その価値を認めてくれるならば
何とか気持ちを落ち着けた増田くんを見送り、僕と新条さんは二人だけになった。
「いやぁ、本当にありがとう。助かったよー」
新条さんの口調は少しだけ穏やかになった気がした。きっと、さっきまでは彼女なりに緊張していたのだろう。役に立てたのなら、こんな危険を冒した甲斐があったと言うものだ。
「これで最後にしてくださいね。僕にだって人生があって、全力で守らなければならないものがあるんですから」
大きな溜め息を吐く僕を、新条さんは薄い笑みを浮かべながら横目で見た。
「な、なんですか?」
含みのある表情に、動揺しつつも聞いてみる。すると、彼女は体をこちらに向けて、どこか悪戯っぽく笑うのだった。
「言って良いの?」
何だか嫌な予感がして、どうぞ、とは言えなかった。でも、気になってしまったのは確かで、僕は無言で彼女の発言を促した。
「本当はね」
新条さんは言う。
「学生のときから、沙耶ちゃんのこと、羨ましかったんだ」
「先輩のこと…?」
彼女は頷く。
「あのときから、広瀬くんが沙耶ちゃんのこと大好きだって、傍から見てても凄いよく分かってた。しかも、沙耶ちゃんはそれに気付いていながら、都合の良い距離を取っていたのに、広瀬くんは何も言わなかったでしょ?」
確かに、僕は彼女が卒業するまで自分の気持ちを伝えなかった。
「あのときの沙耶ちゃん、奏人のことしか、考えてなかったからねー。きっと、広瀬くんが想いを言葉にしたら、あの子の重荷になっていただろうし、君はそれを分かっていて黙っていたんだろうね」
僕は苦笑いを浮かべる。そう言えば、聞こえはいいのかもしれないが、実際のところはどうだろう。ただ、相手にされなくなることが怖かったのだ、と言えるかもしれない。
「沙耶ちゃんは誰かを好きでいたかった。でも同時に誰かに好きでいてほしかった。好きな相手が百パーセント自分を見てくれるわけじゃないから、百パーセント自分を見てくれる人が、必要だったんだよ。そうやってバランスを取っていた。そんな女、好きになった人からしてみれば、迷惑なことだよ。都合よく利用されるなんて、我慢できないことだと思う」
新条さんは一歩前に出た。
「それなのに、広瀬くんは黙っていた。そんな風に愛してくれる人がいるなんて、私は羨ましくてたまらなかった。私も広瀬くんが欲しいな、って何度も思ったよ。私ならもっと上手く餌を与えるのになー、って」
「そんな大したものじゃないですよ、僕なんて…」
上手く餌を与える、ってなんだ…と思ったが、取り敢えずそれには触れなかった。否定する僕に、彼女は笑った。
「そんな風に思わない人だって、いるんだよ」
そして、新条さんがさらに距離を詰めてきたので、僕は思わずのけ反った。
「今の沙耶ちゃんはどうかな? 君のこと、ちゃんと評価してくれているの?」
「それは…」
正直、分からない。僕のことが好きだから、僕の傍にいてくれるのか。そうではないと言われたら、そうではない気がする。ただ、本当に好きな人が傍にいないから、僕の傍にいるだけ。そんな風にも思える。
「今からでも、遅くないかもよ?」
「何が、ですか…?」
「私に乗り換えるの。私は沙耶ちゃんと違って、広瀬くんに満足してもらえるくらい、広瀬くんのこと好きになるよ?」
「冗談はやめてください」
「冗談じゃないよ。さっき、増田くんから守ってくれて、もっと好きになっちゃった。ねぇ、本当に私の彼氏にならない…? 私、意外に尽くすよー」
あまりに距離が近く、僕は後ろに倒れ込みそうになる。でも、彼女から漂う香りは、僕の鼻孔を刺激し、思考を溶かしてしまいそうだった。彼女が本気なのか、それは分からない。ただ一つ言えることは、僕は守るべきものがある、ということだ。僕はどこまでも誠実に生きると決めたのだ。先輩のために。
「本当に、やめてください」
僕は両手で彼女を押し退ける。それが想定外だったのかは分からないが、笑みを浮かべていたはずの彼女の表情は失われてしまった。それに罪悪感がなかったわけではないが、数秒でいつも通りの彼女らしい表情が戻ってきた。
「そっか。残念」
「思っていないでしょ、そんなこと」
からわかれている。万が一本気になったら、こっちが痛い目に合うだけだ。有り得ないことだけど。妙に心臓の鼓動が激しくなったが、冷静に考えれば、そういうことに違いない。焦る必要は、動揺する必要はないのだ。
「じゃあ、帰るよ。また、何かあったら助けてね」と新条さんは何事もなかったかのように言った。
「もう勘弁してください。これが最後でお願いします」
「そっかー。じゃあ、今度は私が広瀬くんを助けるよ。何かあったら教えてね」
「何もないことを願ってくれた方が助かりますよ」
新条さんは僕の溜め息交じりの言葉に笑顔を返す。背を向けて歩き出したので、僕はほっとして彼女の背を見送ろうとした。ただ、最後に彼女は振り返った。
「広瀬くん」
首を傾げる僕に、彼女は言う。
「君は、君が思っている以上に良い男だよ。好かれるために、誰かに隷属する必要なんてない。沙耶ちゃんと接するときも、もっと自信を持っていいと思うよ。だからと言って、今の君に変わって欲しいわけじゃないんだけどね」
そして、さらに一言。
「とにかく、私はそんな君に助けられたよ。だから、ありがとね」
今度こそ、僕に背を向け、彼女は去っていた。
その背を眺めながら、もう少し会話を重ねることができたら、彼女のことをもっと理解できるかもしれない、と思った。だが、次の瞬間には、理解したところで何なのだ、と思い直す。
コミュニケーションを重ねた先に、その終着点に、何があると言うのだ。僕と彼女は、そういう関係ではない。それに、二度と会うことはないはずだ。名残惜しさを感じるなんて、間違った気持ちではないか。そんなことを考えている間に、彼女の姿は人混みに紛れ、見えなくなってしまった。
一仕事を終えたつもりで安堵して、改札の方へ向かおうと、振り返ったときだった。そこに先輩が立っていた。数メートルと離れていない場所で、僕を見つめていたのだ。
「先輩…ど、どうしてここに?」
「……どうして、新条玲奈と一緒にいたの?」
もしかしたら、僕と新条さんが一緒にいるところは見られていないかも、と思ったが、そんな希望は一瞬で砕かれた。
「これには深いワケがあって…」
「聞きたくない」
どうして、と聞いておきながら、先輩は僕の説明を静かに遮ると、黙って改札の方へ向かった。
「あ、待ってください!」と呼び止めるが、もちろん無駄なことだ。
後で気付いたことだが、新条さんと合流する前、僕は先輩に「仕事が終わらなくて遅くなりそうです」というメッセージを送っていた。
それに対して先輩は「じゃあ、迎えに行っちゃおうかな」と返していたのである。僕の職場まで先輩が迎えに来てくれることなんて、一度もなかった。たぶん、これからもないだろう。




