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ソース

三十年前、世界中の原油が思いもしない物質に変わった。それは、チョコレートソース。世界中の誰もその原因が分からない中、中東の石油業者であるカリル社はチョコレートソースを燃料にする技術を確立させる。

そんなカリル社が実権を握るイランで、チョコレートソースに異変が起きていると言う。調査依頼を受けた地質学者のロイは、カリル社の女社長であるアミーラに招かれ、中東の地を踏むのだった。

1 ソース


 乾いた大地一面に広がる甘ったるい匂い。その中に時折混ざる微かな腐臭。中東の地を踏んでまだ三日しか経っていないにもかかわらず、ロイはすっかり故郷の北欧が恋しくなっていた。

 中東の大手石油企業から招待を受けたのは一か月ほど前だった。今となっては貴重な乗り物となった飛行機に乗り込み、この太陽と砂の世界へやって来たのだ。

 ロイはアイスブルーの瞳には強すぎる日差しを帽子のつばで受け止め、乾いた大地に湧き出る茶色い液体を眺めた。見た目だけなら、きっと三十年前の油田とさして変わりない様子なのだろうが、明らかに変わった事がある。当時ロイはまだ五歳だったし、中東に来るのも今回が初めてだが、これだけは断言できた。

「どうかしら、ロイ? ここが我が社最大の油田よ」

 背後から聞こえた張りのある女の声に振り返るロイ。そこには護衛の傭兵に囲まれながら油田を一望する女が居た。眩しいほどの白のスーツに豪勢な宝飾品。緩やかな曲線が美しい長い髪は乾いた風に揺れ、タイトスカートからは均整の取れた美しい脚がすらりとのびている。

 女は長いまつ毛の下ではっきりとした黒い瞳を細めた。

「いえ、今やチョコ田とでも言おうかしら」

 その一言に、漸くロイの表情にも僅かな笑みが広がる。

「チョコ田……。上手く言いましたね、カリル社長」

「原油が出るなら油田、チョコレートソースが出るなら差し詰めチョコ田よ」

 ロイは再び広大なチョコ田を見渡した。人類の文明を支えるエネルギー源である原油が、三十年前に突然チョコレートソースに変わった。いったい誰がそんな奇妙な現象を予想していただろうか。預言者にさえ決して想像もできない珍事に違いない。

「私達は父の代からこの忌々しいチョコレートソースに苦しめられてきたけれど、漸くこれを新たな燃料として活用する方法を確立したわ。それはあなたも知っているわよね」

「もちろん。イランのカリル社と言えば業界随一の大企業ですから」

 ロイはチョコ田に立ち並ぶビームポンプがせわしなく動き続けるのをじっと見ていた。このチョコ田だけでも数えるには気が遠くなりそうな数のビームポンプが立ち並び、その他にもガス田もあると言う。原油が突如としてチョコレートソースに変わり、世界経済が瓦解した後、このカリル社がもはや政府をも上回る勢いでイランと言う一国を呑み込んだ事にも納得がいく景観だ。

 その巨大企業の頂点に立つのが、先代の娘であるアミーラ・カリルだ。

 ロイは自分と大して変わらない年頃の女を振り返る。純白のスーツは清々しいが、甘ったるい匂いに包まれた彼女の周囲には、武装した傭兵が何人も居並んだ。

「ロイ、昨日はガス田を見てもらったけれど、今日はこの後、チョコレートソースの精製工場へ案内するわ。そこで今回あなたを招待した理由の子細を話すわね」

 帽子のつばを少しだけ上げて、ロイはアミーラに笑みを向ける。

「聞くのは少し怖いですが」

「大丈夫よ。取って食べたりしないわ」


 チョコレートソースは、冗談でもなく、比喩でもなく、誰がどこからどう見ても完全なチョコレートソースだった。舐めれば甘いし、場所によってはほんのり苦い。

 ロイの故郷である北欧でも原油が突然チョコレートソースになると言う現象は同じだった。だが、中東に来て目にしたチョコレートソースとは形態が違う。気温の影響で北欧は石炭のように硬い物が大半なのだ。そのおかげで空気が甘ったるい匂いに占拠される事は無い。

