死への好奇心
東京、2012年
三十二歳の男が、東京のある通りを速足で歩いていた。
一歩、また一歩。
雨は激しく降り注いでいた。だが男は、寒さも服をずぶ濡れにする水も感じていないかのように歩き続けていた。
彼は心の中で呟いた。
「死……死とはなんだ? 死とは、体が意識を失うことなのか?」
一歩、また一歩。
「死の後には何がある?」
一歩、また一歩。
「本当に天国と地獄はあるのか?」
一歩、また一歩。
「死後の生はあるのか?」
歩き続け、やがて高い場所へ辿り着いた。
周囲を見下ろす大きな丘だった。雨は容赦なく降り続けていた。
男は崖っぷちに立った。
そして笑い出した。
最初はかすかな笑いだった……
やがてそれは、どんどん大きくなっていった。
男は雨の下で笑っていた。人生で最も恐ろしいはずの思考の中に、何かおかしなものを見つけたかのように。
そして言った。
「人間は、死に向かって生きる唯一の生き物だ。俺たちは最後に死ぬんじゃない……生きながら死んでいくんだ。そしてほとんどの人間は、この真実から逃げるから、偽りの人生を生きる」
笑いを止めた。
少し手を上げ、そして下を見た。
「俺は学者じゃない、宗教家でもない。ただ知りたいんだ……死が俺をどこへ連れて行くのかを」
しばし沈黙した。
「死は、夢のない深い眠りか……あるいは魂の、別の世界への旅だ」
自分の手を見た。
「死とは、体が意識を失うことなのかもしれない」
そして奇妙な微笑みを浮かべた。
「でも正直……その考えは間違っていると思う」
空を見上げた。
「体はただの死体だ……意識を宿した人形だ。体が意識を失えば、ただ朽ちていく肉になる。心臓が止まり、体の機能のすべてが止まる……そして意識だけが残り、自分自身の終わりを待つ」
少し黙った。
「正直……それは恐ろしい考えだ」
深く息を吸った。
「でも、知りたいんだ」
飛び降りる準備をした。
そのとき……
「止まれ」
男はその場で凍りついた。
ゆっくりと手を下ろし、振り返った。
後ろには傘を差した別の男が立って、静かに彼を見ていた。
男が言った。
「本当に今死にたいのか? まだ父親を必要としている息子がいるのに、マルス?」
マルスは一歩後ろに下がった。
「ああ、その通りだな、古い友よ」
男は眉を上げた。
「古い? 薄情だな! 何年も同じ仕事を共にしてきたのに」
マルスは微笑んだ。
「ああ、その通りだ。俺たち二人とも、あの年月、ろくに休めなかったな」
「二人とも? 一緒にしないでくれ。俺は結婚していて、妻を愛している。俺たちには強い絆がある」
マルスは彼を見た。
「何を言ってるんだ? お前の方が俺よりずっと薄情だろ、ジャック」
ジャックは笑った。
「ハハハハ!」
マルスも笑った。
しばらくして、二人は共にその場を去った。
車に乗り、ジャックは東京の街を速く走らせた。
道中、マルスが言った。
「数日前、お前の奥さんを見かけたよ」
ジャックは彼を見た。
「本当か? 話したのか?」
「ああ」
「何を?」
「とても悲しそうだった。理由を聞いたら、検査を受けて、自分は子供を産めない体だとわかったんだって。お前に嫌われるんじゃないか、捨てられるんじゃないかと怖がっていた……でも、お前がちゃんと向き合ったんだろうな」
ジャックは微笑んだ。
「もちろんだ。彼女を嫌うことなんて絶対にない。愛したのはあの子だけだ。死ぬまで愛し続けるよ」
マルスは微笑んだ。
「お前は本当にロマンチストだな……惚れそうになるよ」
ジャックの表情が一瞬で変わった。
「は? いや、いや! それはいらない。気持ち悪い」
「ひどいな」
ジャックは笑った。
「それに、俺は毎日妻と愛し合えるしな」
マルスは嫌悪の目で彼を見た。
「なんて破廉恥なんだ、この老いぼれ」
二人は一緒に笑った。
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二日後
マルスはベッドで目を覚ました。
隣にはマリアという名の若く美しい女がいた。
ベッドの端に腰をかけ、ため息をついて立ち上がった。
服を着て部屋を出た。
ドアを開け、大きな家の中の広い廊下へ出た。
階段を降り、キッチンへ向かった。
コンロに火をつけ、フライパンを置き、卵を割って朝食を作り始めた。
そのとき……
後ろから小さな声がした。
「おはよう、お父さん」
マルスは振り返った。
ユーリが立っていた。
マルスは微笑んだ。
「おはよう、ユーリ。あそこのテーブルに座ってな。今朝ごはんを持って行くよ」
「うん」
マルスは料理を続け、テーブルに並べた。
父と息子は一緒に座った。
「さあ、食べよう」
