水中隠行
そして、その日の水曜特訓。
イチカは本格霊場の一つ、人工湖・赤壁で、授業よりもかなり高難度な水中特訓を受けていた。
「ほらほら……。君の得意な近代泳法で、僕をしっかり捕まえてごら~ん♪」
イチカは必死に相手を追うが、水虎先生はアメンボのように水を掻き分け、長時間に渡って相手を翻弄する。
せっかく相手を湖外周に追い詰めたと思ったら、今度は深く潜って躱されてしまった。
「どうしよう……。これじゃ、まるで歯が立たない」
すると、焦るイチカの耳が、360度のサラウンド方式で師匠の助言を拾う。
「藤森さん、水虎先生の挑発に乗ってはイカン! 御主が無闇に追いかければ、
基礎体力の向上を図って逃げ回り、冷静になれば、水中隠行の修練に切り替えるつもりじゃ。人外の技に真っ向から向かっても無駄と知れぃ」
不思議に思って動きを止めると、赤壁水上を、臥龍仁斎が休みなく走り回っていた。
特殊能力を一切持たないイチカは、非現実的な光景に動揺して大声を出す。
「私から言わせれば、師匠も充分、人として規格外の存在です。どうして水の上を走れるんですか!」
「なにを言う。これも、陽忍ならば誰でも習得する技、『水走りの術』じゃ。もし陽忍術が使えても、今回は使ってはならんぞ」
仁斎が要らない忠告を加えていると、水虎先生が、遠くから余裕の挑発をかます。
「ハッハッハッ~♪ 藤森さ~ん。クロールって、ダイナミックなフォームだね~」
「ああっ! 私がノンビリしてる間に、水虎先生がクロールと英語をマスターしてる!」
続けて仁斎も、湖面を引っ切りなしにダッシュしながら衝撃を憶えた。
「こりゃイカン! 水虎先生、儂を差し置いて、ナウいヤングになっておる(死語)!!」
これ以上、ボヤボヤとしてはいられない。
彼我の圧倒的な実力差を前にして、イチカが素直に助言を求める。
「師匠、一体どうすれば、水虎先生を捕まえられるんですか!」
「案ずるな、藤森さんや。所詮は、俄か仕立ての新泳法。速度と練度なら、御主の方がずっと上じゃ。どうせ特訓後半は、赤壁周辺の素材集めとヌルイ内容。本気を出して構わん。下から静かに迫る水中隠行で接近し、動きがバレた瞬間、シャチのごとく襲い掛かれぃ!」
「分かりました。水中隠行と体力訓練、見事に果たして見せます!」
イチカが水中へと潜り、静かに水虎先生へと接近する。
イチカの気配と、心を乱す波飛沫の音が、赤壁水上から不意に途絶えた。
水虎先生は違和感を感じてピタリと停止し、古式泳法の立ち泳ぎで周囲を警戒する。
(静かになった? でも、臥龍先生は陸に上がってジッとしたままだ……。だとすると、藤森さんが溺れた訳じゃなさそうだね)
思考を打ち切り、心を鎮めて水に融かす。
突如、水虎先生の脳裡に危機感の電流が閃く。
「むっ、殺気? 後ろからかっ!」
水虎先生が、水中深くへと潜る。
それとはタッチの差で、イチカが水面から顔を出した。
「アレ!? 水虎先生がいない? さっきまで此処に居たのに……」
心地よい波の音が、湖畔の空気を静かに揺らす。
完全に敵を見失ったイチカの耳が、シュババババババ、とけたたましい音を捉えた。
瓢箪型の湖を囲む芝生から、師匠の臥龍仁斎が切迫した表情で駆けつける。
「気を付けよ、藤森さんや。水虎先生は、その名の通り水の虎。いま御主がやった事を、ソックリそのままお返しする積もりじゃ!」
仁斎が周囲を駆け回るせいで、湖水上層の水は不規則に掻き混ぜられて気配が
読めない。
それを知ってか、仁斎は早口に要点を伝える。
「藤森さん、水は空気よりも密度が濃い。水の流れを身体に感じるのじゃ。さすれば、相手の動きも事前に読める。こちらから近付くよりも、よほど理に適った忍びの技じゃ」
それだけ言い残すと、定位置の芝生へと一目散に離れていった。
次第に乱雑な波は晴れて静寂が戻り、甲高い耳鳴りが、イチカの聴覚を支配する。
(水の流れ……。流体の流れ……)
目を瞑り、足裏・太腿・臀部に背中、目の届かない部分へと神経を集中させる。
膝裏から臀部に掛けて、湖水が緩やかに自分の身体を持ち上げる。
(そこか!!)