 アミーラに案内されてビートル並みの防弾車に乗り込んだロイは、カリル社のチョコレートソース精製工場へ来ていた。

「こっちよ」

 車を降りたアミーラは巨大な精製工場の自動ドアを潜る。この精製工場は外から見ればまるで食品加工工場だ。建物の内部も隅々まで清潔感に溢れ、従業員も一般的な工場の作業着ではなく白いユニフォームに頭髪の混入を防ぐためのキャップまで被っていた。

「この精製工場を外部の人間に見せるのはあなたが初めてよ、ロイ」

 広々とした明るい廊下を進むアミーラ。ロイはその後に続きながら、この後で自分に依頼される重要案件を思っては頭が痛くなるのを感じていた。

「そんな貴重なものを僕に見せて良かったんですか」

「それだけ今回のお話は重要なのよ」

 ロイは元々垂れ目な目じりを更に引き下げるようにして苦笑する。一方でアミーラは堂々たる足取りのまま、ガラスの向こうで行われている精製作業を眺めて行く。

「ここはチョコレートソースの等級を分別する行程よ。ここで最上級燃料であるスイート級、工業用のビター級、それ以下のロウ級に分けているの。こうした分類は北欧でも同じかしら」

「はい、そうですね。不思議な事に場所によってチョコレートソースの含有物が異なる。これは原油だった時と変わりません」

「そうね、本当に不思議だわ。そもそも人工物であるチョコレートが何故地下深くから湧いて出るのか。まあ、そんな事を考えても答えは出ないのだけど」

 それから少し歩き、ガラスの向こうに広がる景色が少し変わったところで再びアミーラが言う。

「さっきの場所で分類したチョコレートソースを精製するのよ。油分と糖分の多いスイート級は脂肪を分離してバイオディーゼルを作り、糖は別の場所にある発酵施設でアルコール燃料を作るの。ビター級も主にアルコール燃料に回されるわ」

「ロウ級は?」

「不純物が多くて利用価値の低い物ね。場合によっては発酵させてメタンを取るけれど、殆どが安価で貧困層に売り出すの」

「なるほど。無駄が無い」

 ガラスの向こうに広がる巨大な精製エリアを見ながら、ロイはただ感心していた。原油によって生かされていた人々が、突如として生きる術を失った。彼らが地球の恵みに縋り付く執念たるや、凄まじいものがある。

 アミーラは満足そうに頷いて、廊下の先にあるエレベーターに乗り込む。ロイもそれに続き、アミーラを取り巻いていた傭兵たちの内、二人がそれに同行した。

 エレベーターは精製工場の最上階に停まる。そのフロアは来客用の応接室があり、廊下にはカーペットが敷き詰められていた。アミーラは廊下を進んだ先の分厚い扉を開き、ロイを招く。

「どうぞ」

 応接間に入ったロイは、真っ先に広い窓から一望できる景色に目を奪われた。無数のビームポンプが上下するチョコ田。そして地下深くのチョコレートソースから湧き出るガスを集めるガス田。その両方を一望できるのだ。

「座ってちょうだい」

 アミーラにソファーを勧められ、ロイは静かに腰を下ろす。アミーラは青い空と茶色の世界を背景に、高級な革張りソファーに深々と腰かけた。

「さあ、さっそく本題に入ろうかしら」

 ロイは固唾を呑んでアミーラの次の言葉を待つ。ソファーテーブルを挟んだ先のアミーラはタイトスカートから伸びる脚を組み、自信に満ちた眼をロイに向けた。

「カリル社は、危機に瀕しているの」

「……え?」

 あまりに突拍子の無い言葉にロイは目を丸くする。ここまでカリル社の様々な施設を見て来たが、危機に瀕しているようすは無かった。ただ一つを除けば。

「気が付かなかったかしら。それとも北欧では無い現象なの? チョコレートが腐っているのよ」

 ロイは甘ったるい中に感じた腐臭を異様に思ってはいたが、気温のせいかと考えていた。

「確かに、腐臭が混ざっていましたね。でも気温が高いせいでは?」

「それもあるわ。でも、チョコレートの腐る速度が徐々に速くなっているの。気温は変わらないわ。原油がチョコレートソースになったおかげで世界中の誰もが車に乗ったり、そこらじゅうで戦争をしたりできなくなったから、地球温暖化は落ち着いたのね」