二人は食事をしながら、他愛のない話をした。
食べ終えると、マルスは皿を運び、流しに置いた。
しばらくして、マリアが入ってきた。
「おはよう」
ユーリは彼女に駆け寄り、抱きついた。
「おはよう、お母さん!」
マリアは彼を抱き上げて微笑んだ。
「おはよう、愛しい子」
一方マルスは、何も言わなかった。
しばらくして身支度を整え、家を出た。
---
道は人で混み合っていた。
歩いていると、女の声が彼を呼び止めた。
「ねえ、そこのハンサムさん!」
彼は振り返った。
道端に座っている女だった。
女は手招きした。
「こっちに来て」
「何の用だ? 時間がないんだ」
女は微笑んだ。
「そんなに急いでどうするの? 占ってあげるよ」
「そういうのは信じない」
「何を失うって言うの? ほら」
マルスはため息をついた。
「わかった……少しぐらいならいいか」
女は微笑んだ。
「いい子ね。じゃあ質問から始めるわ」
小さな手帳を取り出した。
「まず、歳はいくつ? 名前は?」
「三十二歳だ。名前はマルス」
「結婚してる?」
「ああ」
「奥さんの歳は? 名前は?」
「二十二歳だ。名前はマリア」
女は眉を上げた。
「若いのね。子供はいる?」
マルスは苛立って彼女を見た。
「聞いてくれ、そんな質問は必要なのか?」
「答えるだけでいいの」
ため息をついた。
「わかった、わかった。四歳の息子がいる。名前はユーリだ」
「仕事は?」
「会社の社長だ」
「社長? じゃあなんで歩いてるの? せめて車があるはずでしょう」
「そういうのは好きじゃないんだ。正直、歩くのが好きなんだ」
「どんな会社を?」
「製薬会社だ。名前はNOXARだ」
女は一瞬動きを止めた。
「ノクサー? 日本最大の製薬会社じゃない」
「とにかく……これで終わりか?」
「ええ。じゃあ、あなたの運勢を」
マルスは待った。
女は長い間彼を見つめた。
そして言った。
「あなたは最後には……」
待った。
「死ぬわ!」
マルスは目を見開いた。
「死ぬ?」
「そうよ」
マルスは彼女の服を掴んだ。
「何を言ってるんだ?」
叫んだ。
「当たり前だろ! 誰だって死ぬんだ! この地球にいる誰もがだ!」
そして彼女を放し、背を向けて去ろうとした。
「ちょっと! 待って」
マルスは足を止めた。
「今度は何だ?」
女はため息をついた。
「そうね。ごめんなさい。それに、教えてもらった情報からあなたの人生を当ててみせるわ。もし当たってたら、お金をちょうだい。私は結局、お金のためにやってるんだから」
マルスは彼女を見た。
「いいだろう。聞かせてもらおう」
女は微笑んだ。
「名前はマルス、三十二歳。奥さんは二十二歳、息子は四歳。つまり、五年前くらいに結婚したってことね」
マルスの表情は変わらなかった。
続けた。
「あなたはただの貧しい人間で、十五歳の時から汚い仕事で生きてきた」
マルスの表情が少し変わった。
「十四歳の時、お父さんがお母さんが娼婦として働いていたことを知って、二人は離婚した。その後、お父さんはあなたを置いて行き、あなたは路上で暮らした」
一瞬沈黙した。
「お母さんの方は、その汚い仕事を続けていたけど、すぐに正気に戻ったの。お父さんのことをとても愛していたことに気づいたのよ……そして、丘から湖へ身を投げて死んだ」
マルスは目を見開いた。
「そして彼女を見つけたのは、あなただった」
沈黙した。
「それが、あなたのお母さんの物語の終わり」
そして続けた。
「お父さんの方は、借金まみれだった。マフィアと関わって、それが原因で殺された」
マルスはうつむいた。
「それが、あなたのお父さんの人生の終わり」
女は小さく微笑んだ。
「あなたは生きたいだけだった。だからその汚い仕事に入ったの……殺し屋として人を殺す仕事に」
マルスは黙ったままだった。
「あなたはそれを楽しんでいたし、とても腕が良かった。今もそう」
そしてまっすぐに彼を見た。
「この先、どんな悲惨なことを経験したのかはわからないけど、あなたはその仕事を十二年間続けた」
少し間を置いた。
「そこへ、プライドに満ちた大柄な男が現れて、あなたに自分の小さな娘との結婚を持ちかける。娘は当時十八歳だった。その男は、あなたに自分の裏のある会社を経営させたがっていた」
沈黙した。
「あなたは彼が望む利益をもたらした。でも、お金が彼の本当の目的だったとは思えないわ」
少し近づいた。
「そして最近、あなたは死の意味について考え始めた。考えれば考えるほど好奇心が強くなって、ついにはそれを試して、この人生を終わらせたいと思うようになった」
彼の目を見た。
