第78話 境目が、溶ける
白い核の鼓動が、もう一度、深部を、揺らした。
それは、街を生かすための鼓動じゃ、なかった。
何かが——院主の中を、奥から、覗き返している音だった。
*
壁の封印札が、にじむ。
院主の指先から伸びる白い糸に、黒い筋が走る。
周囲に控えていた、水路を測る精霊、風の精霊、土の精霊、灯りの精霊——院主が長年使役してきた者たちが、いっせいに、身をよじった。
管理区画の測定紋が、狂いはじめる。
アルベスの帳面の文字が、じわりと、にじんだ。
インクが湿ったのではない。
紙の上で、字そのものが、形を保てなくなっていた。
*
「流れが、戻ろうとしているだけです」
院主は、まだ平静を装った。
装う、という自覚は、彼にはなかった。
いま起きていることを、彼はそう理解していた。理解が先にあって、言葉が後から出た。それだけのことだ。
「戻る、のでは……」
アルベスの声が、初めて揺れた。
「引きずられているように、見えます」
*
……引きずられている。
院主は、その語を、頭の中で一度だけ受け取った。
そして、置いた。
この男は、深部を知らない。ここへ来たのは今日が初めてだ。初めて見た者の印象は、たいてい、大げさになる。
それも、彼が長い年月で学んだことの一つだった。
新しく来た者は、必ず、最初の月に一度は騒ぐ。数字の並びを見て、これは異常だと言う。半年もすれば、言わなくなる。
異常だと感じる幅が、狭すぎるだけなのだ。
……この男も、そうだ。
そう思って、彼は、手を止めなかった。
「離れてはいけません」
院主は、白い糸を、たぐった。
「これは、街を救うための——調整です」
*
だが、精霊たちは戻らなかった。
水路を測る精霊が、白い糸を噛み切ろうとする。
風の精霊が、渦を乱して逃げる。
土の精霊が、石の奥へ沈もうとする。
灯りの精霊が、自分の光を——消した。
*
「戻りなさい」
院主の声から、穏やかな依頼が消えていた。
*
その変化に、彼自身は、気づいていない。
声色は、彼にとって道具ではなかった。使い分けているつもりがない以上、変わったことにも気づけない。
ただ、言葉の中身は、はっきり変わっていた。
これまで、彼が精霊に告げてきたのは、たいてい、頼みごとの形をしていた。流れを、開きなさい。測りなさい。
いまのは、違う。
戻りなさい。
どこへ、とは言っていない。彼の手の中へ、という意味だった。
精霊たちは、それを正確に受け取った。
だから、逃げた。
言葉の中身を、いちばん早く聞き分けたのは、言葉を持たない者たちだった。
*
白い核は、悪意を吸い上げ、魔物を生む仕組みだ。
それが今——院主自身の、内側を映しはじめていた。
院主の言葉は、まだ「救済」のままだった。
けれど、コアが拾うのは別のものだった。
*
自分がいなければ、街は保てない。
聖導院を、不要にされてはならない。
自立の芽は、危険だ。小さな器は、大きな器を脅かす。
救った者たちに——自分の救いを否定されたくない。
自分の過去の犠牲を無駄にしたくない。
*
……どれも、口に出したことは、一度もなかった。
考えたことすら、ほとんどなかった。
言葉になる手前の、薄い層のところに、それはずっとあった。
彼が数えてきたのは、飢えた者の数と、届いた粥の数だ。自分の中身は、数える対象ではなかった。
数えていないものは、無い。
彼自身が、そう教えてきた。
だから、それは、無かったことになっていた。
核は、そこを拾った。
核は、言葉を拾わない。数えられた分も拾わない。
言葉になる手前の、薄い層だけを、正確に拾い上げる。
それが、この仕組みの設計だった。
……悪意を最も濃く、最も扱いやすい指標として選んだのは、彼自身だ。
選んだ物差しで、いま、彼が測られている。
*
救いたい。守りたい。戻したい。従わせたい。
四つは、もともと、別のものだった。
救いたいは、相手のためだ。守りたいも、まだ、そうだと言える。
戻したい、から、向きが変わる。相手がどこにいたいかではなく、こちらがどこに置きたいか、の話になる。
従わせたい、まで来れば、相手はもう、置き場所ですらない。
その境目が——白いページの中で、静かに溶けていった。
*
四つのうち、どれが自分の言葉なのか。
院主には、もう、選り分けられなかった。
選り分ける必要も、感じていなかった。
どれも、同じ方向を向いている。街を、干上がらせない。
……四十年、その一つで通してきた。
通してきた道の途中で、荷物が入れ替わっていたとしても、歩いている本人には、重さの違いしかわからない。
重くなった、とは思っていた。
中身が違う、とは、思わなかった。
*
精霊の一体が、彼を見た。
灯りを消したはずの、あの一体だ。光がないので、どこを向いているのかも、本当はわからない。
それでも、見られている、と彼は感じた。
……あなたたちに、何がわかるのですか。
その一言が、喉のあたりまで来た。
彼は、それを飲み込んだ。
飲み込んだことを、彼は、忍耐だと思った。
(第79話へ続く)
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【用語辞書】第78話に出てきた「投資」の話
この回のテーマは、自分では気づけない歪みです。
● 数えていないものは、無いことになる
院主は、飢えた者の数と、届いた粥の数を、几帳面に数えてきました。自分の中身は、数える対象ではありません。ですが、数えていないものが存在しないわけではなく、ただ帳面に載らないだけです。載らないものは検算もされないので、そこだけが、誰にも点検されないまま育ちます。判断の記録をつける時、外の数字と一緒に、その時どう感じていたかを一行だけ残しておくと、後から効いてきます。
● 言い方は変わるが、本人は気づかない
依頼が命令に変わった瞬間を、当人は自覚しません。声色は自分では聞こえないからです。判断が硬くなった時、いちばん早く現れるのは中身ではなく言い方のほうで、しかもそれは、周りにしか見えません。
● 目的が同じでも、中身は入れ替わる
救いたい、守りたい、戻したい、従わせたい——どれも「街のため」で説明がつきます。目的の名前が変わらないと、中身が入れ替わったことに気づけません。長く続けている取り組みほど、名前ではなく中身のほうを、ときどき確かめる必要があります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の団体・制度を批判する意図はありません。




