浴室の誓い
それから3時間後のイチカ宅。
浴室の湿った空気に、いくつもの小さな泡玉が浮遊する。
泡の表面、虹色の光彩に浮かぶのは、グニャリと歪んだ二つの裸身。
イチカと瓊荷木さよのものだ。
小っちゃな身体のすぐ後ろ、忍術修業に打ち込む経緯を簡単に話し終えたイチカは、さよの頭をシャンプーでワシャワシャ洗いながら、親しげに問いかける。
「…………と言った事がありまして、新しい忍具を造るのに、忍術媒体なる物が
必要なんです。それでさよちゃんは、その忍術媒体がなんなのか知ってますか?」
同性同年。されど、どう見たって年下にしか見えない瓊荷木さよは、『ですます口調』の丁寧な喋り方で答える。
「ハイですよ。イッちゃん達の土曜日授業、練丹術や符術にとって必須素材の一つですから。あれがないと、単なる練り薬や毛筆の練習に終わってしまうです」
さよの返事に続いて、イチカの後ろから、清らかな相槌が浴室内を奇襲した。
「そうね……。ちなみに高純度媒体は、特殊素材として高値で取引されてるわよ~♪」
不意に聞こえる呑気な声に、イチカはビクッと身を強張らせる。
その勢いで、彼女の頭から泡の塊が零れ落ち、背後で『あっ……』と残念そうな声が漏れた。
この家で、こんな無茶な登場をするのは一人しかいない。
イチカはろくすっぽ確認もせず、振り向きざまに文句をぶつける。
「姉上! なんで一緒にお風呂に入って、私の髪の毛、洗ってくれてるんですか! 誘ったのはさよちゃんだけで、姉上には頼んでません!」
そこまでされて、どうして今まで気が付かない!
すっかり道化役が板に付いた妹へ、葵が構って欲しい一心で唇を尖らす。
「だって仕方ないじゃない。忍術学園のお爺ちゃん先生から伝言を受け取ったの、私なんだもの。『特訓の件は話が付いたから、午後、自分の教室に来なさい』だって……。あと、お友達の水野さんが体調を崩したから、地図も一緒に渡された事だし、お見舞いに行ってみたら?」
シャンプー対策で両目をギュッと閉じていたさよが、頭を大きく後ろに反らす。
「ふえっ? 水野さんって言ったら、イッちゃんと同学年の、水野希更さんですか?」
イチカは質問者の頭に這わせた指をピタリと止めて、物憂げに口を開いた。
「希更ちゃん、訓練中に木屑を吸い込んじゃって、喘息を起こしてしまったんです」
さよはそれを聞いて、疑問が瞬く間に解けた。
人間誰しも、卑近な部分がある。
どこかの物語や辞書から引用したような、正義とか社会性といった曖昧な『何か』のためには、それ相応に、希薄な程度にしか踏ん張れない。
一人の人間が強大な試練に立ち向かうには、とどのつまりは、特定の報酬や誰かのためが一番なのだ。
それも、なるだけ明確で身近な存在がいい。
形ある分だけ、人はたくさん努力できる。
――もうこの人はブレたりしない。
そんな風に考えて、さよは自分の背中に微笑を隠した。
「そうだったですか……。イッちゃんは水野さんのために、試験を頑張る気になったんですね」
ストレートに言えばそうなのだが、誰かのためと強調されると、自分が立派な
存在に聞こえて恥ずかしい。
図星を射されてうろたえるイチカは、建前を前面に押しだした。
「えっ! 否、半分はそうですけど……。もう半分は、自分自身のためにです。時代錯誤な忍者社会とは極力、距離を保ちたいって気持ちは残ってますけど、誰かのために、今、自分に何が出来るのか、ほんの少しだけ、確かめてみたくなっただけです!」
修業継続を志願しながら距離を置きたいだなんて、悪足掻きも良い所だ。
煮え切らない態度に臍を曲げた葵は、不満一杯、お湯一杯に、足元の桶へと手を伸ばす。
「イチカってば、まだそんな事を……。そんな心の冷たい子は、こうして温めてあげます」
葵がワガママ三昧の表情で、イチカの頭上から『えいっ!』とぬるま湯を掛け流す。
不意の事態ともあって、イチカは風呂椅子の上で溺れ藻掻いた。
「はわっ! ゴボッ……、ボハーッ!! 姉上、いきなり流さないで下さい。お湯が口の中に入ったじゃないですか! それに、お湯を掛けたくらいじゃ人の心は温まりませんし、私の心は、元から温かい方です!」
事あるごとに場を混ぜ返す姉を制して、イチカは膝横の湯桶に手を伸ばす。
全身の泡を綺麗に洗い落とすと、さよに続いて湯船に漬かった。
「痛っっ……」
治りかけの部分にお湯が沁みて、傷口がピリリと痛んだ。
一瞬、イチカは顔を歪めると、体育座りのさよを避けて両脚を左右に広げる。
大きく息を吐いてリラックスした気分になると、話の流れを合成素材へと強引に戻した。
「とにかく今は、忍術媒体の話が肝心です。さよちゃん、その素材、在庫の数に
余裕はありますか?」
思い出したように仕事の話を振られたさよは、イチカの質問へ元気よく返す。
「あっ、ハイです! 練習用の素材なら、新忍具開発に貢献するので、特別に、
仕入れ値に近い価格で配達されるよう、手配しとくです」
「本当ですか? ありがとうございます、さよちゃん!」
感謝の気持ちから、さよのほっぺたをプニプニと弄ぶイチカ。
楽しんでるのか困っているのか、さよが判別不能なユルい声を漏らした。
「うゆ、ういぃぃぃ~……。購買担当、瓊荷木さよにお任せです~」
イチカは得意げな表情のさよから手を離すと、水面をザバンと割って立ち上がり、ちょうど胸が隠れる位置で、両手の拳を強く固める。
「よぅし……。あとは希更ちゃんを元気付ければ、残る心配は、私の修業だけです!」
血気盛んな妹の仕種を真似て、葵が本音と誤用をごちゃ混ぜにして応援する。
「ファイトよ、イチカ。お姉ちゃんも、草葉の陰から利用させてもらうわ!」
「姉上は死んでませんし、私は利用される積もりなんて、これっぽっちもありません!!」
締まらないなぁ……といった感じのさよの顔が、湯船の上を海月のように揺らめいた。




