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過去

カリル社の資料室で、腐敗の進む油田に関する資料を調べていたロイ。だが、あの油田だけ資料があまりにも少なかった。アミーラに聞いてもその理由が判然としない。

そんな時、不意を突かれたロイは覆面の男達に拉致されてしまう。

2 過去


 この日、ロイはカリル社の資料室で穏やかな午前のひと時を過ごしていた。アリが撃ち落とされた無人機のデブリに当たって死んでから、いくら腕利きの傭兵が居るとは言え、外へ出るのが些か怖くなっていた。それに、自分が狙われて誰かが巻き込まれてしまうなら、極力外へ出ずにできる事をした方が良いのではと思ったのだ。

 カリル社の歴史は思っていた以上に古いようだが、急速な腐敗が最初に確認された油田は、その中でも比較的最近掘り出された場所だった。

「……当初の地質調査では、特に問題はなさそうだな」

 誰が答えるでもなく、広い資料室に立ち並ぶ本棚たちが、その呟きを聞き届ける。この高い天井の下にロイ以外誰も居ないのではない。レイラが一人、今は閉じられている入口の傍で壁を背に立っていた。資料室の外には彼女の仲間が待機しているはずだ。

 ロイは壁際に立つレイラを一度覗き見たが、すぐに資料へ視線を戻す。その視線に気付いたようで、レイラは黒いヒジャブの下で目を上げた。

「どうかした?」

 意外にもレイラの方から質問が飛んできて、ロイは資料にメモ用紙を挟んで机に置く。

「いや、ずっと立ったままで疲れないかと思ってね。この建物の中は安全だろうし、君達も少しは休憩した方が良いんじゃないか」

 するとレイラは僅かに首を傾げて言った。

「見られているのが嫌? だったら外へ出るわ」

「嫌ではないけど、気にはなるかな。立たせてるようでね」

「問題ないわ」

「そうか」

 そう言うとロイは席から立ち、机を挟んで向かいにある椅子を引いた。

「じゃあ、座るのも問題ないかな?」

「…………」

「立ってるより簡単だろ?」

「……ええ」

 レイラはしっかりとした足取りでロイが引く椅子の方へやって来て、静かに腰を下ろす。それを見届けて、ロイも再び席について資料を広げた。

「きっと今日か明日には、あのチョコ田で地質調査が行われる。それで何か見付かってくれれば良いんだけどな」

 向かいから何も返って来ないので、ロイは顔を上げる。目の前のレイラは、机に広がっている無数の資料を不思議そうに眺めていた。

「何か気になる事でもある?」

 ロイが言うと、レイラはヒジャブの下で首を振る。

「いいえ」

「……そうか」

 その時、高い電子音が資料室の静寂を揺らした。レイラはポケットから携帯端末を取り出して電話に出る。ペルシア語で何やら口早に話しているが、ロイには何の話をしているのかさっぱり分からなかった。

 通話はすぐに終わり、レイラは端末を再びポケットに戻す。

「何かあったのか?」

「社長が撃たれた」

「何だって!?」

 思わず立ち上がったロイとは対照的に、レイラは落ち着いた様子で座っていた。

「大丈夫。命中しなかったから」

「じゃあ、怪我はしてないんだな」

「ええ」

「いったい誰に撃たれたんだ?」

「社長の敵よ。この辺りにはたくさん居るから」

 ロイは一先ず胸を撫で下ろして椅子に戻る。自分が狙われた時もそうだったが、いったい誰に攻撃されているのだろう。敵が多いと言うが、まさか四面楚歌ではないだろう。

「その敵って、具体的にどう言う勢力なの?」

「政府の中の反対派、イスラム過激派、競合他社。大きく分けるとこの三つね」

 レイラの答えは、要するにこの地域の殆どだった。ロイは頭を抱え、地下より気が重い地上の問題を掘り下げる。

「政府の反対派って言うのは、カリル社長が財力にものを言わせているのが気に入らないんだろ。ただの権力争いか?」

「まあ、そんなところ」

「イスラム過激派は? 何か恨みでも買ったのか?」

 するとレイラは自分のヒジャブを指さした。

「社長は自由過ぎるわ。彼女自身はイスラム教を信じていないけど、この国では女がしなければいけない事は厳格に決まっているの」

「なるほど。決まりに従わない上にそれが影響力の強い人間だから、なおさら反発力も強いわけだ。競合他社は? 確かにこの周辺は昔から石油産業で潤ってきたが、どの会社もそれなりに地下資源を持っているんだろ?」

