皆伝奥義
金曜日の午後、イチカは不平等院鳳凰堂の前で、上級生が門を通過するのを流し見しながら、師匠の到着を落ち着きなく待つ。
自分は今、どのくらい忍びの腕が上達したろうか。
寄り掛かった壁を背中でトントンと叩いていると、希更の横顔が目に映った。
「ねえねえ、希更ちゃん。私達、以前と比べて、だいぶ戦えるようになったと思いませんか?」
強くなった言うよりは、知識が経験として馴染んだことで、戦闘中の細かい局面に、余裕と確信を持って対処できるようになったのだろう。
イチカと同じ心境の希更は、初夏の爽やかな陽射しにくすぐったい笑みを浮かべた。
「ええ、そうね……。自信が付いた御蔭で、『結果を残してみせる』って使命感が湧いてきて、前よりも粘りづよい戦いができるようになったかしら」
そう口にする彼女自身は分からないだろうが、同じ時を過ごしたイチカだけは知っている。
希更は二週、三週と特訓を越えるたびに、以前の儚げな印象は退き、若さを
味方に付けた者特有の輝きを放っている。
特訓を心待ちにしているのか、ソワソワと落ち着きなく肩を揺らす動作にさえ、健全かつ瑞々しい精気が宿っていた。
イチカは爽快な気分で両手の指を組み、腕をまっすぐ頭上へと伸ばす。
「あとは今日の特訓をやり遂げて、試験に備えるだけですね。あ~、今日は何するんだろう」
う~んと唸って身体を左右に揺らすと、全身の強張りが解れて、程よい緊張感だけが残る。
ただ、左へ倒れた拍子に、隣りの希更へ当たりそうになった。
無造作に迫りくる直線エルボーを、呆れた感じで『ハシッ!』と受け止める
希更。
イチカが苦笑いで謝ろうとした時、裏門側の通りから、師匠の歩く姿が見えた。
スッタカ、スッタカと草鞋の裏を擦り鳴らせて歩く仁斎は、挨拶代わりに、イチカ達へと大きく片手を振る。
「お~う。二人とも、待たせたの~う。最終訓練、始めるぞ~い♪」
明らかな喜色に釣られて、イチカも頬を上気させた。
「あっ、師匠。なにやら今日はゴキゲンみたいですね。なにか良いことでもあったんですか?」
ものの見事に鼻息を読まれた仁斎は、照れくさそうに、真っ白な顎髭を捏ね回した。
「なぁに……。儂も、今日の特訓が少し楽しみでの。ちと浮かれ気味なんじゃ」
三人一緒に門を抜けて、特訓で慣れ親しんだ池の畔を目指す。
歩みの途中、希更が待ちきれない想いで仁斎に尋ねた。
「それで臥龍先生、今日はどういった特訓なのでしょうか?」
すると先頭の仁斎は、一瞬、顔の筋肉をピクリと動かして朗らかに答える。
「うむ。これまでは一対一ばかりじゃったが、試験は二人一組のうえ、自分よりも格上の相手とぶつかる事も考えられよう。よって本日は、二対一の連携戦をやってもらう」
特訓最終日にして新しい練習メニューだが、さっきまでの雑談にもあるように、慣れない条件が組み合わさろうとも、大きく心を揺さぶられる事はない。
師匠の手前、イチカは浮付いた心境を、殊勝な言動で取りつくろう。
「格上相手となると、中忍以上の先輩との模擬戦ですね。なんだか緊張するなぁ……」
ところが、池のすぐ傍まで来るも、そこには誰の姿もない。
先頭を歩く仁斎が、池の手前で歩調を緩める。
ただそれだけで、戦へ臨む覚悟に、慢心が生まれ始めた二人には充分だった。
「まさか、格上忍者との模擬戦って……」
希更が、顔に緊張を張り付かせて呻くと、仁斎は静かに振り返り、声に凄みを利かせて告げる。
