『清心館の天使――Payne’s Gray(灰青色)』
雪乃先輩のいる美術室は世界の中心のようだった。
一時間のデッサンを終えた雪乃先輩の笑顔は、午後の逆光をまとって輝いていた。
んー!と伸びをしながら息を吐くと、雪乃先輩はリボンを整える。
すべてのデッサンを先輩は褒めて回っていた。純粋なモチーフとして見られることは、いつもの好奇のまなざしとは違うのだろう。
雪乃先輩は二十人の芸術家の目で、生き生きとした姿に描かれていた。
講評が終わると、部員たちは個人制作に戻っていった。
「雪乃、それと……萌花君、せっかくだから軽く解説をしようか?」
「よく白い紙に白いもの――例えば、石膏像を描くのは無理」
「そんな事を聞いたことがないかい?」
「僕のデッサンを見てくれ」
百瀬先輩のデッサンは、計算され尽くしたトーンで、今この瞬間の雪乃先輩を光の中に永遠にとどめているようだった。
白黒の画面の中に鮮やかな色を感じる、そんな絵だった。
「これが『色価』色の調べであり調和なんだ」
「オーケストラで、一つの楽器だけが目立ったら台無しだろう?」
「すべてはバランス。そういう事さ」
百瀬先輩の簡潔でわかりやすい説明。
「もう少し説明させてもらおうかな?萌花君、美しいとはどういうことだと思う?」
「この美術室の市松模様に組まれた、床に当たる秋の夕日」
「飲みかけのカップに照り返される、空の青」
「そういう風に自分だけにある美を見つけられるかだと、僕は考えているんだ」
「僕にとっては、椿姫の濡れ烏の黒髪が至上の美だって事だね」
百瀬先輩は長い手を大きく広げる。舞台女優がやはり似合う。
「君にとっては雪乃かな」
ストレートな愛情表現をさらりと言うと、百瀬先輩は悪戯っぽく笑った。
「アルルの跳ね橋という絵を知っているかい?」
「昨年ヨーロッパ留学の合間に訪れたんだけど、何でもない小さな橋だったよ」
「でも逆にそれが感動だったな」
「それをこんなにも、美しく描くことが出来たんだってね」
「だから、萌花君。君の中にも君だけの美があるんだよ」
美への信仰を熱く語る百瀬先輩の話に圧倒され、わたしたちはその余韻の中にいた。
「なんだか恥ずかしいね。じゃあ僕たちの制作中の絵をみてもらおうかな」
「前も言ったけど、僕は椿姫以外には製作中の絵は見せないから特別だよ」
照れ隠しに百瀬先輩は言うと、二人の絵の前に案内してくれた。
それはフォトリアルという言葉が相応しいものだった。
百瀬先輩の印象からは、やや神経質にも見える、丁寧な筆致の写実的な風景画がそこにあった。色の選択が素晴らしく、まだ描き始めなのに、既に完成度の高さを感じ取れる。
白黒で描かれている小さなスケッチがキャンバスの右上に貼り付けられていた。先ほどのデッサン同様に、踊る線と色彩の豊かさを感じた。
天目先輩の絵は、疾走感のある筆運びで、印象派と抽象画の境界にあるようだった。慎重に色を選び終わると、素早い筆使いで色を乗せていく。
わたしたちの相手をしながら、百瀬先輩も制作を再開した。混色に悩んでいるのか、百瀬先輩はチューブから丁寧に色を出すと光にかざす。
正反対な二人の制作への向き合い方は、絵具への愛情も含めて、お揃いの双子のようだった。
出来上がる前の絵なのに、わたしは見惚れてしまった。
ふと目を落とすと、ラベルを剥がされたという、
絵の具には同じシリーズの花柄のシール。
白薔薇やひまわり、様々な花で揃えられている。
花の種類で判別出来るのか、そこに、色名は見当たらなかった。




