慣れている女と理解できない関係
「あ、美和子ちゃん」
大学内を歩いていると、背後から声をかけられた。その声が誰なのか、瞬時に理解できた。新条玲奈だ。振り返ると、彼女は笑顔で手を振っていたが、どういう感情を抱いているのか、全くと言って良いほど分からなかった。
「おはよう」と私は何とか笑顔を浮かべる。
「おはよー。これから授業ー?」
「うん。そうだよ」
変に話が長くならないために嘘を吐いたのだが、彼女は私を逃がしてはくれない。
「ねぇねぇ、暇だから一緒に授業受けても良いかなぁ?」
もちろん、良いとは言えない。数秒、何か言い訳はないか、と考えたが、駄目だった。
「どうしたの? 何か話があるなら、聞こうか?」
私の中にある八方美人の部分が許してくれなかったのである。
「本当ー? 助かるなぁ」
場所を移して、向かい合って話を聞くことになった。新条玲奈と二人きりになると、変な緊張感に包まれる。気を抜いたら、彼女の世界に引き込まれてしまうような、そんな恐怖があるのだ。
「この前ね」
私の緊張感を嘲笑うような表情で、彼女は話し始めた。
「奏人くんに付き合ってほしいって言われたんだよねぇ」
「え?」
動揺が走る。それは表情にも出ていただろう。意外だった、というわけではない。ただ、新条玲奈の声色には、まるで私の罪悪感をからかうような響きがあったからだ。
「困っているんだよねー。奏人くんって、沙耶ちゃんの彼氏、なんだよねー?」
「そうだよ」
私の声は震えていたが、彼女は気付いているだろうか。
「美和子ちゃん、沙耶ちゃんの友達でしょ?」
お前が仕向けたのだろう。そう言われたような気がした。
「できたらさ、ややこしいことにならないよう、美和子ちゃんから言ってもらえない?」
「言うって、誰に?」
「やだなぁ、奏人くんだよー。沙耶ちゃんに言ったら、大変なことになっちゃうよ、たぶん」
「……そうだよね」
新条玲奈はこの時点で、一仕事を終えたかのように満足気な表情を見せた。これだけ複雑な事情が絡んだ話なのに、相談と言うよりも、伝達事項を口にしただけ、という印象だ。普通なら、経緯だったりシチュエーションだったり、聞いて欲しくて無駄に話してしまうものではないか。それがないことに、彼女の不気味さを感じずにはいられない。
「よくあることなの…?」
怖れながらも、興味本位で聞いてしまった。
「よくあるって、何が?」
「こういうトラブル、慣れているのかな、って。なんか、玲奈ちゃんって凄くモテそうだから」
私の言葉に彼女は少しだけ目を丸くした。そんなことを聞かれるなんて、思いもしなかったらしい。
「モテるってわけじゃないけれど、続くときは続くんだよね。何て言うか、私って頭が悪いから、気付いたらそういう状況になっていることがあってさ」
「玲奈ちゃんは、好きな人、いないの?」
聞かなければいいのに、私は暗闇に向かって足を一歩進めるように、尋ねていた。
「いるよー」
それは、兄弟はいるのか、と聞かれたかのような軽い感じで彼女は答えた。
「でも、フラれちゃってさ。だからと言って、他の人と付き合う気にもなれないし、誰かに好きだって言われると、少し困っちゃうんだよね」
「大変だね」
半分本気で、半分は驚愕しながら、私は言ったのだが、彼女の方はやはりどこか無感情だった。
「うーん。でも、正直言うと、助かっているところもあるんだ」
少しだけ彼女の目が鋭くなったような気がした。
「好意を寄せてもらうとさ、こんな自分も好きでいてくれる人がるんだ、って…何て言うか、心の隙間を埋めてもらえる、って言えば良いのかなぁ。でも、だからと言って、私みたいな人間を好きになるような人って、なんか信じられないし…。それより、面倒なことになるのだけはやめてくれー、って思っちゃうんだよね」
どこか遠くを睨み付けるような彼女だったが、私と言う存在に気付いたかのように、こちらを向くと確認するように言った。
「あ、何か私…嫌な感じだった?」
「そんなことはないよ」と否定する私に、彼女は疲れたような笑顔を見せた。
「自慢とかそういうつもりではないんだけどねぇ。結局、私の態度が悪いことだから、自業自得だし、嫌われて仕方のないことだって、分かっているつもりだんけどさ」
彼女は私と言う存在を意識して、表情を整えたつもりのようだったが、すぐに薄暗い影を見せる。そして、その影を伸ばすように、心の内を語った。
「分かっているんだよ、このままじゃ駄目だって。だから、ここではないどこかに行きたい、って思うこともあるんだ。そうしないと私は壊れてしまう。だけどさ、何もかも捨ててどこかに消えるってことも、なかなか勇気が必要で、難しいことなんだよね」