「それでも腐敗が速まっていると?」

「そうなのよ」

 チョコレートソースが腐る要因は殆どの場合が熱だ。他にも地中のバクテリアなども関わって来るが、直接土に触れる場所以外で急速に腐敗が進む事はあまりない。

「北欧では同じような現象はないのかしら」

「そうですね。北欧はそもそも気温も低いのでチョコレートソースの持ちも良いですし、土に触れる部分は温度が低く固まっているため、バクテリアの繁殖も遅いんです。その分採掘には労力がかかりますけどね」

「一長一短ね。でも、腐敗の進行は非常に由々しき事態よ。単に腐ればメタンが取れると言う訳でもないし」

「メタン菌は繊細ですからね」

 アミーラは頷いて脚を組みなおした。そして改めてロイに依頼内容を伝える。

「あなたにはその原因を見付けて欲しいのよ、ロイ」

「……原因ですか」

 まず、原油がチョコレートソースに変わるなどと言う奇想天外な事態すら解明されていないと言うのに、その上でチョコレートソースの腐敗が速まる原因を探すなど、どう考えても難題だ。ロイの表情にはその思考がありありと滲んでいた。

「北欧の地質研究者として石油業界ではあなたの名前を知らない人間は居ないのよ。そんなあなただからこそ、来てもらったの。今はここだけで起きている現象でも、いずれ北欧で同じ事が起きないとも限らないし。あなたにとっても損ではないはずよ」

 確かにアミーラの言い分は尤もだ。またいつチョコレートソースが変異するかも分からない世界なのだから。

 ロイは意を決する。どのみち、強硬派で知られるカリル社がここまで内部情報を晒した後に断れるはずもない。断ればここに居る傭兵によって砂漠の肥やしにされるだろうから。

「分かりました。ただ、現時点では調査にどれほどの時間を要するか、そもそも原因を特定できるのかは断言できませんが、それでも良いですか」

「ええ、もちろんよ。大問題ではあるけれど、だからこそ慎重に見極めて欲しいもの」

「……ところで」

 ロイは中東へ来てからずっと気にかかっていた事を口に出した。

「あの武装集団はいったい?」

 応接間の扉を挟むようにして二人の傭兵が立っている。その物々しい面子を示して、ロイは苦笑した。だがアミーラはいたって落ち着いた様子で笑い返す。

「ああ、彼らは見ての通り傭兵よ。北欧では燃料を巡る小競り合いは無いのかしら?」

「小競り合い……。いえ、ありません。石油危機以降、地下資源は政府が一括して管理していて、かつての石油業者は政府の傘下に入っているので」

「ここでは違うのよ。資金源を失った政府が堕落する一方で私達のような石油業者が急速に力をつけたの。そうね、言ってしまえば企業が国を動かしているのよ。当然、資源の奪い合いが起きるわ。ここでは銃撃戦も珍しい事ではないのよ」