「彼らはチョコレートを取り合っているだけではなくて、カリル社の技術を得たいのよ。だから脅迫しているの」

「……はあ、そうか」

「チョコレートソースを燃料にできるのはカリル社だけではないけど、それでもここが一番先を行っているから」

 壁のように四方を塞ぐ資料の山を眺めながら、ロイは希望がほぼない疑問をレイラに投げた。

「カリル社長は技術の一部でも良いから、他の企業に提供しようとは思わないんだろうか。エネルギー危機に瀕しているのは全人類の問題なんだから」

 レイラの回答はやはり単純明快だ。

「思わないでしょうね」

「……だろうね」

 これ以上、地上の問題について掘り下げても余計に頭が重くなるだけだ。ロイは気を取り直して資料の群れと再び向き合った。

 気が付いた事があった。カリル社自体はここイランの地で石油産業を展開すること、百年近く経つ老舗だ。それなのに例のチョコ田がある場所に関する調査結果や発掘前の情報が殆ど見当たらない。あそこを開拓する前は、他の地域の油田の方が盛んに採掘されていたようだが。

「レイラ」

 ロイの作業を黙って眺めていたレイラは、何も言わずに視線だけ寄越す。

「君は親やその前もずっとこの国に?」

「ええ。そう聞いてる」

「昨日僕たちが見に行ったチョコ田は、採掘される前は何があったの?」

「さあ、知らない」

「そうか……。あの場所に関する情報が無くてね」

「何も無い場所だったから、情報も無いんじゃないの?」

「確かに」

 そうは言ったものの、ロイの疑問は消えなかった。何も無かったなら、何も無かったと言う記録があっても良いものだ。それすら無い。

「よし」

 分厚い本を閉じ、ロイは意を決した。レイラはそれに合わせて顔を上げる。

「社長に訊こう。それが一番早い」


 アミーラは本社の社長室で巨大な窓のブラインドを閉めた。今日の日差しはいつも以上に鋭い。まだ日が高いからこそ、こうして遮ってしまいたい時がある。

 薄暗い部屋の中で、明かりも点けずに革張りの柔らかな椅子に身を沈める。束の間の静寂の中、アミーラは天井を見上げて息を吐いた。

 その時、分厚いドアをノックする音が三度響く。

「はい」

 気の抜けた返事をすると、ドアの向こうに居る秘書は控えめに言った。

「社長、ストローム様がお話したいとの事です。いかがなさいますか」

 アミーラはもたれていた体を起こして立ち上がる。

「良いわ、入れてちょうだい」

 そう言うなり、一度締めたブラインドを開ける。眩しいほどの日差しが再び広い社長室を照らした。

「社長、戻ったばかりで、すみません」

 秘書に案内されて入って来た北欧人は、体格のわりに今日も温厚な目をしている。

「良いのよ。資料を見てもらって何かあったかしら?」

「それもそうなんですが、まず、お怪我は? 銃撃されたって聞きましたよ」

 アミーラはロイにソファーを勧めながら、自分もその向かいに腰を下ろした。

「ああ、大丈夫よ。よくある事だから。もしも調査過程で私が死んでも、あなたへの報酬はきちんと払うから安心してちょうだい」

「いや……報酬とかじゃなくて、無事で何よりです」

「そう? ありがとう。それで、ご用件は?」

 アリが死んだ時の反応も、ロイにとっては受け入れ難いものだった。だが、この女は自分の命が狙われても同じ反応だ。

 ロイは気を取り直して本題に切り込む。

「資料室を見せて下さってありがとうございます。それで気付いたんですが、例のチョコ田、あそこの資料が少ないですね」

「あそこはうちの所有する油田の中でも新しい場所だからね」

「あそこで最初に原油が採掘されたのは、先代が若い頃ですね」

「そうらしいわね。その頃はまだ原油だったけど」

「あそこは、原油を掘り当てる前は何があった場所ですか」

「さあ、特別何かがあったとは聞いていないわね。何も無かった場所かしら」

 ロイはアミーラの黒い瞳を真っ直ぐ見た。

「他の油田やガス田は、何も無い場所だったとしても、いつ誰からいくらで買ったか、交渉担当者まで詳細に記録されています。それなのにあの場所だけ何も無い。もしかして、何か公にできないものがあったとか?」

