8.君に伝えたかったこと
リノまでは四日かかった。
最初の二日は馬車だった。
三日目から歩いた。
北へ進むにつれて、道が細くなった。
畑が減った。
代わりに森が増えた。
朝は少し寒かった。
途中の村で、厚い上着を買った。
店の女に、
「もう少ししたらもっと寒くなるよ」
と言われた。
「来月も?」
「当たり前だろ」
「そうですか」
ラダの祭りは南だ。
帰るころには必要ないかもしれない。
少し高かった。
でも買った。
*
三日目の昼。
道沿いに小さな川があった。
水が澄んでいた。
魚が泳いでいる。
少し見ていた。
カイがいたら、食えるかどうか聞くだろうと思った。
たぶん聞く。
俺も少し気になった。
先へ進んだ。
*
その日の夜は、一人だった。
宿はなかった。
街道沿いに、旅人が使う小さな小屋があった。
そこで寝た。
火を起こす。
パンを食べる。
干した肉を食べる。
硬かった。
空には星が出ていた。
この世界の星座は知らない。
最初のころは、星の形が違うことにも驚いた。
今は普通に見上げていた。
明日にはリノに着く。
ヒカリがいる。
何を話すかは、まだ決めていなかった。
考えれば、いくらでも出てきた。
考えるのをやめた。
火に薪を一本入れた。
寝た。
*
翌朝。
パンを食べて歩いた。
昼前に、道の先が開けた。
小さな村が見えた。
リノだった。
*
家は三十軒くらいしかなかった。
畑。
小さな牧場。
井戸。
店らしい店は一軒だけ。
道の脇に白い花が咲いていた。
子供が二人、棒を持って走っている。
犬が追いかけていた。
犬の方が速かった。
俺は店に入った。
「すみません」
「はいよ」
奥から男が出てきた。
「人を探してるんですけど」
「誰?」
「ヒカリという人です」
「ああ」
男はすぐに頷いた。
その反応に、まだ少し慣れなかった。
「いますか」
「いるよ」
また、その言葉だった。
「どこに?」
「今なら家じゃないかな」
男が店の外へ出る。
「あっち」
村の端を指した。
「坂を上がって、畑を二つ越えたところ。小さい家がある」
「ありがとうございます」
「知り合い?」
少し考えた。
「昔から知ってます」
「そうか」
嘘ではないと思った。
*
坂を上った。
畑を一つ越えた。
誰かが土を耕していた。
挨拶をした。
向こうも返した。
二つ目の畑を越えた。
小さな家が見えた。
木でできていた。
古い。
でも、きれいに手入れされている。
家の前に洗濯物が干してあった。
白い布。
シャツ。
靴下。
風に揺れている。
誰もいなかった。
近づいた。
家の横に、小さな畑がある。
その向こう。
花が咲いていた。
*
赤。
黄色。
白。
紫。
青。
名前は知らない。
小さな花が多かった。
風が吹くたびに揺れた。
その中に、人がいた。
腰を曲げて、花を触っている。
女だった。
白い髪。
小さな背中。
七十を過ぎている。
たぶん。
俺は立ち止まった。
顔は見えなかった。
当たり前だった。
俺の知っているヒカリは、二十三歳だった。
黒い髪だった。
ステージの上で走っていた。
五十年以上経っている。
同じ姿のはずがない。
声をかけようとした。
できなかった。
何と言えばいいのか分からない。
ヒカリ。
そう呼んでいいのかも分からなかった。
女が立ち上がった。
ゆっくり腰を伸ばす。
こちらに気づいた。
目が合った。
「あら」
知らない声だった。
低くなっていた。
少しかすれていた。
「お客さん?」
「あ」
声が出なかった。
「道、間違えた?」
「いえ」
女が近づいてくる。
顔が見えた。
皺があった。
頬も、目元も。
俺の知っている顔とは違った。
当然だった。
「誰か探してる?」
「はい」
「誰?」
「ヒカリさん」
女が少し目を丸くした。
「私?」
そのあと。
唇をきゅっと結んだ。
ほんの一瞬。
それから笑った。
*
覚えていた。
ライブの最後。
メンバーが一人ずつ挨拶をする。
ヒカリは自分の番になると、いつも少し緊張した。
何を言うか考えていたはずなのに、うまくまとまらない。
客席から笑われる。
本人も笑う。
その直前。
少しだけ唇を結ぶ。
癖だった。
*
目の前にいる。
ヒカリだった。
聞きたいことがあった。
たくさん。
アイドルだったころのこと。
歌っていたころのこと。
こっちへ来てからのこと。
帰る方法を探していたころのこと。
ロイのこと。
エドのこと。
歌わなかった日々のこと。
もう一度歌った日のこと。
五十年以上。
俺の知らない時間があった。
聞こうと思えば、聞ける。
本人が目の前にいる。
でも。
今はいいと思った。
*
風が吹いた。
花が揺れた。
赤。
黄色。
白。
紫。
青。
昔。
暗い客席で、たくさんの光が揺れていた。
俺はその中にいた。
ステージを見ていた。
あのころ、俺に見えていたのはヒカリだけだった。
今は。
風が吹いている。
花が揺れている。
遠くで鳥が鳴いている。
畑から土の匂いがする。
洗濯物が風に揺れている。
坂の下から、子供の声が聞こえる。
その中に、ヒカリがいた。
白い髪で。
皺のある顔で。
俺を知らない目で、こちらを見ていた。
「どうしたの?」
ヒカリが言った。
俺は口を開いた。
「昔、あなたの歌を聴いていました」
ヒカリが俺を見る。
俺は言った。
「会いたかったです」