「それで傭兵ですか……」

 ロイは壁際に建つ二人を改めて振り返った。彼らの持つ機関銃は、小競り合いと言う規模ではないように思える。言わば戦争だ。

「安心してちょうだい。あなたにも傭兵をつけるわ」

 そう言ってアミーラは一人の傭兵に声をかけた。

「レイラ」

「はい」

 鋭い返事と共に一歩前に出たのは、黒いヒジャブをしっかり巻いた女だ。戦闘服に防弾チョッキを着ける彼女の手にも、やはり機関銃があった。

「あなたのチームをロイに付けるわ。大事な客人よ。宜しくね」

「はい」

 ロイはソファーに座ったままレイラと呼ばれた女を見たが、ヒジャブの下には真っ黒な瞳以外何も見えない。しかもその瞳には今のところ何の表情も無さそうだった。

「彼女は優秀な傭兵だから、安心してちょうだい」

 ロイが不安そうに見えたのかアミーラは念を押すが、ロイの思考は別の場所で動いていた。

「いや、不安は無いと言えば噓になりますが……。彼女は随分若そうですね……」

「若くても腕は確かよ」

「そうではなくて、若い女性が傭兵を?」

 思いもしなかった問いを受け、アミーラは一瞬目を丸くしたが、すぐに楽しそうに笑う。

「そんな事を気にしていたの?」

「……まあ、はい」

「倫理的には問題でしょうね。でもね、この辺では少年兵なんて掃いて捨てるほどいるわ。さすがにうちでは未成年者を雇わないけど。レイラだって立派な成人よ。いくつだったかしら」

 すると黒いヒジャブの下から細い声が届いた。

「二十八です」

 アミーラは自信に満ちた笑みをロイに向ける。

「だそうよ」

 気は進まなかったが、ロイはとにかく頷くしかなかった。

「分かりました。宜しく、レイラ」

 黒い瞳は何も言わずに頷く。


 その日の夜、ロイはアミーラが用意したテヘランにあるホテルの一室で、眼下の夜景を眺めていた。

 かつて中東では、世界中がうらやむ原油大国が軒を連ねていた。偶然そこに国があったと言うだけで、地球が温めて来た資源を売って生きて行く事ができた。それと同時に、世界経済の生命線を自由自在に書き換える事もできる。そんな特権階級だったのだ。

 しかし、彼らの血液とも言える原油が、突然チョコレートソースなどと言う馬鹿げた菓子に変わってしまった。原因は未だに誰も解き明かせていない。きっとこの先も解き明かせる人間など出て来ないだろうが。

 ロイが高層階から見下ろす夜景は、暗黒の夜空に散らばる星をも暗ませるほどに明るい。アミーラが好んで着けている宝石類を何倍にもして埋め込んだように煌びやかだ。

「……早く帰りたい」

 まだ調査も始まらない内に、ロイはそんな本音を一人ぽつんと吐き出した。

 この街は眩しすぎる。

 命の源である原油を失った産油国は、軒並み経済危機に見舞われた。多くの国が再生可能エネルギーへの転身を図る中、イランのカリル社はチョコレートソースを新たな燃料にすると言う逆転の発想でいち早く再興を遂げる。その勢力はもはや一国を呑み込むほどになっており、今まさに輝きを増すテヘランの光を埋め込んできたのは、他でもないカリル社なのだ。

 昼間の強い日差しに加え、夜も眩しいほどの人工の光を受け、ロイの目は自然と暗所を望んだ。部屋の明かりを落とし、遮光カーテンを引く。一人では広すぎるベッドに転がり込むと、鼻にはあの甘ったるい腐臭が蘇った。

 暗い天井を見上げたまま、ロイは暫く仰向けに寝転んでいた。

 中東に来て三日だが、ここまでに好印象を持てたのは精製工場の清潔感だけだ。

 ふと、あの傭兵たちの事が気になった。自分を護衛すると言っていたが、いったい何が襲ってくると言うのだろうか。

「駄目だ、眠れない」

 ロイはベッドから起き上がって小銭を数枚持ち、部屋を出るべくドアの鍵を開けてチェーンを外す。廊下にあった自動販売機へ行こうと思って一歩踏み出したところで、驚きと共に足を止めた。

