返すことがあるはずだ。少しの苦みと一緒に。
また歩き出した。強い風が吹く。ちょうどいい冷たさで気持ちが良かった。
もう少しで夕方。
コンビニからサラリーマンらしい、スーツ姿の男性が出てきた。電話を耳にあて、誰かと会話している。
「まだ食べれてないけれど、大丈夫。そっちを優先しよう」
そんなことを言いながら、車に乗り込んでいた。十秒くらい会話を続け、それが終わるとすぐに車を動かして去って行った。きっと、ご飯も食べずに仕事をしているのだ。
大変そうだ。でも、あの人にとっては、あれが日常なのだろう。私にはきっとできない。あの男性みたいに、色々なことを仕事に捧げることはできない。
夕暮れの河川敷を歩いた。
中学生と思われる丸坊主の二人組を見かける。一人は腰を落としてミットを構え、もう一人がゆっくりと足を持ち上げてから振り回すようにボールを投げ付けた。ボールを受けた方は、何やらアドバイスらしき言葉を添えつつ、それを投げ返す。きっと彼らには、目標があって、それを達成するため、真剣に練習しているのだ。
彼らにとっては、この瞬間、これが生きる目的なのだろう。生きがいだ。だけど、それは大人になっても続くとは限らない。彼らは夢を追い続けるのだろうか。それとも、新しい生きがいを手に入れられるだろうか。そして、それを支えにして、日々を耐え凌ぐことはできるのか。
夜。学習塾の前には、ちょっとした車の渋滞ができていた。
遅くまで勉強に励む子供たちを迎えにきた親たちが、車を停めて待っている。学習塾から出てくる子供たちの表情は、決して暗くない。だけど、自分の未来を信じているとか、そういうことではないように見えた。
きっと集中して、目の前にあることを頑張っているのだ。小さい頃から勉強することは、たぶん大切だ。私はしてこなかったけれど。とにかく、一生懸命勉強した彼らが、人生の途中で道を見失ってしまうことがなければ良いのだけれど。
かなり遅い時間になってしまったけれど、ビジネスホテルに泊まれた。
支払いのために、携帯端末の電源を入れてみたが、特に誰からも連絡はなかった。電源を切ってから、すぐにベッドで横になる。何もしなくて良い。ただ横になって、何か心配することもなければ、怯える必要もないのだから。
目覚めてから、すぐにホテルを出た。まだ七時だ。
外を出て歩くと、既に世界が回り始めていることを実感した。誰もがゆっくりと眠っていられない。生きるために、生活を維持するために、アラームに叩き起こされては、労働に取り組む。そして、一週間が終わることを、待ちながら、ただ耐えるのだろう。命をすり減らして。
昼間から、ナンパされた。
コンビニに止まっていた車から顔を出した男が、声をかけてきたのだ。
「暇なの? だったら一緒にドライブしようよ。これ、結構良い車なんだよ」
その男が自慢した車は、左ハンドルで車高が低く、エンジン音がとにかく大きかった。その男は、明らかに軽率そうで、髪は明るく大きなピアスを耳に下げていた。このような男を見る度に、なぜこの手の人間に金が流れているのか、不思議に思う。
「ねぇ、どうよ? 絶対に楽しませるからさ」
こんな馬鹿みたいな男に滅茶苦茶にされたら、どうしようもない気持ちが加速するかもしれない。私は微笑んで、車に乗り込んだ。
見た目通り、想像した通り、男の話はつまらなかった。
「何でもやり方によってはさ、お金になるんだよ。俺なんか高卒で、殆ど勉強してないけれど、ちょっと目の付け所が違うって言うかさ、他の人よりも発想力があるタイプなんだよね。最初は先輩の仕事を手伝っているだけで、給料も大したことなかったけれど、少し見方を変えて、やり方を変えたら、儲け方が分かったんだよね。そこからは先輩よりも稼げるようになって、独立したんだ。それで別の業界にチャレンジしたんだけど、やっぱり他の人が見ていないポイントみたいなもの、察知しちゃってさ。なんで誰も気付かねぇのかな、とか思いながら、まずは飛び込んでみたんだよ。最初は、絶対上手く行かないって周りに止められたけれど、うるせぇ、誰が決めたんだって感じで…」
途中からは聞いていなかった。前も誰かから、同じような話を聞いた気がしたから。でも、美味しい夕食を食べさせてもらった。人生で食べる、最後の高級料理かもしれない、と思うと、無駄に「美味しい」と口に出して言ってしまい、無駄に男を喜ばせてしまった。
「そうだろう? ちょっと高い金を出すだけで、何でも質が変わるんだよ。みんな、こういうときお金を出し渋るけどさ、違うんだよ。節約すれば、将来成功するわけじゃないんだって。だって、金を出すことで貴重な経験が手に入るわけでさ、それが何よりも大切なことで…」
もう少し、静かに食べたかった。これだけ美味しい料理だったのだから。
「この後、どこ行きたい?」と男は満足するまで喋ると、下品な笑みを浮かべながら聞いてきた。
目的はもちろん理解している。その上で、私は答えた。
「どこか静かなところ、連れて行ってよ」
男は私が想像していた場所まで車を走らせた。ここまで予想を外さないとなると、芸がないと言えるが、それで良かった。車が止まった場所は、言う間でもない。ラブホテルだった。




