02
ひとつの猟奇的な事件の幕が、静かに下りた。
しかしそれは、主犯である神楽星那の死亡という最悪の幕引きであり、彼がなぜ、どのようにしてあのような奇行へと堕ちていったのか、そのすべてが解き明かされることはなかった。
――……今日で、最後だ。
志賀大和は上層部からの帰営命令を完全に無視し、事件の正式な解決後も、犯人が自らその凄惨な命を絶った因縁の現場へと何度も足を運び続けていた。――いつも通り、腐れ縁のベテラン相棒を伴って。
「このテント、正式に行政から取り壊しの許可が下りて、近々完全に撤去されることが決まったらしいな」
「あぁ……。もう事件は形式上解決してんだ。いつまでもこんな不気味なもんを、ここに遺しとく理由なんざ、どこにもねえからな」
規制線の前で立ち止まり、大和は青と白のストライプ柄のサーカステントを静かに見上げた。
事件の捜査が完全にクローズした現在、いくら担当の刑事であろうとも、土地の所有者の正式な許可なく天幕の内部へ立ち入ることは許されない。仮に今ここで強引に中へ踏み込めたとしても、すでに鑑識が塵一つ残さず調べ尽くした後だ。事件を覆すような新たな物証の発見など、到底期待できるはずもなかった。
「オマエってさ、見た目は昭和のクソジジイのくせに、こういうところだけは、無駄に真面目だよな」
ここで大和にできることなど何もないと知りながら、それでも彼がここに来ずにはいられなかった理由を誰よりも理解している相棒は、少し呆れたように自嘲気味にそう言って、大和と同じように天幕を見上げた。
「はあ?俺が真面目なわけねえだろ。世間一般で真面目っつーのはな、実の娘の晴れの結婚式のためにわざわざ有給休暇を申請して、かみさんと一緒に海外まで飛んでいくような、お前みたいな奴のことを言うんだよ」
「そりゃあどうも。でも、オレがその大きな決断を下せたのは、他でもない誰かさんが背中から強烈に発破をかけてくれたからだろ?『カレンダー見て溜息ついてるような奴なんざ、俺の相棒じゃねえ』ってさ」
昭和生まれの古い価値観にどっぷりと浸かって生きてきた大和たち世代にとっては、家庭の事情よりも日々の仕事を最優先にするのが、絶対の当たり前だった。
まして捜査一課の刑事ともなれば、非番の日だろうが、早朝だろうが、深夜だろうが関係ない。事件の一報が鳴れば弾かれたように飛び起き、現場の捜査へと駆り出される。だからこそ、どれほど目に入れても痛くない愛娘の学校行事であっても、参加できないのが当然の宿命だった。それが、親元から完全に旅立つ一生に一度の結婚式であっても――。
「当たり前だろ。辛気臭くカレンダーを睨みながら『行きたかったなあ』なんてグチグチ凹む奴が俺の隣にいるなんて、想像しただけで反吐が出る。それに俺は一課長からも放任されるくらい優秀な刑事だからな。お前がいなくたって、一人で十分に捜査を全うできるんだよ」
「ああ、そうですか。そりゃあ悪うございましたね。……ったく、そっちの用件、さっさと済ませて車に戻って来いよ」
そう言って、大和を一人きりにするために、相棒はゆっくりと覆面パトカーの方へと戻っていった。
「……わあってるよ。――俺は、絶対に忘れねえからな。一生、お前のことを覚えているから、覚悟しとけよ」
規制線のテープを力任せにギュッと握り締め、大和は誰もいないテントに向けて、烈しい決意を独りごとのように呟いた。
自分だけは、決して忘れない。たとえ世間があの凄惨な猟奇殺人を一時のエンタメとして消費して忘れ去ろうとも。
――そして大切だった自分の元相棒、倉本陽菜が、あの惨劇のあまりのショックによって自らの心を完全に壊し、事件に関するすべての記憶を失ってしまったとしても……。
すべての捜査が最悪の形で強制終了する、ほんの数日前のことだった。
大和は陽菜と共に、犯人から送られてきた位置情報に導かれるがまま、この青と白のサーカステントへとやって来た。長年、修羅場をくぐり抜けてきたベテランとしての直感からか、それとも刑事の野生の本能からなのか、敷地内に足を踏み入れたあの瞬間から、大和の背筋には嫌な汗が流れ、おぞましい予感が止まらなかった。
『気い引き締めろよ』
隣を歩く相棒の陽菜にも、最大限に警戒するよう厳しく念を押したはずだった。しかし、彼女はテントの入り口の幕をくぐるや否や、まるで何かに狂ったように引き寄せられるようにして、大和の指示を完全に無視し、薄暗い内部の奥へと一人で駆け出してしまった。
慌ててその後ろ姿を追いかけようとした大和だったが、犯人があらかじめ仕掛けていたのか、行く手を阻むようにして重い機材や小道具がガラガラと崩れ落ち、彼の前進を物理的に妨害した。
――クソが!あいつを一人にするのは、絶対にまずい……っ!!
