近代泳法
それから更に一週間後。
特訓二週目の水曜日、水虎先生によるプールでの水練が始まった。
水着姿の女子高生に混じって『河童がいる』という、現代日本ではおよそ有り得ない光景だが、授業を受ける側も授ける側も、平然と訓練に従事する。
「はい。ではこの僕、水虎先生が、金剛先生に代わって水練の授業を行います」
水虎先生は水面から上半身を出して、生徒に向かって丁寧にお辞儀をする。
物腰柔らか、温和で素朴な妖怪先生に、イチカは挙手を忘れて不思議そうに質問する。
「金剛先生の代わりって……。本来だったら、水虎先生の担当じゃなかったんですか? むしろ私には、打って付けって気がするんですけど」
水虎先生は民間伝承の姿とは少し違って、寸胴でパッチリと円らな瞳の、水掻きが生えているデフォルメタッチな形である。
水虎先生は、純情素朴な両目をニコッとアーチ状に微笑み曲げ、口元に手を添えて笑いを堪える。
「ああ! それは金剛先生が、名前の通りカナヅチだからだよ。それにみんなは、忍術伝法の儀がまだだよね? だから滝業はなるべく控えて、暑さが近付く今の
時期に、早めに水中訓練をしておこうという訳なんだ」
「なるほど……。先週は人工湖『赤壁』の自然学習とランニングだけで、水垢離とかは一切なかったですね。ようやくその意味が理解できました」
イチカがわざとらしく呟くと、近くで弱々しい反応があった。
疑惑の人物は、身体をブルブルと高速で震わせ、水面を揺らしながら神経質な
口調で指摘する。
「だ、誰に向かって、先週の授業を説明してるのかしら……。藤森さん……」
「なんでもありませんよ、希更ちゃん。単なる独り言です、独り言♪」
と言い終えて、イチカが言葉づかいの微妙な差異に気付く。
「あれっ!? 語尾が弱いと思ったのに、希更ちゃんじゃなくて、委員長さん!?」
プールの水と同色の蒼白な顔で、坂本愛里がイチカの足元を指差す。
「み、水野さんは水練が得意だから、五分ほど前から、底の方でずっと潜水してるわ……」
『プクプク……?(希更)』
口から漏れる気泡で返事をする希更からは、余裕が強く感じられる。
こうなると心配なのは、友人よりも、さっきから挙動がおかしい愛里の方である。
「あの……。大丈夫ですか、委員長さん。さっきからずっと、あきえさんの腕を掴んだまま、真っ青な顔で震えて……。もしかして、体調でも悪いんですか?」
するとあきえが、本人に代わって呑気に答える。
「ああ、好いの好いの。気にしないで……。愛里ってば、子供の頃からまったく泳げないんだよ」
若干、鼻であしらう軽薄な態度に、愛里がムキになって小さく暴れる。
「勝手なこと言わないでよ! 私は泳げないんじゃなくて、水に浮かないだけなんだから!」
「それってどちらにしろ、行き着く先は『土左衛門』ですよね……」
水死体のことを、ちょっぴり懐かしい表現で指摘するイチカ。
三人が授業から僅かに気を逸らすと、水虎先生は、水掻きの生えた手を鳴らして注意を呼び戻す。
「ほらほら、其処。私語を慎まないとダメだよ~。ちゃんと手足の動きを憶えないと、姿勢が崩れて、水の中に倒れちゃうんだからね~」
「ヒイィ! す、済みません!」
直立不動で萎縮する愛里。
その姿勢が一層、水に対して浮力を失ってゆくのである。
三人の私語が止むのを待って、水虎先生が説明を再開した。
「さて、今回教えるのは古式泳法の一つで、頭の上に武具を載せたまま、荷物を濡らさず、静かに前へと進む隠密泳法だよ。みんな、まずは僕の真似をしてみて~」
水虎先生は両腕を水面にピタリと這わせて、水の中で静止する。
上半身はそよとも動かないが、脚は絶えず水中で旋回し、足裏で水を蹴っている。
陸上ならばみっともない動きを、イチカは恥ずかしげもなく挑戦する。
「えっと……。包みを頭の上に載せて、がに股で水を蹴り上げ、手は水面に伸ばすべし……」
水虎先生ほどではないが、イチカは上半身を小さく揺らして、危うげなくバランスを保つ。
それを見ていた余裕の水虎先生は、水面の上で片手を横に振り、動きの良さを誉める。
「好いね、藤森さん。なかなか様になってるよ……。ひょっとして、どこかで泳ぎ方でも習ったのかい?」
忍者ファンで動きだけは知っていたが、実践経験は皆無である。
う~ん……、とイチカは短く悩んで、その理由に思い当たった。
「いいえ。なんだかこの足運びって、近代泳法の平泳ぎと、自転車を漕ぐ動きに似てるんです!」
「へえぇ、近代泳法かぁ。ちょっと興味があるなぁ……。いったい、どんな泳ぎ方なんだい?」
「速さを売りにした水中移動術です。見てて下さい!」
イチカは平泳ぎの動作でプールサイドに近付くと、頭の包みを床面に置いて、
バタ足クロールを披露する。
「隠密性は別にしても、航行速度はずっと上です! 現代教育を舐めるなぁ~!!」
女だてらに雄々しく叫び、水の壁を切り裂くイチカ。
クロール泳法はバシャ~ン、バシャ~ンと水飛沫が激しく、愛里の平常心も、水面に合わせて大きく時化る。
「ああっ、ちょっと……。そんなに波を立てないで!」
悲鳴の最中、一度、大きく波に攫われ、気付けば愛用の装飾品が顔から消えていた。
「ウソッ、眼鏡が流された!? 私のメガネぇぇぇ~!!」
「ちょっと愛里! そんなにパニくると、また溺れるよ!」
あきえが愛里の肩を支えると、希更がナイスタイミングで、水中から『何か』を差し出した。
「委員長さん、コレ……」
眼鏡の弦がハッキリ見えた!
愛里はそれを遮二無二受け取り、礼を述べる。
「ありがとう、水野さん。これが無いと、私……」
装着する前に気が付いた。
ヒゲメガネである。
「要るか、こんな物!(ピョイ~ン♪) なにが楽しくて、私があんなパーティーグッ……」
言ってる間に、水面からSOSの片手を突き出して、ガボガボと沈んで行く
愛里。
彼女の惨状を見かねた華隠が、接近中のイチカへと手を伸ばして、水着の肩紐を無造作に引っぱる。
「うわあぁ!! いきなり何するんですか。離して下さい、華隠さん!」
「アレをよく見るだわさ。イチカの蛮行のせいで、今にも委員長が、名誉の戦死で二階級特進する様を……」
はだけた胸元を覆い隠すイチカに、染み染みとした口調で言い聞かせる華隠。
あれほど浮かないと自認していた愛里の身体は、死の恐怖で全身が弛緩し、見事に水面へと浮上している。
「しっかりしな、愛里。傷は浅いよ!」
あきえは必死に励ますが、心の傷はそうでもない。
獲れたて鮮魚の如くプールサイドに水揚げされる愛里の様子を、イチカは不明瞭に喘ぎ、苦笑いで見送るしかなかった……。
土属性は水を相剋するのに、愛里は泳ぎが苦手です。
人間って、難しい……。




