第50話 削られる足元
翌日、俺たちはロウエンの水路の修繕を手伝っていた。
石を運ぶ。詰まった泥を掻き出す。少しずつ水の流れを戻していく。
……地味な作業だった。
「師匠。これ、ダンジョン攻略じゃないっすよね」トトが退屈そうにこぼす。
こつん。
「若いの。水路を直せぬ者がマナの流れを読めると思うなよ」
*
そこへ、シルクの一族の若者が息を切らして駆け込んできた。
「大変だ! 町はずれの支洞で、冒険者が数人動けなくなってる!」
大事故じゃない。魔物は弱い。ただ数が多く、空気が薄く、じわじわとマナを削られているらしい。
逃げたくても怪我人がいる。
「聖導院に頼めばいいんじゃ……」トトが言いかけて口をつぐんだ。
……ああ。そうか。
頼れば助かる。けれど、その後名簿に載って、あの"施し札"の輪に取り込まれるかもしれない。
あの札の窓を、思い出す。依存度、上昇。返礼義務、不明。
助けを断る理由が、そこにあった。——助けが、条件つきだからだ。
だから聖導院じゃなく俺たちに頼ってくれた。
「行くぞ」
*
支洞の中は薄暗くじっとりと湿っていた。壁一面に、灰色の苔が、びっしりと生えている。
鑑定を向けた。
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▼ 鑑定 吸い苔の支洞
/消耗戦域 複雑度 ★★☆☆☆
[凪・低迷]
荒れ(VIX 13.0)●緑
商い(出来高 0.5倍・閑散)●青
底の深さ(−10%/横ばい継続)●青
凶兆(相関 0.40)●青
目減りの毒(CPI +5.8%)●赤
締め付けの鎖(実質 +1.4%/名目 7.2%)●赤
掘り出し(CAPE 15)●緑
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見立て:一撃の脅威は、薄い。
だが、長居するほど、
足元から、削られる。
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……妙な窓だった。
荒れが、緑。凶兆も、青。底の深さも、下げてすらいない。
これまでの敵は、必ずどちらかが赤かった。荒れているか、繋がりが切れているか。そのどちらかが、危険の顔をしていた。
ここには、それが無い。
なのに、★がふたつ、灯っている。
赤い相を、数えてみる。目減りの毒。締め付けの鎖。……ふたつ。
★も、ふたつ。
……今度は、合っている。
これまで、窓の★は、何度も俺の検算を裏切ってきた。見えている相を数えても、数が合わない。表に出ていない何かが、いつも★を押し上げていた。
初めて、数えたとおりの★が出た。
それが、かえって、こわい。
——この場所には、隠している危険が、ひとつも無いということだ。
全部、表に出したうえで。それでも、こちらが負ける。
*
凶兆の欄を、もう一度見る。
相関、0.40。低い。ばらばらに動いている、という意味だ。
……分散は、効いている。
性質の違う札を並べて、どれかが噛み合うようにする。俺のやり方は、ちゃんと働いている。
なのに、全員が、等しく削られていく。
……そうか。
この毒は、噛み合わせの外から来ている。
どの札を持っていても、持っているだけで減る。何を選んだかじゃない。ここに居ること自体が、費用なんだ。
掘り出しの欄が、緑に灯っていた。CAPE 15。安い。
あの黒い淵の底で、俺が飛びついた緑と、同じ色だ。
……けれど、たぶん、意味が違う。
あの時は、掴めば得だった。ここは、掴んでも、毒が食う。
名目では、安い。実質では、安くない。緑が、初めて信用できない色に見えた。
*
まずは、いつもの構成で進んだ。
ダイチを前に。シルクが通路の奥を嗅ぎ分ける。トトが動けなくなった怪我人を支える。
ホムラは、うずうずと、身を乗り出していた。
「相棒、俺がまとめて焼き払えば早えだろ!」
「(火は有効です)」オルカが静かに止めた。