「さあ、私は何も聞いていないわ。もしもそう言う過去があったとしても、父が隠していたのね」

「そうですか、分かりました」

「そう言えば……」

 アミーラは足を組み直してロイをじっと見る。

「地質調査の件だけど、まだ業者が見付からないのよ。ごめんなさいね」

「カリル社で普段から依頼している業者は居ないんですか?」

「居るんだけどね、どうも多忙らしいの」

 一日でも早く中東から出て行きたいロイにしてみれば、地質調査の業者が見付からないのでは困ってしまう。これが無ければ話が始まらない。

「ボーリングの機材はありますか」

「もちろん、うちでも持ってるわよ。ただ、今は扱える担当者が居ないの。いえ、実は先日亡くなったアリが担当者だったんだけど」

「……惜しい人を亡くしましたね」

「今思えばそうね」

 雑談の返事でもおかしくないほど軽い口ぶりのアミーラ。ロイは一度小さく咳払いをして、居住まいをただした。

「僕が操作できます。あとはアシスタントを一人か二人付けて下さい。そうすればすぐにでも調査できますよ」

 アミーラは煌びやかな宝石にも負けないほど華やかな笑みを寄越す。

「それは朗報ね! さっそく手配するわ」


 テヘランにあるカリル社の本社ビルを出たロイは、通りで待っているレイラ達の車へ向かって歩き出した。車は自動ドアを出てすぐの所に停めてあるので、レイラが付いて来ると言ったが、ロイは断っていた。どこへ行くにもぴったりついて来られても窮屈だし、ほんの数メートルの距離を一人で移動できないようではトイレにも行けない。

 路肩に停めてある頑丈な黒塗りの車に向かって歩くロイ。人波を縫って車道へ到達したその時、目標の車のすぐ後ろに一台の車が猛スピードで入り込んだ。いったい何事かと思う間もなく、急停車した車から飛び出した男に、ロイは車中へ引きずり込まれる。

 ロイの足がまだ車外にある内に、車は急発進して再び猛スピードで走り出した。レイラ達の乗る車が動き出す中、通りを行く車の流れを縫って転回し、傭兵たちを尻目に走り続ける。

「な、なんだ……!」

 漸く声を発したロイに、暗い車内で覆面を被った男が言った。

「大人しくしてろよ、先生」

「……いったい何なんだ」

「うちの長老が、あんたに訊きたい事があんだよ。その前にあいつらを撒く」

「長老……?」

 どこの誰かも分からない覆面の男。もしかするとアリを殺した無人機を送り込んだ輩かもしれない。ジープ型の車で後部座席にはロイと覆面の男が二人。助手席にも一人乗っており、四人組の男達だ。窓がシートで覆われており外が見づらいが、車のスピードからしても追われている事に間違いないようだ。ロイにはレイラ達が何とか追いついてくれる事を祈るしかなかった。訊きたい事があると言っているのですぐに殺されはしないだろうが、どんな目に遭うかは分からない。

 追跡から逃れるため、車は大きく蛇行する。これまでは他の車が鳴らすクラクションやブレーキ音が聞こえていたが、徐々にその音も聞こえなくなっていた。どうやら市街地から遠ざかっているようだ。外が見えづらい上にロイはこの土地の地理が分からないため、自分がテヘランからどれだけ離れてどこへ向かっているのか全く見当が付かなかった。

 それから暫く走り、車は落ち着いた走りを取り戻していた。まさかレイラは諦めてしまったのかと、ロイは不安気に窓の外を覗き見る。だが、シート越しに薄暗い外界には、希望の光となるような光景は無かった。その代わり、埃っぽい道の両端に今にも崩れ去りそうなあばら家がいくつも建っている。

「ここはどこなんだ」

 ロイは機関銃を抱える覆面の男に、思い切って疑問を投げた。黙れと言われるかと思っていたが、男は意外にも素直に答える。

「俺達の街だ」

 ロイは改めて外の景色に目を凝らした。ここは言わば、スラム街だ。


 レイラは仲間のドローンが上空に現れたのを確認し、極力自然な形で追跡を諦めた。追った先で敵がどんな備えをしているかも分からない。そんな状況で深追いするのは危険だと判断した。どのみち、ロイを拉致すると言う事は彼から聞き出したい情報があるからだろう。それならロイがすぐに殺される事は無い。まずはドローンで敵の潜伏先を知る必要がある。