「うわ!」

 一歩出た先にあの黒いヒジャブの女、レイラが立っている。さすがに機関銃を抱えてはいなかったが、どう見ても拳銃を隠し持っているのが分かった。

 ロイの悲鳴に全く動じる様子もなく、レイラは徐に振り向いた。

「びっくりした……。居たのか」

「何か?」

「いや、何か飲み物を買おうかと思って」

「一緒に行く」

 レイラの申し出に、ロイはいったん言葉を呑み込む。そして改めて選び出した言葉を伝えた。

「いや、良いよ。それより、まさか君は寝ないでずっとここに立ってるつもりじゃないよね」

「交代の時間が来れば寝るわ」

「それを聞いて安心したよ。安心したら僕も眠くなってきた。おやすみ」

 レイラは何も言わなかったが、高級ホテルの廊下で傭兵と口を利いている自分を見られるのが嫌で、ロイは素早く部屋に戻る。

「はあ……いったい何なんだ」


 次の日、ロイはさっそくカリル社の油田もといチョコ田へ来ていた。ガス田よりも先にこちらへ足を運んだのは、あの腐臭が一番強く感じられた場所だからだ。そこで現場管理者の男から話を聞く手筈になっている。

 この日はビートルのような車ではなく、例の傭兵集団が持つ車に乗って来た。乗り心地は良くなかったし、物騒な連中に囲まれて来たせいで、ロイの目は帽子の影の下で更に暗く沈んでいる。

 そこへ、ビームポンプの群れを背景に一人の男がやって来た。

「ストロームさん! あんた、ストロームさんでしょ?」

 こちらに手を振っている男に、ロイも近付いて行く。その後にはしっかりレイラも続いていた。

「そうです! あなたが責任者の方ですか」

 漸く普通に会話できる距離にやって来た男。中年の小太りな男で、暑苦しい髭を顎いっぱいに蓄えている。

「はい、油田責任者のアリです。今日は腐る原因を調査にいらしたって聞きましたよ。宜しくお願いしますね」

「全力を尽くします。早速現場を見ても?」

「ええ、どうぞ」

 アリに案内され、ロイはチョコ田の中へ踏み込んで行く。並み居るビームポンプを縫って進み、広いチョコ田の中央付近までやって来た。そこでアリは足を止め、地面を数回足で踏んで見せる。

「ここです。我々もどのポンプが汲み上げた原油が腐っているのかまでは確認したんですがね、ここなんですよ。だからほら、今はこのポンプは動かしていないんです」

「なるほど」

 ロイは周囲の様子と見比べるが、地表から見た限りでは目立った異変は無い。

「ポンプを止めたら腐敗はどうなりました?」

「最初は無くなりましたよ。だからやっぱりここの地下で忌々しいチョコレートどもが腐ってるんだと思いましたね。そしたら他の場所でも同じ事が起き始めたんですよ。しかも、ここから離れた場所でね。近くなら地下で繋がっているわけだから納得しますがね」

