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ここではないどこかへ

新しい生活は、楽しかった。最初こそ、楽しかったけれど、それは長く続くものではなかった。


広瀬くんは引っ越してから、すぐに仕事を見付けた。どうやら、パソコンさえあれば、どこででもできる仕事らしい。私は新しい環境を満喫したくて、外で働くことにした。最初は良かったが、新しい仕事場で男に言い寄られ、居心地が悪くなってしまい、すぐに辞めてしまうことに。他人との距離感が分からず、満足に働くこともできない自分に失望したが、それでもよかった。


「それは、新条さんは悪くありませんよ、ぜんぜん」

帰れば、どんな話であっても、すべて肯定してくれる人がいたから。

「新条さんが罪悪感を抱く必要なんてないと思います」


本当は分かっている。私がいけなくて、男性に言い寄られ、人間関係を壊していることを。私が隙だらけで、無駄に八方美人で、思わせぶりなことを言って、周りの人を勘違いさせてしまう。広瀬くんも、それを知っているのに、あえて肯定してくれているのだ。


そんな生活は私の心を満たした。昔、彼と沙耶ちゃんの関係を目にしてから、私は何度も泥の中に引きずり込まれるような嫉妬心を抱いていた。だけど、そんな呪いのような日々が報われて行くように、私は彼の優しさを浴びたのだった。


彼の優しさは、私の理想通りだった。

一夜の相手を求めて優しくする男とは違う。

恋人ごっこがやってみたくて優しくする先輩とは違う。

愛されている自分に酔って優しくする哲くんとも違う。

優しい自分を演じ続ければ、いつか私を手なずけられると考えている、奏人とも違う。

私のこと、馬鹿みたいに好きだったくせに、結局は家庭を捨てられなかった、あの人とも…。


そして、私は沙耶ちゃんとは違う。広瀬くんを手離すことはない。これだけ、愛情を注いでくれる人を、無下にするつもりはないのだから。




だが、理想の優しさを貪った私は、いつの間にか満たされてしまった。どこかが満たされてしまうと、別のどこかが満たされなくなる。そんな強欲さに、私は気付いてしまった。


きっかけは、本当に些細なことだった。ある日、私が仕事を終え、珍しく広瀬くんが迎えにきたときのこと。私は店を出て、すぐに彼を見付けた。予定よりも十五分も遅れてしまったので、待たせてしまったと、それなりに焦りながら小走りで彼の方へ近付く。そのとき、彼は私に気付いていなかった。星でも見ているのか、斜め上を見て、ぼんやりとしているようだった。そんな彼を見て、私は足を止める。その瞬間、私の中にどのような感情が走ったのか、いまいち説明ができない。


ただ、彼は立っていただけなのだが、私は強い違和感を覚えた。それこそ、駆け抜けるような、突き抜けるような、穿たれるような、強い何かだ。


完全に足を止めて呆然とする私に、彼が気付き、笑顔で手を振った。数秒、私はそれに反応できなかったが、自制するように心の中で繰り返した。自分の選んだ道ではないか。こんなところまで来て、これ以上どこに逃げると言うのだ、と。


私は何とか笑顔を浮かべて、手を振り返した。しかし、それからは、以前のように広瀬くんに接することが難しくなってしまった。笑いたくても、不自然になってしまう。何となく、彼に嘘を吐いているような気がしてしまうのである。


ある日、浮かない顔を続ける私に、彼は首を傾げた。

「大丈夫?」

不意に聞かれて、答えられず、私は涙を流してしまった。誤魔化すように顔を伏せるが、隠せるわけがない。泣いていることは、丸分かりだ。俯いていたため、広瀬くんがどんな表情をしていたのかは分からなかったが、彼はずっと黙っていた。彼ならきっと、何があったのだろうか、と慌てふためくはずなのに、ただ黙っている。それが恐ろしかった。


そんな私の恐怖心に優しく触れるよう、彼は呟いた。

「ごめんね」

気付かれた、と血の気が引く。


「広瀬くんは、何も悪くないのに、どうして謝るの?」


私は涙の理由を、何とか考えようと思った。彼を傷付けない理由を。しかし、彼がその場を立ち去ろうとする気配が。


「新条さんは、一人で考えるべきだと思う。僕と違って、別の生き方だって選べるはずだよ」


そして、部屋から出て行ってしまった。私は一人で泣いた。声だけは出すまいと、人差し指に噛み付きながら。


一人になって、私は自分を責める。私はこの世界に対して、何を求めようとしているのか。どこに行っても、もう手に入らないと、分かっているはずなのに、どこかでそれを求め続けている。私は私が思っている以上に貪欲だ。強欲だ。欲張りで、意地汚い。


本当の優しさを与えてくれる人を、手に入れた。そう思っていた。でも、私は広瀬くんから優しくされたいと思っていたわけではないのだ。そんなことに気付いて、自分を憐れんでいる。何て最低なのだろう。




だけど、そんな感情は、私だけのものではなかった。同様に広瀬くんも感じているものだった、と思う。


別の日。私が少しばかり落ち着きを取り戻してからのこと。


二人でぼんやりとテレビを見ていた。その番組を、特に集中して見ていたわけではないので、詳しい内容なんかは覚えていない。ただ、一枚の絵が映ったことを覚えている。そのとき、広瀬くんが呟いたのだ。


「今の絵…」


何か物凄い絵なのだろうか、と私はテレビの画面に見入った。有名な外国の画家によるものらしいが、どこかで見たような、ないような…とにかく、私には理解できないものだった。


「これ、有名なの? なんか不気味な絵だねぇ」


私はその絵について、特に何かを思ったわけではない。不気味、と言ったことも、本当にそう思ったけでもなく、感想らしい感想が何も出てこなかったから、その言葉を当てはめただけだ。


そんな私の言葉に、広瀬くんは笑顔を見せたものの、明らかに苦々しい感情を含んでいた。そこで、私はこの絵が何なのか、直感で理解した。たぶん、沙耶ちゃんの想い出なのだ。この絵は、二人にとって何か意味があったのだろう。


そんな出来事があってから、少しずつ広瀬くんの口数は減って行った。考え込むように暗い顔を見せることが増え、私を避けるような素振りもあった。そんな広瀬くんを見る度に、彼もこの生活に限界を感じているのだ、と思わずにいられなかった。


でも、この生活が限界を迎えたとしたら、私たちはどうやって生きて行けばいいのだろうか。きっと、そんな壁にぶつかってしまうだろう。そして、それを乗り越えられないとしたら、私たちは生きて行く術を失ったも同然である。


そして、私たちはこの生活が間違っていることに気付いてしまった。崩壊の瞬間が、目に見え始めていたのだ。それでも、誤魔化しながら続けていたところ、私は安住の場所であるように感じていた仕事場を去ることになった。




ついに、何もやることがなくなってしまった。

広瀬くんの顔を見ることも、少しずつ苦痛になり始めた。広瀬くんは広瀬くんで、さらに口数が減って、私を存在しないかのように扱うことすらあった。


逃げられない何かを振り切るつもりで、ここまでやってきた。でも、その何かはいつの間にか私に追いついていた。それどころか、既に肩を叩いて、こう囁いている。


「どこにも逃げられはしない」


その通りだ。どこまで逃げても、それは追いついてくる。その存在を否定しても、気付かされてしまう。それに打ち勝つには、それを怖れずに生きて行くには、幸せになるしかない。だけど、私には幸せになろうとする体力を失ってしまった。少なくとも二人なら生きていける。いや、広瀬くんを利用すれば、生きて行けると信じていたのに。それすら間違っているのだとしたら、もう道がなかった。


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