根拠のない、けれど致命的な焦燥感に突き動かされ、大和は目の前の荷物を力任せに蹴散らし、内幕の奥へと必死に突っ込んでいった。
だが――その瞬間だった。
「――イヤアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
内幕を引き上げた瞬間、大和の目に飛び込んできたのは、世界の終わりのような凄まじい叫び声を上げ、そのまま床へと崩れ落ちて気絶していく陽菜の姿だった。
「倉本ぉぉぉーーーーっ!!!」
大和は脳裏が真っ白になり、一心不乱に舞台の上で倒れ伏す陽菜の元へと全力で駆け寄った。
四方の暗闇から響き渡る、檻の猛獣たちの、肉をグチャグチャ、グチャグチャと貪り喰らう、あの野性の咀嚼音を、耳にしながら 。
室内に充満する、人体の鮮血の鉄の匂いと、酸味のある強烈な刺激臭を、全身で感じながら 。
「おい、倉本!しっかりしろ、倉本!……クソッ!」
冷たい床の上に力なく横たわる陽菜の身体を抱き起こす。目立った外傷や流血は見当たらなかったが、彼女の意識は完全に消失していた。
「――俺だ、捜査一課の志賀だ。突入現場で倉本が意識を失って倒れた!至急、この場所に救急車を回してくれ!!」
大和は狂ったように警察無線へ叫び、陽菜は駆けつけた救急隊によって厳重に警察病院へと搬送された。
それから、数時間後――陽菜は無事に目を覚ました。
「倉本……っ!?よかった、やっと目が覚めたんだな。ったく、お前って奴はヒヤヒヤさせやがって……」
「……あの、すみません。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
――彼女は、この凄惨な事件に関するすべての記憶の引き出しに、自ら固く鍵をかけてしまっていた。
後に立ち会った担当医からは、精神を破壊しかねない極限の衝撃から脳が自身を守ろうとした、強烈な自己防御反応による『解離性健忘』だと説明を受けた。
何かの拍子にパッと記憶が戻る可能性もあるが、このまま一生戻らない可能性もあるという。事件が形式上解決した現在も、彼女は未だ経過観察として病院のベッドで入院生活を続けていた。
ただ、見舞いに通う大和に対してだけは酷く他所他所しいものの、訪れる友人や、以前いた生活安全課の同僚たちと談笑する姿は、大和がよく知るこれまでの明るい倉本陽菜そのものだった。医師の話では、そろそろ退院の日も近いらしい。
だからこそ、大和は今日、この場所に自分なりの最後のけじめを付けにやって来たのだ。
「たとえ世間が忘れようと、本人が忘れようと……地獄の底に堕ちても俺は、俺だけは最期までお前のことを覚えているからな――神楽星那」
この世に確かに神楽星那という一人の哀しいパフォーマーが生きており、その歪んだ「恩返し」の熱量が、関わった人間の心にこれほどまでに深く爪痕を刻み込んだのだと、静かに彼に伝えるために。
そして何より――たとえ自分という存在を忘れ去ってしまったとしても、彼女があの地獄のような凄惨な記憶を二度と思い出す必要などないのだと、自分自身の刑事としての身勝手な理性を、無理やり納得させるために…… 。
事件解決後の、刑事としての孤独な通過儀礼をすべて済ませた大和は、肺の澱みを吐き出すように深く深呼吸をした。
青と白のストライプ柄の天幕に静かに背を向け、今の相棒が待つ覆面パトカーの方へと、大股で歩み出す。
その途中、ニュースの報道でこの哀しい事件を知った一般のファンなのだろうか、一人の見慣れないブラックスーツ姿の男が、コンテナの前に静かに花束を供えているのが目に入った。大和は少し離れた場所で男の弔いが終わるのを待ち、すれ違いざまに声を掛けた。
「おい、お前。――アイツの、知り合いか?」
「おや。アイツ、とは一体どなたのことでしょうか?申し訳ございませんが、私、この後は大事なビジネスの予定が詰まっておりますので。これにて失礼いたします」
「ちょっと待て、お前――」
不審に思い、男の肩を後ろから掴もうと大和は手を伸ばした。しかし、男はその指先が衣服に触れるか触れないかの一瞬の隙に、流れるような滑らかな身のこなしでさっと大和の手を躱し、そのまま優雅に去っていった。
――……なんなんだよ、今のアイツは?
長年、現場で戦ってきた一課の刑事である自分の手を、これほどあっさりと、無駄のない動作ですり抜けていったあの男。大和の胸の奥に、言葉にできない奇妙な違和感がじわりと宿った。
しかし――。
常に新しい凄惨な事件に追われ、次なる凶悪犯を追い続けなければならない捜査一課の過酷な日常のなかにおいて、大和の記憶から、その名も知らぬ通りすがりの男の影は、やがて他の膨大な事件データと共に簡単に消え去っていってしまった。
そして二人の世界が、再び交差することは――この先、二度となかったのだった。