「この周囲では腐敗していないのですか」

「腐敗の近くなので慎重に引き上げていますがね、今のところ無いのですよ。本当に不思議だ」

「……そうですか」

 ロイはしゃがみこんで乾いた土を手に取った。それを小さな容器に移し、アリを見上げる。

「地層の調査は?」

「それが、最初にここを掘り当てた時以来していないんですよ。まだちゃんとした原油が出ていた時代ですね」

「では、すぐにここと周辺数カ所、あと、腐敗が見られていない場所の地層検査をお願いします。サンプルが取れたら見せて下さい」

「分かりま……」

 アリが返事を言い切る寸前、頭上で盛大な爆発音がした。その上、爆風がロイの帽子を吹き飛ばす勢いで通り抜け、いくつもの金属片がビームポンプの林に点々と降り注ぐ。

 いったい何が起こったのかロイが認識するよりも早く、レイラがその腕を掴んで車を停めた方へ駆け出す。

「走って!」

 訳が分からず、ロイはさっきまで自分が立っていた場所を何とか視界に捉えたが、その一瞬の内に振り向いた事を後悔した。

 アリが死んでいた。空から降って来た何かの破片が、ちょうど彼の頭部を殆ど半分に引き裂いている。

「……な、何なん……だ」

「いいから、走って!」

 急速な吐き気を飲み下し、ロイはレイラに引かれながら一心不乱に走った。その間も、上空で再び爆発音がする。

 二人の目の前に、乾いた土を巻き上げながらここまで乗って来た車が急停車した。ロイはその中に押し込まれ、車はすぐさま発進する。

 胸が焼けそうなほど息を荒げていたロイだが、それでも何とか声を振り絞って隣に居るレイラに言った。

「何が……起きたんだ?」

 レイラはヒジャブの下で黒い瞳をロイに向ける。まるで何事も無かったかのように落ち着き払っていた。

「敵の無人機だわ。私達が撃ち落とした。デブリが当たったけど、あそこで撃ち落とすのが限界だった」

「アリが……死んでたぞ」

「ええ」

 ロイは固いシートにもたれて大きく深呼吸する。この事態を恐れているのは自分だけなのだろうか。レイラ以外の傭兵たちも朝会った時と何も変わっていない。

「人が、死んだんだぞ」

 それでも黒い瞳は同じ返事をした。

「ええ」


「ロイ、怪我はない? 調査初日からとんでもない目に遭ったわね」

 あの逃走劇の後、カリル社の資料室へ来ていたロイ。そこへ仕事の合間を縫ってアミーラが会いに来た。やはりいつもの自信に満ちた笑みを浮かべて。

「おかげさまで、怪我はありません」

 あの油田に関する資料を見ていたロイは、顔を上げて淡白に言った。

「顔色が悪いわ。今日は休んだ方が良いんじゃない?」

「もしかして、まだ聞いていませんか」

「何をかしら」

 ロイは分厚い資料を閉じ、机に置いて椅子から立ち上がる。

「あそこの責任者のアリが亡くなりました」

 アミーラは宝石の煌めきと共に大いに頷いた。

「知ってるわ。あなたが無事で良かった。レイラをつけて正解ね」

 困惑を深めるロイとは裏腹、アミーラはただ満足げに微笑んでいる。元来温厚なロイだったが、無性に我慢できない何かが込み上がって来て、気が付けば言葉が次から次に飛び出していた。

「確かに、レイラたちが居なければあの無人機は僕たちに直撃していたのかもしれない。ですが、理由はなんにせよ、人が死んでるんですよ。しかも彼はあそこがチョコ田に変わる前からカリル社のために働いて来た従業員でしょ? 悲しくないんですか」

 アミーラは目を丸くしてロイのアイスブルーの瞳を見返していた。まるで言葉の通じない人間のように。

「だったら何?」

「……は?」

「だったら何なのかしら」

「何って……」

「あの従業員が死んだのは不幸な出来事だったわ。でも、私たちにいったい何ができたと言うの? 責任を負うべきは攻撃して来た犯人よ。違う?」

「責任とか、そう言う話ではなくて……」

「ロイ、前に言った通り、ここでは小競り合いは日常茶飯事なのよ。もちろん、不幸にして死者が出る場合もあるわ。それでもポンプは動き続ける。太陽が東から昇って西に沈むようにね。それの何を悲しめと言うの?」

 返す言葉も無く、ロイは視線を床に落としたまま椅子に着地した。その肩にすらりとした手をそっと乗せ、アミーラは笑顔を落とす。

「あなたが彼に依頼した内容はレイラから聞いているわ。調査に支障は無いはずよ。引き続き、宜しくね」

 ハイヒールの音が遠ざかって行く。資料室のドアが閉まり、ロイはビームポンプの足元で無様に飛び散ったアリの頭を思い出していた。


 再び巡って来た夜。アミーラが言った通り、アリと言う一人の中年男が悲惨な死を遂げても、太陽はやはり西に沈んだ。

 ホテルの大きな窓からテヘランの夜景を見下ろすロイ。また眠れなかった。今日は眠るのが怖かったのだ。アリの死にざまが頭から離れないせいで。

「…………」

 アミーラは死んだ従業員の名前も知らないのだろう。気にもかけていない。彼には家族が居たのだろうか。子供は居たのだろうか。犬や猫を飼っていただろうか。誰かが彼の帰りを待っていたのではないだろうか。

