戦いは始まった
時刻は7時。
太陽は西方、秩父山岳の蔭に身を隠したが、空はまだ辛うじて、茜色の輝きを保っている。
この時期、陽忍術のない一年下忍は、暗闇などの零視界訓練を受けておらず、日没後、空の闇が目立つようになると、校庭各所に照明が灯される。
御蔭で視界不足の心配はないが、遠距離狙撃の危険度増加は避けられなかった。
イチカの開始地点は、隠密箇所の少ない校庭東の雲梯近く。
右後方、緑のフェンス沿い北側に、ブランコや滑り台。
反対の南側には、チェーンネットと第2体育倉庫。
正面の校庭中央側は、丸太を三角形に組んだ大型遊具の『斜面板』が設置されている。
(希更ちゃんとの合流が先か、それとも潜伏か……)
思い当たる場所といえば、校庭南、体育館横のプールだ。
希更の得意とする霊術は水と相性がよく、彼女自身も、水遁の術が要らないと思えるほど、授業中、長時間の潜水をこなしていた。
方針が定まった所で、校舎屋上から、試験開始を意味する銅鑼の音が響く。
イチカはひとまずその場を離れて、前方障害物の斜面板に背中を預ける。
目を瞑り、周囲の気配を注意ぶかく窺うと、左前方の樹上に殺気を感じた。
隠しきれない陽忍術の空気に視線を移すと、同地点から鋭い声が放たれる。
「藤森さん、覚悟!」
迂闊な掛け声と共に、夕暮れを裂いて手裏剣が飛来する。
イチカは逆手に刃を閃き、投擲物を難なく弾き落とした。
敵は7メートルほど離れた樹の上だ。
今度は自分から仕掛けようと、体側の手裏剣に手を這わせて、奇妙な感覚に思い止まる。
(待てよ。敵がわざと声を出したということは……)
「囮かっ!!」
イチカが大声で振り向くと、右後方、今まさに、斜面板の横から斬りかかろうとする敵が動きを止めた。
「見付かった!?」
クジ引きも、運次第ではパートナーと連携可能な位置から始まる。
イチカは逆手のまま斬り付けて、接近中の敵に先制攻撃を仕掛けた。
出鼻を挫かれたとはいえ、相手の動きも悪くない。
イチカの斬空刀を自身の忍者刀で防ぎ、バックステップで手裏剣を打つ。
(この動き、師匠の特訓の時と同じだ。このタイミングで、後ろからも投げてくる!)
イチカは正面からの手裏剣を弾くと、真横に小さく跳んで、樹上からの狙撃に
備える。
だが、敵からの攻撃はない。
手裏剣の代わりに飛んできたのは、相手忍者のくぐもった悲鳴であった。
新条百恵が地面に転落すると、判定員の土御門ひなたが、フェンス上にいきなり現れる。
「坂本愛里、一本っ!」
その声に弾かれて、正面の幸崎久美香が注意をそらした。
「百恵!」
隙を逃さず、幸崎の左肩から右脇腹へ、イチカの斬空刀が必殺の一閃を刻んだ。
本当にイチカがやれるとは思わなかった。
ひなたの声が、今度は驚きの色を乗せて校庭に響く。
「藤森イチカ、一本……」
一瞬、校庭中からザワついた空気が流れる。
遠方、第2体育倉庫からも驚愕の叫びが漏れた。
「なにぃ!?」
聞き覚えのある声に、イチカも警戒の声を上げる。
「今の声は、委員長さん!?」
イチカはすぐ近くの斜面板に身を寄せて、声が聞こえた方向を索敵する。
一瞬、空中で何かがキラリと光った!