「レイラ、分かったぞ」

 車内に備え付けられているモニターを仲間の一人が示した。そこには男達を追跡したドローンが撮った映像と、位置情報が表示されている。

「郊外のスラム街だ」

「…………」

 画面を見つめるレイラの瞳は、いつもと変わらず静かだった。

「大した装備も無いくせに、思い切った事をする奴らだ」

「ええ、そうね」

「俺達だけでも行けるが、行くか?」

 レイラは男に頷いて、表示されている地図の一角を示す。そこは目標のスラム街へ続く道だった。

「いったんここへ着けて。私が交渉へ行く。三十分経って戻らなければ、突入して」

 仲間の男は不可解そうにレイラを見る。ヒジャブに覆われた顔は、真っ黒い目しか見えなかった。

「一人で行くのか?」

「貧民街で銃撃戦をすると、また政府の役人が騒ぎ立てるでしょ。金を出すと言えば穏便に片付くかもしれない」

「社長が許すかな」

 するとレイラはヒジャブの下から男を見返す。その眼は静かながら、確固たる意志を持っていた。

「ここのボスは私よ」


 車から降ろされたロイは、男に引かれながらスラム街を進んで行く。車を降りて最初に感じたのは、吐き気を催す腐臭だ。これはカリル社のチョコ田で嗅いだ腐臭を何十倍にも強くしたようなものだ。

 あばら家の影から痩せた人間が所々で顔を覗かせている。ロイを見る目は、好奇心でも不安でもない。ただの絶望のみだった。

「臭えだろ」

 ロイを引っ張っている覆面の男が、あっけらかんとした声で言う。

「え、ま、まあ」

 そんな返事しかできなかった。ロイも英語は母国語ではないが、この男の英語もそれなりに訛っている。

「安心しろ。生きたまま首を切り取ったりしねえよ。うちの長老があんたと話したいんだと」

「……なるほど」

 男がロイを連れ込んだのはスラム街の一角にある、比較的まともな造りの小さな家だった。埃っぽい空気とチョコレートの腐臭は変わらないが、風が吹けば崩れそうなほど荒廃していない。コンクリート製の外壁は、かなり傷んで土壁のように見えた。窓は無く、その代わりに壁の一部が崩落して風通しが良くなっている。

 小さな家の正面に取り付けられた扉は金属製だが、錆びて色褪せている。強く扱えばそれだけで外れてしまいそうな扉の前で、男は中の人物へ声をかけた。

「連れて来ました」

「入れ」

 短い返答を受け、男は慎重に扉を開ける。ロイは逃げ場がない中で、扉の奥に広がる薄闇に目を凝らす外なかった。壁の穴から光が射していて、スポットライトに照らされるように小柄な老人が浮かび上がる。

 男はロイを振り返り、顎先で家へ入るよう示した。ロイは薄闇の老人から目を逸らさないように、慎重に踏み込んだ。床には古びた絨毯が敷いてあり、老人はその上に腰を下ろしている。

「座ってくれ」

 枯れ木のような手が床を示して老人が口を開いた。老人の言葉はロイには分からなかったが、すかさず覆面の男が通訳する。

 絨毯の手前で靴を脱ぎ、ロイは静かに腰を下ろした。この際、ズボンの汚れなど気にしていられない。目の前に座る老人は、長い髭の下で言葉を送り出す。古びた置物にも見えそうな老人だが、その声ははっきりと通る芯を持っていた。

「乱暴な事をしてすまないね。カリル社に外国から調査員が来たと聞いて、話をしなければならないと思ったもので」

「チョコレートの腐敗の事ですか」

 老人は壁から洩れる光の中で大いに頷く。

「そう、まさにその通りだ。ここへ来て最初に鼻につく臭いがしただろう」

「はい」

「ここは、以前の政権に迫害された人々の街なんだ。政権は変わり、漸く我々にも自由がもたらされるかと思ったが、そうではなかった」

「カリル社の専横ですか」

 老人は無言で頷く。

「申し訳ないですが……チョコレートの腐敗を調査しに来ただけの僕に、カリル社の権力をどうこうする事なんてできませんよ」

 覆面の男を通してロイの言葉を聞いた老人は、薄闇に光る眼で目の前の北欧人を見返していた。

「いや、あなたはそうせざるを得ない」

「……なぜ?」

「あの女は、いずれあなたの故郷にも手を伸ばすからだ」

「お気遣いは有難いですが、ノルウェーでは石油危機以降、政府がエネルギー資源を厳しく管理しています。そこにカリル社が入り込む隙などありませんよ」

「あなたはあの女の欲深さを知らない。アミーラ・カリルの父は、石油危機で廃業に追い込まれそうになった同業者達を強引に吸収し、彼らの資産である油田やガス田を奪い取った。その手法は娘の代でも変わらん」