「然様……。本日はこの儂、臥龍仁斎がお相手仕る」
決闘を期した声色と物静かな空気に、口の中が一気にパサついた。
「師匠が相手って、いつもの特訓みたいな感じじゃなくて、半ば本気って事ですよね?」
イチカが試しに聞いてみるも、二人の正面に立つ仁斎は、小さくも険しい頷きを見せる。
返す言葉も、普段の流れ話とは違って、必要最小限のものに留まった。
「無論、手加減は致そう。しかし、こちらから仕掛けるのは言うに及ばず、時が経つに連れて、技の危険度も高まる。それを二人、一致団結して対応し、実戦さながらの厳しさを体感してもらう」
間を置かず、仁斎は体側から頭上へと大きく腕を旋回し、胸の前へと両手を向かい合わせに下ろして息吹を練る。
「では最初に、この臥龍仁斎の奥義をお目に掛けよう!」
臥龍仁斎の中に眠る闘志、『五行の宝輪』が激しく回転し始める。
ムウゥゥ……と低く地鳴りのように息を吐き出すと、仁斎の顔に走る皺が一筋、二筋と消えてゆく。
もう一度深く息を吸い、静かに吐き出す。
すると今度は、白髪の根元から毛先へ、黒銀の艶やかな色合いが生じ、停滞する老いの空気が体外へと発散される。
――下手に騒ぐと、相手の敵意を刺激しかねない。
希更は、息を吐くのも惜しみ、小さくもハッキリとした驚愕を唱える。
「あれが臥龍先生の皆伝奥義、『身体活殺の法』の究極形……」
椎間板の修復で背筋はまっすぐに伸び、肩を揺らして呼吸する動作に滑らかさが加わる。
やがて、老人から若者への逆再生が完了し、若き日の臥龍仁斎、『朧月の剣鬼』が誕生した。
外見だけではない。
その声と口調にも、年相応の豪快さが表れていた。
「ふうぅ……。この姿に戻るのも久し振りだな。なにせこの状態に戻ると、寿命が縮むからな」
若き仁斎は大きく伸びをして、手足をブラブラと身体の調子を確かめる。
「あ、あの……。ひょっとして、本当に師匠なんですか?」
唖然とするイチカが、相手の顔を恐る恐る窺う。
すると、長身細面の麗人剣士は、イチカの問いに、ニカッと笑って答えた。
「ああ、そうさ。俺がさっきまでのジーさん、朧月の剣鬼と呼ばれた臥龍仁斎だ。もっとも、仁斎の方を名乗ったのは、年を食ってからの事だけどな」
ほえ……と呆けるイチカの横で、希更が弾かれたように抜刀し、三者の間合いを広く保つ。
「龍様…………じゃなかった。臥龍先生の昔の名は、朧月。その名の由来となる、丸みを帯びた『円の歩法』と『縫円剣』による反撃こそ、先生の特技と聞くわ。藤森さん、油断しないで!」
希更の刺すような警告は、仲間への助言と言うより、自身に対する叱咤に近い。
朧月の顔が好戦的に輝いた。
「へええぇぇ……。若いのに、よく俺のことを知ってるな。感心感心……。んじゃ、まっ、説明は要らないよな? 行くぜ!」
・臥龍仁斎(朧月)[1]
陽忍集団『五部』の語源となった傑士の一人。
幕末期、旅の途中で強盗の一味や辻斬りに出会すことも多く、多人数から逃げるのを意識した実践剣術により、円の歩法と縫円剣を編み出した。
五部結成の際、代表者の座を競って彩と戦うも、忍び特有の高低差を利用した
立体戦術に苦戦し、消耗したところを突かれて敗れる。
半蔵門での戦いでは、神具・五行宝輪を求めて五部を誘き出した牛鬼と善戦し、
雪風と示し合わせて片角を切り落とした。
陽忍集団『五部』の双璧、竜虎のうちの竜の方。
雪風のことを「雪ちゃん」とおちょくるように呼び続けた命知らずでもある。