彼女の眼差しは、どこかにあるだろう、ここではないどこかを見つめているようだった。そんな彼女の眼差しに引かれるように、私の頭の中にも、ここではないどこかが、その瞬間だけ見えたような気がしたのだった。
自らに降りかかろうとしていた呪いを、親友に押し付けた。その報いは、思っていたよりも早くやってきた。
「別れたい」
突然、哲から申し出があったのだ。
「どうして…?」と怯えながら問う。
「他に好きな人ができた」
「誰? どんな人?」
この瞬間がきたとき、私は取り乱すかもしれないと思っていたが、そうでもなかった。自分でも驚くほど冷静で、気になることを確認しよう、という気持ちが強かった。
しかし、どれだけ聞いても、哲は苦笑いを浮かべるだけで、何も答えてくれなかった。何度も考え直してほしいとお願いしたが、彼の中にある結論が変わることはなく、私たちは別れることになってしまった。
この瞬間が冷静だっただけで、落ち込まないわけはない。それから間もなくして私は、落ち込む期間に突入した。私は哲のことが好きなのに、哲は私のことが好きではない。それだけでも、受け入れがたい残酷なことなのに、哲の想いを受ける別の女がいると思うと、私は砕けてしまいそうだった。実際、数日は熱にうなされ、眠れない夜もあり、心身ともに限界を迎えてしまいそうだった。
それでも時間をかけて、精神的な落ち着きを取り戻し、体調も徐々に回復した。なかなか外に出るつもりにはなれなかったが、どんなに落ち込んでも、時間は勝手に進んでしまう、という事実が怖かった。時間に乗り遅れたら、人生を見失ってしまうこともあるはず。
そんな強迫観念が、何とか私を動かし、何とか世界との関わりに復帰させたのである。この件で、いくつかの学びがあったが、何よりも大切な人を失うことのダメージの大きさを思い知らされた。
哲という人間は、私にとって人生の一部のようなもので、彼と言う存在を前提に生きていた。それを失うということは、腕や足といった体の一部を失うダメージを負うことと同じだった。できれば、取り戻したい。取り戻せるのであれば、二度と失いたくないと思った。
そんな気持ちを共有できる相手は、沙耶しかいなかった。彼女が負った傷も深いはず。もっと早く気に掛けるべきだった。なぜ、そうしなかったのだろう。自分のことで精一杯だったことはもちろんだが、仄かな罪悪感から、彼女に目を向けることができなかったのかもしれない。
大学でお互いの話をしよう、と連絡を取ってみると、図書館にいるからそこで待っている、と返信があった。図書館へ向かうと、ちょうど入り口の前で沙耶を見付ける。声をかけようとしたが、彼女は誰かと一緒だった。そういえば、彼女は最近、お気に入りの後輩がいたのだ。
「あ、美和子先輩」
その後輩…広瀬くんは私に向かって会釈した。私も「よう」とか適当な返事をしながら、似たような表情を見せる。
「じゃあ、僕は次の授業があるので」
「うん。またねー」
立ち去る広瀬くんのことを、沙耶は引き止めることはなかった。
「よかったの?」
念のため確認してみると、沙耶は平然と首を傾げる。
「何が?」
広瀬くんは、沙耶と一緒にいたかったはず。それを蔑ろにしていいのだろうか、と疑問に思ったが、当の広瀬くんがあっさりと立ち去ってしまったのだから、気にすることではないのかもしれない。
沙耶と広瀬くんの関係を見ていると、たまに不思議になることがある。広瀬くんは絶対に沙耶のタイプではないはず。それなのに、どうしてこんなにも頻繁に会っているのだろう、と。
「最近、広瀬くんと仲良いよね?」
試しに聞いてみよう、と思った。
「ああ、うん。よく話すよ」と沙耶は答える。
「もしかして、もう告白された?」
私の質問に、沙耶は小さく吹き出す。
「何言っているの? そういうのじゃないって。彼は、そうだな…気が合う友達だよ。月並みな表現だけれど、弟みたいな」
「広瀬くんもそう言っていたの?」
「そういう話をしたことはないけれど、たぶん考えていることは同じだよ。けっこう、感覚が似ているところがあるからさ」
やはり、沙耶は広瀬くんを異性として意識しているわけではない、ということは確かなようだ。ただ、説明されても、私はどこか釈然としない気持ちだった。
気が合う、と言っても、これだけ頻繁に会うものだろうか、と。もしかしたら、一生理解できない、最大の謎かもしれない、と私は理解することを諦めた。
しかし、私はそれを理解することになる。それは少しあとのこと。結婚してからの話である。