 今日初めて会っただけの自分が、ここまで考えるのも馬鹿々々しく思えるほど、彼の事を思い返す人が見当たらない。

 ロイは財布から紙幣を取り出して部屋を出た。廊下に一歩踏み出すと、そこにはやはり黒いヒジャブの女が立っている。

「どこへ?」

「酒を買いに」

「イランでは酒は禁止されてるの。売ってないわよ」

「…………」

 暫く黙っていたが、ロイは重々しく頷いて部屋の鍵を閉め、廊下を歩き出した。

「じゃあコーヒーならどうだ? さすがにコーヒーは禁止されてないよな」

 足早に進むロイの後ろをレイラは急いで付いて行く。

「コーヒーはあるけど、お酒が好きならノンアルコールビールはどう?」

 ロイはまっすぐ前を見たまま足を止めた。ノンアルコールビールなど生まれてから一度も飲んだ事が無い。

「ノンアルコールビール……。それは美味いのかな」

 レイラはヒジャブの下で首を傾げた。

「さあ、知らない。飲んだ事ないから」

「じゃあ、お互いに初めてだね。試しに飲んでみようか。どうやら今夜は眠れなさそうだから」

 黒い瞳は少しの間迷っていたが、漸く首を縦に振る。

「よし、じゃあ決まりだな」


 レイラに同伴されながらノンアルコールビールを買い、ロイは暗い部屋のドアを開けた。電気を点けて中に入るのだが、レイラが居ない事に気が付いて再びドアを開ける。レイラは廊下に立ったままだった。

「何してるの? 入りなよ」

「仕事中だから」

「良いよ、そんな事。君が部屋の外に居ようと中に居ようと、やる事は変わらないだろ?」

「…………」

「飲まないの?」

 ロイは袋に入ったノンアルコールビールの瓶をレイラに見せる。レイラの目がまた泳いでいた。

「飲んだ事ないんだろ?」

「……じゃあ、少しの間だけ」

「そう言ってくれて良かったよ。僕も一人で飲むには気が重すぎる日だから」

 やっと部屋に入って来たレイラは、ロイに勧められて革張りの柔らかいソファーに腰を下ろした。背の低いテーブルには、さっき店で買ったノンアルコールビールの瓶が四本置かれている。

「あいにく、アラビア語は読めないんだ。母国語以外は英語が主でね。これはいったい何味なの?」

 差し出された瓶のラベルに目を通すレイラ。レイラもロイと同じで母国語以外は英語が主だった。地下に眠るチョコレートソースの研究のために多くの外国人が中東を訪れるようになった影響で、子供の頃から英語だけは何とか身につけてきた。

「これはレモン、こっちはアップル。それがラズベリーで、あなたが持ってるのがトロピカルよ」

「フルーツフレーバーのビールか。それも初めてだな」

 するとロイは不意にレイラのヒジャブを指さす。

「飲む時は外すの? 見ない方が良ければ巻き直すまで後ろを向いてるよ」

「大丈夫。顔の部分だけ解けば良いから」

 そう言ってレイラは顔の半分を覆っているヒジャブを少し緩めて下げた。ロイは初めて見る彼女の顔に、つい目を留めてしまう。

「どうかした?」

「……いや、何か印象が変わるなと思って」

「そう」

 返事はその一言だったが、レイラの目はいつもよりいくらか輝いていた。その視線は既にビールの瓶へ向けられている。それに気付いたロイは四本を並べて見せた。

「好きなのを取りなよ。僕はどれでも良いから」

「じゃあ……」

 レイラはラズベリー味の瓶に手を伸ばす。その後、ロイがレモン味を手に取った。

 栓抜きで蓋を開け、二人はそれぞれの瓶を口に運ぶ。お互い、初めての味に何やら不思議な心地で飲み進めた。漸く瓶を置き、ロイは読めないラベルを眺めながら難しい顔をしていた。

