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あたしは椅子に座り、歌い疲れたのか安らかな寝息を立てているさくらちゃんの顔を、ぼんやりと眺めていた。
「あら、ひまわりちゃん、来てくれてたのね」
優しい声が病室内に響く。
「まあ、綺麗なお花。いつも本当にありがとう」
たおやかな笑顔を振りまきながら病室に入ってきた女性は、あたしの横の椅子に座った。
さくらちゃんのお母さんだ。
つやめく長い黒髪はさくらちゃんとそっくりで、とっても穏やかな雰囲気を与えてくれる。
「いえ、いいんですよ。あたしにできることなんて、これくらいしかないから……」
尻すぼみに消えかけていくあたしの声を聞きながら、さくらちゃんのお母さんは笑顔にさらなる優しさをたたえる。
「ひまわりちゃんとお友達になれて、さくらは幸せだって、いつも言ってたわよ」
あたしの心が沈んでいることを察知して、気遣ってくれたのだろう。
「…………」
「私も、そう思うわ。おとなしくて人見知りなこの子をずっと面倒見てくれて、本当に感謝してるのよ」
言葉に詰まっているあたしに、続けて温かな声をかけてくれるお母さん。
いつもいつも、あたしのことを優しく包み込んでくれる。
さくらちゃんのお母さんではあるけど、あたしにとっても、本当のお母さんのように思えていた。
「……でも、あたしがさくらちゃんを引き込んだから、こんなことになってしまったんだし……」
言いながら、涙がこみ上げてくる。
こぼれそうになる雫を、さくらちゃんのお母さんはそっと人差し指で拭ってくれた。
「なにを泣くことがあるというの? あなたたちがいたから、今、私たちは生きていられるのよ。それは誇らしいことだと、私は思うわ」
こんな歳になって恥ずかしいかもしれないけど、あたしは堪えきれず彼女にすがりつき、大きなしゃくり声をあげて泣き出してしまった。
もちろんそれは、悲しい涙ではなくて嬉し涙だ。
それがわかっていたからだろう、さくらちゃんのお母さんはなにも言わず、ただあたしの頭を優しく撫でてくれていた。
☆☆☆☆☆
あたし、澄空ひまわりは、二十五歳の女の子だ。
……ごめんなさい。二十五にもなって女の子っていうのも、ちょっと図々しいかもしれないよね。
今は無職。とはいえ、生活に支障はまったくない。
その辺りについては、おいおい話すとして……。
あたしのお母さんは、さくらちゃんのお母さんの姉にあたる。
だから、さくらちゃん――羽宮さくらは、あたしのいとこ、ということになる。
家も近かったため、小さい頃からよくさくらちゃんの家に遊びに行っていた。
五歳違いにもかかわらず、面倒を見るというよりも一緒になって遊び回っていたのは、あたしの精神年齢が低かったからなのではと、今となっては思うのだけど。
ともかく、あたしとさくらちゃんは仲がよく、彼女のお母さんとも頻繁に顔を合わせる間柄だった。
それは、あたしのお母さんの体が弱くて病気がちだったことも、影響しているのかもしれない。
あたしのお母さんは無理できない身だったから、さくらちゃんのお母さんがその近くに住んでいたというのも、おそらくはあったのだろう。
あたしの面倒を見る代わりに、あたしが幼いさくらちゃんの面倒を見る。
そう言って、あたしのお母さんを納得させていたに違いない。余計な気遣いをさせないために。
ひとりっ子だったあたしとしても、さくらちゃんと一緒に遊ぶのは楽しかったから、彼女の家に頻繁に足を運んだのも、ごく自然なことだったと言える。
そんな日々が続いたある日、あたしのお母さんは体調を崩し、そのまま息を引き取ってしまった。
いつもと変わらない、ちょっと力のない笑顔であたしが学校に行くのを送り出してくれたお母さん。
その笑顔が最後の記憶になるなんて、思ってもいなかった。
高校生になっていたその頃のあたしは、お母さんを鬱陶しく感じることも多くなっていた。
病気がちだからというのはわかっていても、さくらちゃんのお母さんのほうがずっと、あたしを可愛がってくれる。
そんなふうにまで思っていた。
もっと優しくすればよかった。
そう思って悔し涙がいくら溢れてこようとも、もうあとの祭り。
激しい後悔の念が、あたしの心にはいまだに残っている。
あたしのお母さんは、さくらちゃんのお母さんにも多分に助けられてはいたけど、女手ひとつで必死にあたしを育ててくれた。
お父さんは、あたしが生まれてすぐに死んでしまったらしい。
写真は残っていたけど、この人がお父さんよ、とお母さんから言われても、実感なんて湧かないというのが正直な感想だった。
だけど、ふたりが愛し合っていたからこそ、あたしもこの世に生を受けたわけで、もっとちゃんとお母さんの話を聞いてあげるべきだったと、今さらながらに思う。
お母さんが死んでしまったあと、さくらちゃんのお母さんがあたしを引き取ると言ってくれた。
でも、大学に入ることが決まっていたあたしは、その申し出を断った。
大学の授業料を払わなくちゃいけないからバイトする必要もあったし、大変だろうということはわかっていた。
それでも、迷惑をかけ続けるわけにはいかない、という思いが強かったのだ。
そうやって考えていたはずなのに、結局あたしはこうしてさくらちゃんのお母さんに迷惑をかけ、さくらちゃんをこんなふうにしてしまう原因を作ってしまったのだけど……。
☆☆☆☆☆
気づけば病室内にはカーテンをすり抜けて西日が差し込んできていた。
「そろそろ、帰らないと」
さくらちゃんのお母さんからのそのそと体を離し、あたしはぼそりとつぶやく。
「あら、そうね。もうこんな時間だし、すぐに暗くなっちゃうわ。……それじゃあ、ひまわりちゃん、またね。気をつけて帰るのよ」
「……はい」
どんなに沈んだ顔をしていたとしても優しく微笑みかけてくれる、そんなさくらちゃんのお母さんに見送られながら、あたしは静かに病室を出ていった。




