12)リンと家出令嬢04
オレンジの香りのする紅茶をひと口含み、ベルタは息を吐いた。
「わたくし、婚約者がいましたの。過去形なのは、きっと今頃婚約はなかったことになっているからよ。……リンさんは、バディーニ地域を治める代官様をご存知?」
「はい、アルファーノ子爵様ですね」
リンは〝自分の暮らしてる地域のことくらい知っておこう〟〝自分の雇主のことくらい知っておこう〟と、勉強した内容だ。
「そう、子爵様は南部辺境を治めるアリオスト辺境伯様の弟になるわ」
「なるほど、治める土地が広大なので親戚を代官にしているのですね」
「……領主様には四人のお子様がいらっしゃるのだけれど、全員令嬢なの。この国では、女性には基本的に家の継承権がないわ。女性が継承権を得るには皇帝陛下と貴族院の承認が必要で、承認を得るのは並大抵のことではないの。だから、男児の生まれなかった家は親類から養子を貰うか、婿養子を迎えるの」
つまり、バディーニ港街周辺を治めるアルファーノ子爵家には、現在跡取りがいない。子爵は養子か婿を探す方向で動いているのだとベルタは言った。
「わたくしの婚約者だったカルロ様は、アリオスト辺境伯家の三男なのです」
「辺境伯様の三番目の息子、代官様の甥であるから、跡取り候補になったのですか?」
さやから勢いよく出た豆が飛び、籠の淵に当たってカウンターの上に転がった。それを摘まみ、ベルタは籠に入れながら小さく頷く。
「アルファーノ子爵様の元に残っていらっしゃるのは末のご令嬢、イレーヌ様。カルロ様の三つ年下で、金髪碧眼のそれはもう美しいご令嬢なのです。イレーヌ様とカルロ様は従兄妹ですから、幼い頃から交流もあって……」
「お二人はすでに親しい関係で、養子に入るというよりはそのイレーヌ様の元へ婚約者様が婿入りするのがいいだろう、ということですか」
「……アルファーノ子爵家に仕える使用人たちの中では、お二人が結婚して子爵家の跡を継ぐことはもう決定事項のようでした」
使用人たちは皆カルロとイレーヌを婚約者同士として扱い、ベルタのことはカルロの元婚約者であった者として扱い始めたのだ。カルロに想いを寄せており、しつこく言い寄っている邪魔な令嬢だと言われ日に日に扱いが雑になっていく。
カルロと話がしたくても、その時間が取れない。殆どの時間をイレーヌと共に過ごしており、ベルタとの時間は使用人たちに邪魔されて潰されてしまう。
そうこうしているうちに、事故が起きた。
アルファーノ子爵邸に搬入されていた新品の庭仕事の道具(鍬・鋤・鎌・梯子・支柱など)が荷崩れを起こしたのだ。庭を散策していたイレーヌは無事だったが、ベルタは崩れた道具に足を挟まれて大ケガを負う。
庭師や搬入してきた業者が言うには、道具は倒れたり崩れたりしないようにロープで縛られていた。そのロープは真新しいもので、劣化による切断は考えにくい。
使用人が調べた結果、ロープにはナイフで傷をつけた跡が見つかった。
問題はロープが切断されるように細工をしたのは誰か、ということだが……なぜかベルタが犯人だという話が流れ出す。
「わたくしが、カルロ様の心を奪ったイレーヌ様に嫉妬して害そうと、ロープが切れるように細工をした、のですって。イレーヌ様が庭を散策する日課は知っていたし、散策ルートも分かっていたから出来ただろうと。でも、失敗して自分が道具の下敷きになった、のだそうよ」
「それで、実際はどうなのですか?」
ベルタは首を左右に振った。
「確かにイレーヌ様は毎日庭を散策しているのは知っていたし、歩くルートも知っていたわ。でも、それは皆が知っていることよ? わたくしがあの場にいたのは、使用人からメッセージを受け取ったからなの。行った先で誰かに突き飛ばされて転んで、そこへ庭仕事の道具が落ちて来た……それがわたくしにとっての現実」
「お嬢様……」
「それに、もし、カルロ様がわたくしではなくイレーヌ様を選ぶのなら……そう言って下れば良かったのに」
冷めてしまったオレンジティーを飲み、ベルタは笑みを浮かべる。
「わたくしと結婚したら、カルロ様は平民。でもイレーヌ様の婿になれば、次のアルファーノ子爵になることができます。そちらを選ぶと言われたら、確かに五年も婚約していたのですから寂しく悲しくは思います。けれど、反対したり縋ったりしませんのに」
「それで、お嬢様はバディーニを出て来たのですか?」
「……カルロ様は、わたくしに言ったのです。〝キミがやったのか。なぜ、こんなことを? すぐにイレーヌに謝って許して貰うんだ。大丈夫、イレーヌは心優しいから許してくれる〟と。私の話も聞かずに、私のケガの様子も聞かずに……私がイレーヌ様を傷つけて失敗したと言ったの」
再び、さやから豆が飛び出た。先程のよりも勢いよく、二つ連続だ。
「……これは、リンという平民娘の個人的な気持ちで、それ以上でもそれ以下でもありません。別に正しいとか間違っているとかもありません。あくまで、個人の気持ちです」
「え、ええ」
「お嬢様、なんとかしてお祖父様とお祖母様の元へ参りましょう。婚約者様のことなど、こちらから捨ててしまえばよいのです」
「……リンさん」
「婚約者であるお嬢様の話を聞こうともせず、お嬢様がやったのだと決めつけて謝罪しろと言ったのですよ? 事情ならば、双方から聞くべきではありませんか。五年も婚約者として側にいたにも関わらず、お嬢様のことを全くわかっていないです。それに、婚約者であるお嬢様が辛い立場にいるというのに、全く護る様子もないじゃないですか。そんなクソ男は、お嬢様と結婚するに相応しくありません」
「……」
「こちらから切って捨ててしまえばいいのです」
リンの内側では怒りが渦巻いていた。ふつふつと煮えるとろみのついた濃厚スープのように。
「男として、人間として、なっていないです。もし、爵位が欲しくて婿入りを望むのならば、最初にすることはお嬢様と話し合うことではないでしょうか? 婚約を白紙にするなり、解消するなりしてから従妹さんと婚約したらいいだけの話です」
「リンさん……」
「そんなことも出来ないようなクソ男とお嬢様が結婚しなくてすんで、私は良かったと思います。お祖父様とお祖母様の元へ行って心と体を休めて、相応しい男性と結婚なさるべきです。いつでもお嬢様の側に立って護って下さる、そんな方が必ずいます」
リンが言い切るのと同時に、さやから豆が飛んだ。
勢いよく飛んだ豆は、店のスイングドア手前で立ち尽くしていた青年の胸に当たって床に転がる。背後に立っている青年は驚いた顔をして固まってしまったが、まさか平民が貴族に豆をぶつけるとは思っていなかっただろう。
「……いらっしゃいませ、お客様。どのようなご用件でしょうか?」
ゆっくりと足を庇うように振り返ったベルタは、小さく息を飲んで「カルロ様……」と呟いた。
「や、やっと見つけた……アルベルタ……」
青年は今にも泣き出しそうな顔をしてそう言った。
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