「(ただし、この支洞は乾いています。燃え広がれば——怪我人の退路を失います)」
「……ちっ。また待機かよ」
ホムラは、不満げに鼻を鳴らした。使い時が違うだけだ。今は、まだ、その時じゃない。
窓の隅で、印が並んでいた。
▼ 噛み合わせ 【凪・低迷】
シズク ………… ◎ ※ロウエン殿の札
ダイチ ………… ◎
コガネ ………… ◎
オルカ ………… ○
ホムラ ………… △(封)
ナギ ………… ✕
……◎が、三つ。
三つも灯っているのに、俺の手には、打てる札が無い。
シズクは、俺の札じゃない。二度目だ。俺の手駒じゃないものを、窓が勝手に数えている。
ダイチは、もう出している。
コガネにも◎が点いているが——出したところで、何が変わる。目減りに強いのは、コガネ自身だ。あいつが錆びないというだけで、俺たちの足元が削られるのは、止まらない。
ホムラは、△に括弧がついていた。封。
効きはする。使えない。オルカが今言ったとおりだ。
そして。
ナギの欄が、✕だった。
……こいつが。
あの底で、待つことだけで勝った、うちの切り札が。
待つのが誰より得意なやつが、待てば待つほど負ける場所に、連れてこられている。
*
ダイチは前で苔の胞子を受け止め続けている。けれど。
『……ぬ。……あしもと、すわれる』
ダイチの声が、珍しく重い。
……足元が、吸われる。
窓にも、同じことが書いてあった。締め付けの鎖。回復が、追いつかない。
敵の火力は低い。なのに、長くいるだけで、俺たちのマナがじわじわと減っていく。
時間が経つほど、シルクの足取りが重くなっていく。トトの息も、荒くなる。
怪我人の一人が支えられながら、うっすらと、意識を失いかけた。
「おい、しっかりしろ!」トトが必死に揺すり起こす。
「まだ着いたばっかりだろ! こんなとこで寝るんじゃねえ!」
誰も、大きな傷は負っていない。なのに、じわじわと、全員の体力が削られていく。
この、じりじりとした消耗が、いちばん怖い。派手な一撃は来ないのに、気づけば、全員が限界に近づいている。
「師匠! なんか弱いのに、しんどいっす!」
トトの正直な悲鳴。
……そうだ。これが、この場所の怖さだ。
ひとつひとつは小さい。傷も、疲れも、削られる分も。
けれど、その小さな削れが積み重なると、確実にこちらを蝕んでいく。
(第51話へ続く)
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【用語辞書】第50話に出てきた「投資」の話
● 何も起きていないのに、確実に負ける相場
値動きが荒いわけでも、暴落しているわけでもないのに、じわじわと目減りしていく局面があります。景気が伸びず、それでいて物価だけが上がる状態です。派手な事件が起きないので危機に見えず、そのぶん、気づくのが遅れます。
● インフレは、分散では防げない
種類の違うものに分けて持てば、どれかが下がってもどれかが持ちこたえます。ですが、お金の価値そのものが目減りしていくときは、全部が同じ方向に削られます。この回で「ばらばらに動いているのに、全員が減っていく」のは、そのためです。分散は万能ではなく、効かない種類の損失があります。
● 名目と実質
値段が安く見えても、物価の上昇に食われてしまえば、手に入る中身は増えません。表示されている数字(名目)から、目減りぶんを引いたものが、実際の成果(実質)です。安く見える数字が、実質では安くない——これを見落とすと、割安に見えた買い物で損をします。
● 効く手と、打てる手は違う
この局面では、有効なはずの手が、環境の都合で使えません。理屈のうえで正しい手が、いま実行できるとは限らない。使えない状況のほうを先に変えないと、良い手は良い手のままで終わります。
※本作は投資の学びを物語仕立てで描くフィクションです。特定の銘柄・商品の売買を勧めるものではありません。