反射的に身を翻すと、顔の真横を『投げ苦無』がかすめる。
昇降遊具から第2倉庫までの距離は、およそ40メートル。
位置と方向は間違ってない。
だが、あまりにも遠すぎる。
「どうして、あんな距離から狙えるの……?」
明らかに生身の技ではないと考えると、すぐに答えが浮かび上がった。
彼女の特技は練丹術。
その特徴は生理作用の強化で、攻撃に転用すれば、異常命中や筋使用の限界を
外せる。
調整された強化練薬で、身体機能を一時的に強化してるのだ。
「天狗どのいわく、正面対決での勝機は皆無……。ここはひとまず、逃げの一手です」
イチカの頭に、校舎北西、緑地帯の選択肢が瞬時に浮かぶ。
段々畑と樹木の多い彼処であれば、直線射撃から容易に身を隠せる。
イチカは校庭遊具を盾にしながら、愛里の放つ遠距離攻撃をかわして北に進む。
途中、正門前の鳴子が行く手を遮るのをもどかしく感じながら、足早に校舎裏へと身を潜めた。
敵が有効射程から逃れると、坂本愛里は手にした苦無をマント裏に留め直した。
シャッターの開いた第2倉庫内、愛里の舌打ちが冷たく響く。
「藤森さんは逃げたみたいね……。それなら此方は、それを最大限に利用させてもらうわ」
イチカを追い立てて経路上の敵を炙り出せば、移動と狙撃に専念できる。
――校庭をまっすぐ突っ切ると、周囲の敵から袋叩きに遭う。
愛里は体育倉庫を出ると、すぐ右側のフェンス沿いを走って、逃げるイチカを
追跡する。
正門横を通り抜けて、校舎裏に到達。
すると、焼却炉の手前で違和感を覚えた愛里は、その場をすばやく飛び退いた。
直後、頭上から吹き下ろす小竜巻に行く手を阻まれる。
「へっへ~ん。さっすが、委員ちょ。今のをよく避けられたね♪」
ブワッと布を広げる音と同時に、挑発的な声が屋上から降りてきた。
「まさか、柳沼さん!?」
空中の理乃は、飛行翼を巧みに操り、愛里の前へと緩やかに降り立つ。
すばやい手付きで、翼の軸柄を腿の側面へと折り畳み、左手を突き出して旋風を放った。
「そぉらっ!」
「ぐううぅぅぅぅっ……!!」
突然、愛里の全身に猛烈な虚脱感が広がる。
木属性は土属性を相剋する。
神通力によって生じた風圧が、練丹術の薬効成分を無効化しているのだ。
片膝立ちに姿勢が崩れた愛里は、焦燥感に顔を歪める。
「いきなり強敵とぶつかるなんて、私って、本当にツイてないわね……」
臨組筆頭実力者のうち、愛里と理乃の相性は最悪だ。
しかも理乃が異常なのは、本来ならば相剋している、神通力と氣術の二つを使える万能性にある。
それに比べて愛里の強みは、練丹術にとびきり優秀な専門性だけだ。
氣術と法術の両者が使えない以上、陽忍術戦闘では、愛里の勝ち目は薄い。
理乃は、出会い頭に愛里の戦闘力を低下させると、鎖鎌を旋回させて氣術を練った。
「いざ尋常に勝負だよ、委員ちょ!」
「お断りよ。あなたの相手は、あきえと合流してからにするわ!」
返事の直後、掌から勢いよく閃く理乃の鎖鎌。
しかし愛里は、右後方へ跳ぶと同時に、心臓前の布地から煙玉をむしり取り、
前方に軽く投射する。
ほどなく、鎌の先端が煙玉の真芯を捉え、校舎裏は白い煙に包まれた。
・忍ヶ丘の構成
忍ヶ丘は1つの巨大な都市ではなく、陽忍術に関わる複数の町や組織によって形成された連合体・群である。
そのため陽忍組織は盤石な一枚岩ではなく、忍ヶ丘の地形と相俟って、3つの派閥に分かれている。
南東(外交)・南西(生活)・北(実務と生産)。
3つの地域は忍ヶ丘を維持する重要な役目をそれぞれ果たしており、東部・南部・北部と大まかに呼び分けられている。
このため3者の意見の相違は、自分たちの役割分業から生じた意識の違いに根差している。