イチカは大きく前へと水中へ飛び込み、身体を丸めて、水虎先生の浮上をやり過ごした!
息継ぎ早々、水虎先生が大きく目を見開く。
「まさか、今のを躱すだなんて!!」
言い終えてすぐ、こめかみに攻撃性の警告音が走る。
「ハッ、いけない!!」
水虎先生は両手で水面を勢いよく叩き、水中から下半身を抜いて空中高くへと飛翔。
入れ違いに、イチカが水面から飛びだした。
その手はあと一歩の所で相手を逃すが、隠行術の目覚めを実感するイチカに悔いはない。
「エヘヘ……。どうでした、私の隠行破りは?」
水虎先生が陽忍術を行使して、水面の上へと華麗に降り立つ。
腕を組み、湖面の上で直立するさまは、皆伝者としての威厳があった。
彼の目はするどく尖り、声と口調に凛々しさが募る。
「実にお見事……。気配とは、耳目の届かぬ背部や肌で感じる存在。その働き、
単位一点に相当します!」
男前に宣言すると、仁斎が腰に提げた単位の証、密封小瓶が眩い光を放つ!
「あっ……。師匠が預かってくれてる瓶が、少しだけ大きくなった!」
水辺に立つ仁斎が、イチカに向かって瓶を掲げて声援を送った。
「見事な活躍じゃったぞ、藤森さん。この調子で評価点を貯めて、今より上位の証、妖精匙の付いた小瓶を目指すのじゃ!」
仁斎の激励のあと、水虎先生が人差し指と中指で印を刻み、垂直に天を衝いて
闘気を放つ!
「本気ではなかったにせよ、まさか素人同然の娘に後れを取るなんて……。それなら此処からは、少しだけ本気を出させてもらうよ。ヌェェエリャッ!」
突然、赤壁湖水が激流と化し、水中から幾つもの水柱が迫り出した。
イチカはその内の一つに身を攫われて、水柱の頂上でうろたえる。
「うわあぁぁあ! 一体なんですか、コレ!」
怒りが少し収まったのか、水虎先生は元の温和な口調へと戻り、頭上の生徒に呼びかける。
「藤森さ~ん。それは、霊術によって作られた水柱だよ~。水の流れが分かりづらくなるうえ、障害物にもなるからね~。さっきと同じ要領で、僕を捕まえてごら~ん♪」
激流の中、『気配を読め』とは無茶な要求である。
しかし、闘争心に火が点いたイチカは、自身の強みである発想の柔軟さで勝負に出た。
「よぅ~し。先生がその気なら、私だって!」
水柱は、出現位置によって高さが違う。
強気のイチカは、背の低い水柱へと次々に飛び移り、安全高度から水中へ飛び込む。
イチカの身が隠れると、水虎先生は口元に手を添えて、自身の短慮に苦笑した。
「ふふふ……。我ながら、ちょっと大人げなかったかな? この技は、同じ霊術を使わないと、水柱を制御できないのに」
だがその余裕は、仁斎の警告によって脆くも打ち砕かれた。
キラリと陽光を照り返す頭部の皿をヒントに、臥龍仁斎は、危機感を湛えた顔で振り仰ぐ。
「今日の藤森さんは一味違うぞ……。水虎先生、頭の皿が目印になっておる。来るぞっ!」
それに遅れて、水虎先生が再びドスの利いた声で空を見上げた。
「まさか、太陽を背にしたのかっ!!」
青空を背景に、頭上に両腕を伸ばしたイチカの勇姿が迫り来る。
彼女に、水柱を突破する気は更々ない。
水中から巻き上がる水柱の勢いを利用して跳躍し、水中からではなく、空からの奇襲を試みる。
「てやあぁぁぁ!!」
油断していた水虎先生に、空中落下蹴りを避ける術はない。
水虎先生の面子を守るべく、訓練指導に専念していた仁斎が迎撃に動いた。
「我が弟子ながら、良ぅ遣るわ。ならば此処からは、この儂が相手じゃ。でやあぁぁぁ!!」
師弟の蹴りが、空中で交錯した。