「時が経つにつれ、死への恐怖はどんどん薄れていった……ついには、まったく恐れなくなるところまで来た」
微笑んだ。
「当たってる?」
彼は答えなかった。
「あなたの今までの人生、すべて話したわ」
そして付け加えた。
「奥さんのことだけど……あなたは自分が年を取っているから嫌われていると思って、彼女に近づかないのね。結婚したあの時から今まで、彼女を哀れんでるの」
止まった。
「私の言ったこと、全部本当? ねえ、教えて」
大きく微笑んだ。
「教えてよ」
マルスの目は見開かれていた。
拳を強く握りしめ、手のひらから血がにじんだ。
女は嬉しそうに言った。
「やった! じゃあ当たってたのね! 正直嬉しいわ。みんな私には当てられるって言ってくれてたけど—」
突然……
マルスは彼女の首を掴んだ。
「ぐっ……」
女はもがき始めた。
「や、やめて……離して! お願い!」
マルスは彼女を睨みつけた。
「どうして全部知ってるんだ?」
そのとき、パトカーのサイレンが聞こえた。
誰かが通報したのだ。
マルスは女を放して走り出した。
パトカーが後を追った。
マルスは全力で走り、建物の間の狭い路地に入った。
パトカーが止まり、警官たちが降りて追いかけてきた。
マルスはゴミ箱を掴んで道に倒し、邪魔をした。
警官の一人が叫んだ。
「反対側から回り込め!」
別の警官が脇道から飛び出してきた。
だがそこに辿り着いた時……
マルスはすでに姿を消していた。
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NOXARの支社の一つ — 東京
しばらくして、マルスはNOXARの支社の一つに辿り着いた。
ドアを開けて中に入った。
中はゴミ捨て場のようだった。
従業員たちは疲れ果て、電話は鳴り止まず、顧客は怒鳴り、ある従業員は電話越しに顧客に怒鳴り返していた。
マルスは真ん中に立った。
「黙れ!」
一瞬で静まり返った。
従業員たちが彼の周りに集まった。
「マルス、何が起きてるんですか?」
一人が前に出た。
「いらっしゃいませ、社長。正直、部長に三日間連続で働かされて、顧客からの苦情がひどいんです」
「部長はどこだ?」
「正直……自分の部屋にいます」
「抱えてる仕事を片付けたら、家に帰れ」
従業員たちは驚いて彼を見た。
「本当ですか? ありがとうございます!」
マルスは最上階へ上がった。
そこに部長の部屋があった。
ドアを開ける前に、中から女の子の悲鳴が聞こえた。
「マルス、あの野郎!」
急いでドアを開けた。
一瞬固まった。
部長は従業員の一人と親密な行為に及んでいた。
女の子は彼を見た途端悲鳴を上げ、体を隠して部屋から逃げ出した。
マルスは怒りに満ちた目で部長を見た。
「この……!」
部長は怯えて言った。
「いらっしゃいませ、社長。正直、なぜ今日いらしたんですか?」
「この状況でそんな質問をするのか? ここで今すぐ殺されたいのか?」
「な、なんですって?! 冗談でしょう、社長。ハハ……とても面白いです」
マルスは銃を取り出し、彼に向けた。
「冗談だと思うのか? この銃が冗談かどうか、試してみるか?」
部長は震え始めた。
頭を下げた。
「本当に申し訳ありません! 殺さないでください!」
「出て行け。お前はクビだ。二度と顔を見せるな」
「は、はい! 申し訳ありません!」
部長は部屋から走り去った。
外から、女の子の悲鳴が聞こえた。
「キャアアアア!」
マルスはため息をついた。
「まったく面倒だ……また新しい部長を探さなきゃならない」
そして付け加えた。
「この件はライガさんに任せよう」
死への好奇心
マルスは窓の外を見つめていた。
東京の街は、いつもと変わらず動いている。
人々は歩き、車は走り、誰もが自分の人生を生きている。
マルスは小さく息を吐いた。
「……死、か」
あの女の言葉が、頭から離れなかった。
自分の過去を、まるで最初から知っていたかのように語った女。
偶然にしては、知りすぎていた。
だが、今のマルスには、それを考えている余裕はなかった。
机の上に置かれた一枚の書類へ視線を落とす。
そこには、NOXARの新薬に関する報告書があった。
マルスはしばらくそれを見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……面白い人生になりそうだな」
その笑みの奥には、先ほどまでとは違う何かがあった。
死を求めていた男は――
まだ、自分の知らない未来へ向かって歩き始めたばかりだった。
そして彼はまだ知らなかった。
この日を境に、自分の人生だけでなく――
東京そのものの運命さえも、大きく変わっていくことを。