「ですが、それはイラン国内や中東地域の話です。そこから北欧へ飛躍するのは無理がある」

 老人は、生気は無いが信念だけが燃え滾る眼を上げる。その視線の先を見た覆面の男は、そこで初めて覆面を取り、部屋の隅にある金庫の中から何やら古びた紙を取り出した。

「これは?」

 男から紙を手渡されたロイだったが、全てペルシア語で書かれているので読めない。

「腐敗する油田だ」

 老人の返答に、ロイは改めて手元の資料を見た。字は読めないが、写真を見る限り確かに油田に関する情報のようだ。

「そこは開発してはいけない場所だった。だが、カリルは禁忌を犯して原油を掘り出してしまったんだ。私は当時、奴を止めたよ。だが、奴は金に目がくらんでいた。あの油田から腐敗が始まったのには、私は訳があると考えている」

「あなたは、先代のカリル社長と一緒に仕事を?」

 老人は深く頷いた。こんな場所に押し込められているせいなのか、あのアミーラの父親とこの老人が同年代とは思いもよらない。

「あの油田には、どんな禁忌があったんですか」

 資料の写真を見る限り、何かの跡地のようだ。だが、何の跡地なのかは写真だけでは分からない。

「あそこは、かつて政府の核開発施設があったのだよ」

「……核施設が」

「アメリカによって我が国の核開発が抑制されたのは、もう何十年も前の話だ。あの土地にあった核施設はその時に取り壊された。ウランなどの放射性物質はアメリカが持って行ったが、あの土地自体が既に汚されていた」

「先代はそこを掘った。そして原油がチョコレートソースに変わり、今になって他の場所では見られない異常現象が起きている……」

「そうだ」

 ロイは資料の写真を見ながら言う。

「それで、あなたは僕に何を要求するつもりですか。カリル社にあの油田を放棄させるとか?」

 すると老人は首を振ってロイを見返した。

「いや、違う」

「……では何を?」

「腐敗を広げてくれ。そうしてカリル社を潰すんだ」

 思ってもみない要求に、ロイは資料を老人の方へ突き返す。

「そんな事をすれば、世界中に影響がある。カリル社だけの話ではないんですよ」

「大丈夫、人間はどうにかして生き残るさ。石油危機の時もそうだっただろう。石油に頼らないエネルギーも多く生まれている。あなたが危惧するほどの影響はないさ。だが逆にあの女の好きにさせておけば、破壊の波が更に広がって行くことになる」

 その時、家の外が騒がしくなった。通訳をしていた男が素早く扉を開け、外へ出て行く。ロイは自分を助けるためにレイラ達が来たのかと、咄嗟に立ち上がった。

 男は機関銃片手に飛び出したが、まだ銃声は聞こえない。その代わり、大勢のざわめきと怒声が飛び交っている。

 開け放たれた入口から少しだけ顔を覗かせ、ロイは外の様子を確認した。

 機関銃を手にする男の向かいに、女が立っている。やはりレイラだった。レイラはいつもの機関銃を持たず、ホルスターに拳銃が一丁あるだけのようだ。それにも関わらず、機関銃を向ける男を前に表情の無い目をしっかりと前に向けている。

 これまで人気が無く静かだったスラム街にどこからか人が出て来て、物陰や道端から珍しそうにレイラを見ている。家の中まで聞こえた怒声は、どうやら彼女に向けられていたようだ。

「……レイラ」

 男が呟いた名前だけはロイにも聞き取れた。

「よく戻って来れたな。ここの臭いが嫌で出て行ったんじゃねえのか」

「…………」

「何とか言えよ。臭過ぎて口も開けねえか?」

「北欧人を迎えに来た。銃撃戦はお互いに望んでいないはずよ。さっさと身柄を返して」

「安心しろ、俺達はお前らとは違う。簡単に人殺しなんかしねえ。これは護身用だ。あの調査員もぴんぴんしてる」

 そう言うと男は家の方を振り返ってロイを呼び出す。

「おい、迎えが来たぞ」

 ロイは身の安全を確信して外へ出た。そこで改めてこのスラム街の住人達を見たのだが、誰もが鋭い目でレイラを睨んでいる。レイラはヒジャブの下で無表情な目をこちらに向けたところだった。

