第58話 小さな財布
シルクだけには、別に伝えた。
「分けるのは、お前のいいところだ。でも、自分が倒れたら、次に誰も助けられない。だから、一つ目の財布には自分が食べる分も入れろ」
「……わたしの、ぶん?」シルクが目を丸くする。
「そうだ。お前が動けることも、みんなの助けになる」
シルクはしばらく、自分の掌を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
……この話をしておきたかったのには、理由がある。
あのシズクの窓に、灯った一行だ。配る者が枯れれば、シズクもまた、止まる。
あれは、あの爺さんの話だと思っていた。
違う。手厚く配る者は、みんな、あの一行を抱えている。
シルクは、放っておけば、自分の分を最後に回す。今はまだ、なんとかなっている。
……なんとかなっているうちに、言っておきたかった。
*
俺は四つの財布に、何気なく鑑定を向けてみた。
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▼ 鑑定結果
名称:小さな財布 / 生活防衛・初期
─── 銘柄カルテ ───
収益性 ……… なし
安心感 ……… 小
流動性 ……… 高
継続性 ……… 未定
依存度 ……… 低下の芽
気になる兆し … 使い尽くしやすい ⚠
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見立て:増やす器ではない。
だが、今日にすべてを
使われぬための、最初の器。
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……収益性、なし。
まだ何も、増やしていない。でも、これは未来へ残すための、最初の器だ。
欄を、上から追っていって——途中で、手が止まった。
この並び。どこかで見た。
……あの、施し札だ。
思い出しながら、頭の中で、二枚を横に並べてみる。
あちらは、表面利回り、高い。こちらは、収益性、なし。
あちらは、安心感、極めて高い。こちらは、小。
あちらは、流動性、低下。こちらは、高。
……逆だ。
項目が同じで、値だけが、ひとつ残らず、反対を向いている。
同じ物差しで測ると、こんなに何もない。増えないし、安心もくれないし、たいした額でもない。
それでも、ひとつだけ。
依存度の欄が、低下の芽、と書かれていた。
あの札は、上昇、だった。あの伽藍そのものも、上昇中、だった。
この欄が、下を向いたのを見るのは、初めてだ。
……芽、か。
まだ何も伸びていない。伸びる保証もない。窓は、そこまでしか言っていない。
それでも、向きが変わった。
*
いちばん下の、⚠。
使い尽くしやすい。
……これも、初めてだった。
これまでの⚠は、たいてい相手側のことだった。塗り固めてある。因縁がある。数字の奥を見ない。
今度の⚠は、こちらを指している。
この器は、外から壊されるんじゃない。中身を、自分たちで使ってしまうから、なくなる。
……いちばん厄介な相手が、いちばん近くにいる、ということだ。
*
集落の外で、聖導院の鐘が鳴った。配給の時間だ。
何人かが、そちらへ目をやる。
俺は止めなかった。
「今日食べるものがないなら、行った方がいい。倒れるくらいなら、もらえ。……でも、もらった後で、銅貨一枚だけでも残せるか、考えよう」
聖導院を否定はしない。援助を否定はしない。
そのうえで——自分の財布を持つ。
*
その頃、聖導院では、若い職員がアルベスに報告していた。
「嗅ぎ分けの民の集落で、ガク殿が財布を配っているそうです」
「財布?」
「稼ぎを、用途ごとに分けるのだとか。聖導院にも、商人ギルドにも預けず、自分たちで持つそうです」
アルベスは、すぐには否定できなかった。
悪いことじゃない。むしろ、困窮者の再建としては、理にかなっている。
「……記録のない蓄えは」アルベスは静かに呟いた。「把握、できません」
*
その日の夕方、若い獣人が、その日の報酬を四つの財布に分けていた。
ほとんどは、今日の飯に消えた。それでいい。
でも、最後に銅貨一枚だけ、四つ目の財布に残った。
「これ使って、食べないの?」小さな子どもが、聞いた。
若者は迷った。腹は減っている。食べたい。……でも、残す。
「……これは、まく日の、分」
「……あしたの、わたしたち」シルクが小さく呟いた。
俺はその光景を、見ていた。
たった銅貨一枚。これで人生が変わるわけじゃない。明日、急に楽になるわけでもない。
でも——今日に、全部を使われなかった。それだけで、最初の一歩だった。
*
種をまけば、必ず実るわけじゃない。
雨が降らない日もある。虫に食われることもある。畑ごと流されることだってある。
だからこそ、全部はまかない。全部は食べない。
今日の飯と、冬越しの分と、いつかまく一枚を、別々にしておく。
……まだ、トウシなんて大げさなものじゃない。ただの、小さな財布だ。
でも、たぶん。人が自分の明日を持つには——ここからしか、始まらない。
(第59話へ続く)
【用語辞書】第58話に出てきた「投資」の話
● 生活防衛資金=急な出来事に備えるお金
病気、怪我、失業、道具の故障。急にお金が要る場面は必ず来ます。これがないまま投じてしまうと、いざという時に、いちばん悪いタイミングで取り崩す羽目になります。「転んだ時の財布」は、まさにこの役割です。
● 余剰資金と、投資元本
生活費と、近い将来に使う分を除いた残りだけが、将来に回せるお金です。生活そのものを削ってまで残すのは、貯蓄でも投資でもなく、ただの無理。そのうえで手つかずに置いた分が、最初の元手になります。
● 依存度が下がる、ということ
誰かから受け取り続ける仕組みは、受け取る側の依存を強めます。手元に自分で管理できる分ができると、その向きが逆になります。額の大小より、向きが変わったかどうかが先です。この回の主人公が見たのも、増えた量ではなく、向きでした。
● いちばん近い相手
少額の蓄えがなくなる原因は、たいてい外にはありません。今日の自分が、明日の自分の分を使ってしまうからです。だから、用途ごとに分けて見えるようにする。意志の強さで解決しようとせず、仕組みで防ぐほうが確実です。
● 増えないことは、失敗ではない
この段階では、まだ何も増えていません。ですが、今日すべてを使い切らずに済んだこと自体が、次の選択肢を残しています。増やす話は、そのあとで構いません。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の商品・制度の利用を勧めるものではありません。




