『グレーズ技法――Le Solvant(溶剤)』
八章『グレーズ技法――Le Solvant(溶剤)』
「ああ、これか」
百瀬先輩はため息をついて、絵の具を手に取った。
「美術部への嫌がらせ、君も知っているだろう?」
「あの件でね、椿姫が僕のもこんなふうに可愛くしちゃったんだよ」
「今回は新しい色を取り入れようと、買ったばかりなのに」
百瀬先輩は、肩を竦めた。
「千里ちゃん、ちょうど可愛いシールあるから、二人だけのお揃いにしよ」
「なんておねだりされたら、断れないだろ」
「それがこの有様さ」
百瀬先輩は気にしていない様子で笑い、続けた。
「この子は意外といたずら心があるんだよ」
「僕の事を好きすぎるだろ?」
文句なのか、のろけなのか、わからない口ぶりで百瀬先輩はそう言った。
「……不思議な貼り方、わざと? 白薔薇が二本――それに、ひまわりも?」
雪乃先輩の言葉の意味が、わたしにはよくわからなかった。
天目先輩は言いかけた言葉を飲み込み、目をそらした。
頬を染めて制作に戻ったその横顔には、どこか落ち着かない影が差していた。
「ところで、嫌がらせの件。犯人はわかった?」
「ふふ、やっぱりそれがいちばんの目的かな?名探偵くん」
「ところが、全然わからなくてね」
「変な事と言えば、剥がされたラベルは綺麗にゴミ箱に捨てられていたんだよ」
「実に丁寧な嫌がらせ犯もいたものだ。そう思わないかい?」
「椿姫もそう思うだろ?」
百瀬先輩は笑いながら絵に向き直ると、花柄のチューブを見つめた。二人のそばを離れた雪乃先輩は部屋の隅、わたしの隣に腰掛けた。
「私も選択科目は美術にすればよかったな」
片手をパレットに見立てて絵の具を混ぜる仕草をし始める。何をやっても絵になる人ではあるけれど、特に絵画は似合いそうだ。
「雪乃先輩、絵はどうでしたっけ?」
何もない空間に、頭の中の名画を描き始める雪乃先輩に聞いてみた。
「全然ダメ」
急に現実に戻されたようなそんな困った笑い顔をして、首を振る。日の落ちた教室に、鉛筆と絵筆の音だけがこだました。雪乃先輩と、隣同士でお互いをモデルに絵を描き合う。そんな妄想を思い浮かべた。
百瀬先輩はパレットを見つめ、眉間に皺を寄せてため息をついている。
再び、どちらの色がいいと思う?
天目先輩と小声でそんなやり取りをする様子だけが、聞こえた。真剣な様子でそれを眺めていた雪乃先輩は、唐突に立ち上がると
「少し用事を思い出しました。今日は帰りますね。ありがとうございます」
邪魔にならない声で告げると一礼した。
「モデルを引き受けてくれて助かったよ。みんなもお礼を」
百瀬先輩に促され部員たちは立ち上がると、お礼の言葉と共に深々と頭を下げる。美術室を後にする先輩。わたしも深く一礼をしてから慌てて追いかける。
図書室に戻る途中で、買い出しに出る級友に捕まった。先輩が止めてくれると思ったのに、笑顔で送り出されてしまった。
振り返る。夕暮れの校舎。
司書室に先輩の姿はなかった。
わたしが雪乃先輩と言葉を交わすことができたのは、次の事件が起きてからだった。
文化祭前、騒ぎの起きた美術室で。