「ロイ」

「僕は無事だ。来てくれて助かったよ」

「無事で良かった。帰りましょう」

 ロイの腕を引いて歩き出すレイラ。その背中に、さっきの男が何か叫んだ。

「帰ったらあの女に伝えてくれ! いつも美味しいチョコレートをありがとうってな!」

 何を言っているのかロイには分からなかったが、レイラは一瞬小さな息を吐いて、変わらず早足でスラム街を出て行く。


 スラム街を出た二人は、車を待たせている通りまで歩いていた。あの油田が核開発施設の跡地に掘られたものだと言う情報もロイにとっては頭を悩ませるものだが、スラム街の人々がレイラに向かって投げた視線や怒声の意味も気になる。だが、訊いても良いものなのか分からず、ただ黙ってレイラの後ろを歩いていた。

 その沈黙を破ったのはレイラ自身だった。

「……彼らが私に何を言っていたのか気になるでしょう」

「え……ま、まあ。良い事ではなさそうだったけどね」

 レイラは振り返らずに淡々と続ける。

「私はあの街で生まれた。昔から貧しい場所で、カリル社はランクの低いチョコレートソースや腐敗のせいで売り物にならないソースをああいうスラムに安く売りつけるの。彼らが買えない時はただで置いて行く事もあるわ」

「ただで? それは慈善事業ではないよね?」

「ええ。燃料として掘り出したチョコレートソースの廃棄にはお金がかかるから、体の良い不法投棄よ。低ランクのチョコレートでも直接燃やして使う事ができるし、最悪、餓死するくらいなら食べる事もある。彼らの弱みを社長は知っているから。でもそのせいで病気になる事もあるし、麻薬みたいなものね」

「そんな事をされて、それでも君はカリル社に雇われる道を選んだわけか。それであそこの人達は君を……」

「嫌ってる」

「ま、まあ、そう。嫌ってる」

 レイラがあまりに平然と話すので、ロイはさっきの疑問を口にした。

「あの男は、君に何て言ったの?」

「いつも美味しいチョコレートをありがとうって社長に伝えろと言われた」

「ああ、なるほど」

「その通り伝えるわ」

「……うん」

「あなたはあそこで何をされたの?」

 ロイは口を開いたがすぐに言葉を呑み込んで、改めて話す。

「何をされたと言うより、話を聞いただけだよ。カリル社が如何に酷い会社かってね」

「それで? 何を要求された?」

「会社を潰せと言われた。でも断ったよ。いや、断るしかない。そんな事、僕にできるわけがないんだから」

「そうね」

「そうさ」

 それから少しすると、周囲の景色に近代的な建物が混じるようになってきた。車を待たせている場所もそう遠くないはずだ。

「なあ、レイラ」

 ロイは前を行く黒い背中に声をかける。歩みを止めないまま、レイラの声が戻って来た。

「なに?」

「君は、どうしてカリル社で傭兵をしているんだ? やっぱり、チョコレート・バレルのためなのか?」

 すると、レイラが急に足を止めた。それに合わせてロイも立ち止まる。振り返ったレイラは、いつもの黒い瞳でロイを見上げた。

「そうよ。前にも言ったでしょ」

「そんなに金を手にして、いったい何に使うんだ? 君が社長のように煌びやかに着飾っているとは思えない」

「そんな事を知ってどうするの? 私が何のために傭兵をするかなんて、あなたに関係ない」

「……それはそうだ。ただ、君はあの街の人々を攻撃しなかった。自分の過去を呪って金に執着しているようには見えなかったんだ」

「あそこには知り合いがたくさん居るから」

「もしかして君は、あの街を作り変えたいんじゃないのか?」

 レイラが初めて、はっきりとした瞳をいっそう大きく開いた。

「そのために、悪徳と分かっていてもカリル社に飛び込んだ。あそこは一番稼ぎが良いから」

「あなたには関係の無い事よ」

 再び歩き出すレイラ。その足取りはさっきより何歩も速かった。ロイは小走りでそれを追う。

「じゃあ君は、あの腐敗の油田の過去を知ってるのか!?」

 レイラは立ち止まった。

「……過去?」

「知らないのか」

 黒い瞳が、アイスブルーの瞳を真っ直ぐ見上げる。

「過去って何の話?」

「いや、君には関係の無い事だ」

 そう言ってロイはさっさと歩きだした。もう通りの先に、いつもの黒塗りの車が見えているから。


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