4-47 《何をするにしても、レッテルを貼ったり、決めつけたりするのは避けなさい》
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何をするにしても、レッテルを貼ったり、決めつけたりするのは避けなさい。それぞれの環境が贈り物であり、それぞれの経験が隠された宝なのだから。
《神との対話1-P52》
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誰か外部の者にレッテルを貼られるまでは、自分自身についても、自分の行動についても、「決して恥ずかしい」とか「罪悪」だとか感じない。あなたがたの文化でも、赤ん坊は「トイレの習慣」を恥じるだろうか?もちろん、そんなことはない。教えられるまでは、恥ずかしいとは思わない。
《神との対話3-P363》
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『神との対話』では、「何をするにしても、レッテルを貼ったり、決めつけたりするのは避けなさい」といっています。
「レッテルを貼る」とは、 辞典・大辞林によれば、「主観に基づいて一方的に評価、格付けしたり、分類したりすること」とあります。
つまり、ある物事に、既成の概念や価値観を押し付けることです。
貼るその「レッテル」は、多くは他人が過去に経験したものに由来しています。
私たちは、おうおうにして、新しい物事あるいは出来事に出会うと、自分の過去の記憶や、社会的に蓄積された知識からレッテルを探し出し、そのレッテルを新しい物事に貼り付け、それ以上、深く考えようとしなくなることがあります。そこで思考停止してしまうのです。
ところが、たった今自分が経験していることは、自分の人生で成すべき課題を完成するために、今、自分だけに必要な経験なのです。
それは自分自身にとっての大切なものであって、決して他人のためのものではないのです。
レッテルを貼ることによって、自分のその経験から得るべきものを、他人の経験で得られたもので置き換えてしまい、 せっかくの新しい経験を台無しにしてしまうことになるのです。
それは、概念的に知っていることを体験的に知ろうとする人生の目的をそこない、魂の成長にはならないというのです。
その実例として、次のような対話が、《神との友情上P198》に載っています。
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ニール:どうすれば内側に入れるのか、もういちど教えてください。
神:静かにしていること。静けさのなかで、ただ自分とともにいること。それを、いつも心がけなさい。
ニール:瞑想のことですね。
神:レッテルや方法論にとらわれないことだ。あなたが瞑想と呼ぶものは、自分自身とともにいることに、したがって最終的に自分自身になることにすぎない。方法はたくさんある。(一部略)
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ニールは、神の言葉に、「瞑想」というレッテルを貼っているのです。
レッテルを貼ると、そのレッテルが持つ概念やイメージによって、自分の思考は占拠されてしまうのです。
〈つづく〉
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