「うん……、これはジュースだ。ビールフレーバーのジュースだな」

 テーブルを挟んだ先のレイラは既に瓶の四分の三は飲み干している。

「凄い勢いだな……。喉乾いてたの?」

 瓶を置き、レイラは黒い瞳を輝かせていた。

「美味しい」

 これまで無感情な人形のようだったレイラが初めて発した人間味のある感嘆の声だ。それを聞いたロイは安堵の息と共に中東に来て初めての笑みを浮かべる。

「良かったね」

 レイラは急に恥ずかしくなったのか、視線を落として黙り込んだ。

「店には随分いろんな種類のが売ってたけど、君が飲んだ事なかったのは意外だな」

「……お金が無かったから」

「……そうか」

 今度はロイの目が泳いだが、レイラは構わずノンアルコールビールを飲み干す。そして空になった瓶を置いた。

「ねえ、お酒ってどんな味なの?」

「え? 味か……。種類によって全然違うから何とも言えないけど、アルコールが入ってる飲み物は、飲んだ時にもっと刺激があるんだよ」

「どんな刺激?」

「そうだな……熱くなるような、そんな刺激かな」

「そう」

 レイラの目が残りの二本に向いているので、ロイは優しい笑顔で二本とも彼女に差し出す。

「持って行きなよ。交代したら飲めばいい。僕はこの一本で充分だ」

「……でも」

「今日僕を助けてくれただろ。そのお礼だよ」

「……ありがとう」

「礼を言うのは僕の方だ」

 するとレイラはいつもの黒い瞳でロイの目を真っ直ぐ見据えて言った。

「眠れないのは、あの男が死んだのを思い出すからね」

「…………」

「忘れた方が良い。この先もきっと誰かが死ぬから」

「忘れられないよ。少なくとも今の僕にはね」

「忘れないと、チョコレートの前にあなたの神経が腐るわよ」

「はは、上手いこと言うな」

 レイラは残った二本のノンアルコールビールを袋に仕舞う。

「生きていればいずれ誰しも死ぬの。それだけよ」

 袋の中の瓶がぶつかり合って、甲高い音が何度か響いた。ロイは目の前の若い女を見返してその真意を確かめたかった。

「君は、どうしてそんな風に思えるんだ? 確かに、生まれれば人はいつしか死ぬ。でも、死に方ってものがあるだろ」

「死んだらみんな同じ。何も無くなるんだから」

「……君はさっき、僕にアリの事を忘れるように言ったね。忘れなければ僕の方が駄目になると。それは君が通った道だからそう言ったんじゃないのか」

「……そうね」

 ロイは内心安堵して、ソファーに深くもたれる。

「でも今は違う」

 レイラは黒いヒジャブで再び顔を隠した。ロイも再び身を乗り出してそんな彼女に食いつく。

「じゃあ、君はいったい何を守るために命を懸けて戦うんだ? 人の命じゃないのか?」

 瓶が入った袋を持ってレイラはソファーから立ち上がった。そのまま部屋の出口まで行って、肩越しにその問いに答えを投げる。

「私が守るのは、人の命じゃない」

 ロイも立ち上がって黒い後ろ姿に返した。

「じゃあ、いったい何のために命を懸けてまで戦うんだ」

 漸くレイラが振り返った。ヒジャブの下ではっきりとロイを見返す黒い瞳には、先ほどの輝きなど見て取れない。隠されたままの口元が、一声吐き出した。

「チョコレート・バレル」

「…………」

「私が守るのは、チョコレート・バレル」

 そしてレイラは部屋を出て行った。残されたロイは鍵を閉めるために、とぼとぼとドアに歩み寄り、チェーンを掛ける。その口からは消えそうな声が洩れ出て、部屋の静寂に吸い込まれて行った。

「チョコレート・バレル……。金のためって事か……」


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