前編
昔々、東海道にある静ヶ山の麓に、暮れ始め村という寂れた村があった。名産も名所もなく、田畑の収穫も決して多くなく、村人たちはそれはそれは苦しい生活を強いられていた。
またこの村では女子が産まれにくく、住人の数は少しずつ少しずつ減り、いずれ滅ぶであろうと懸念されていた。
しかし、それでも村人たちは慎ましやかに懸命に生きていた。
暮れ始め村の長者のお屋敷。
ある日の晩、長者はひとりで晩飯の大根汁を啜っていた。そこへ、どこからともなく声が聞こえた。
「長者よ、おい長者」
それは腹に響く重い声で、頭の上から振り下ろされるようだった。
「だ…誰じゃ?」
長者がハッと顔を上げて、部屋の中を見回すが誰もいない。囲炉裏の火だけがチラチラと燃えている。
「なんじゃ、気のせいか…」
再び大根汁を啜ろうと椀に口を付けた時、対面で空気がユラユラと揺れ動く。
「気のせいではないぞ。暮れ始め村の長者よ、我は静ヶ山の山神である」
揺れていた空気が、みるみる人の形を取っていく。身の丈九尺はあろうかという筋骨逞しい大男が姿を現した。
髪はボサボサでヒゲが伸び、顔は赤く、目つきは獣のように鋭いが、着ている衣・袴は白く立派な物だった。背中に差している野太刀は宝石が散りばめられ豪奢であり、熊をも一刀の下に両断できそうなほど超大であった。
「ひぇぇぇ~……!」
長者は持っていた椀を取り落とし、腰を抜かす。
「これ、恐れることはない。今日、我はちょいと貢ぎ物を所望しに参った次第よ」
「みみみ…貢ぎ物でごぜぇますか?」
山神は顎鬚を撫でながらうなづく。
「うむ、我は独り身ゆえ、伴侶が欲しい。この村でもっとも若く美しい未婚の生娘を、我の嫁子として差し出すのだ」
「よ…嫁子!?」
長者は困ってしまった。近頃はとんと娘がどの家でも産まれず、今この村にいるのは既婚者か老婆しかいない。
「お…恐れながら申し上げますだ~…。この村に、山神様の気に入る娘子はおらんと思うんじゃけんどぉ」
山神は大口を開けて威嚇する。
「なんじゃとぉー! 我に娘子は寄越さぬというのかぁー!」
「ひぇぇぇ~……!」
山神の怒鳴り声と恐ろしい形相に、長者は後ろにすってんころりと転がってしまう。
「良いか! 期日は十日じゃ! 十日後に花嫁姿の娘子を山の祠前に連れてくるのじゃぞ! さもなくば来年は干ばつで米が食えぬと肝に命じよ!」
「そ……そんな、無体な! 山神様ぁ!」
長者が顔を上げた時、既に山神の姿はなかった。
「こりゃあ、えらいことになってしもうた…」
翌日、長者は村の男衆を集め、昨日の山神の件を話した。
「長者様、そんなとっぴな話を信じろっていうだか?」「んだんだ、まどろんで夢でも見たでねえだか?」と村人たちは最初聞く耳を持たなかった。
「本当なんだ! 本当に山神様が現れて娘子を嫁がせろと言うたんだ!」
長者が根っからの正直者であることを村人たちも知っていた。一所懸命な説得を聞いているうちに、それが嘘でないと信じ始めた。
そして遅れて集まってきた村はずれの寺の和尚も、長者の言う山神の人相は文献と相違ないと太鼓判を押した。
「そ…それじゃ、どうすんだ長者様!」
「ワシらの村に若くて美しいおなごなんぞおらんぞ!」
ことの重大さに気づいた村人たちに、瞬く間に動揺が走る。
「じゃから困ってるんじゃ。みなの知恵を借りたい」
長者が頭を抱えると、皆まで黙り込んでしまう。ここに居合わせた誰ひとりとして、妙案など持ち合わせていなかった。
「こ……困ったのぉ」
「この家には、若い女はおらなんだか?」
「いんや、うちにはかかぁとバア様しかいねぇ」
長者や男衆は、村中回って若くて美しい娘を探した。
しかし、いもしない娘がひょいと出てくるはずがなく、すべての家を回っても見つからなかった。
男の一人が言った。
「…長者様、こうなりゃ隣の村々から連れてくるしかあるめぇ」
「うーむ…」
村から健脚の男たちを使いに出し、隣の村や、隣の隣の村や、そのまた隣の村までどうにか女子に来てもらえんかと打診した。
しかし詳しい事情を話すと、「うちの大切な娘を山の神になんかくれてやれるか! けぇれ!」と追い出されてしまった。
別の男が長者に、
「…こうなったら騙すか攫うしかねぇんでねえか?」
と恐ろしげな提案をしたが、真面目で正直な長者は、
「いや、これはワシらの村のことじゃ。他の村さ迷惑かけるのは筋違いっちゅーもんじゃ」
「だども! このままじゃ山神の怒りをかっちまうぞ! 村が死んじまってもいいだか!?」
村人たちの悲痛な訴えを聞いても、長者はついぞ頭を縦には振らなかった。
期日の半分が過ぎた頃、長者はその日も屋敷で頭を抱えていた。
「さて、いったいどうしたものやら…」
その時、村はずれの寺の和尚がやってきた。
「長者よ、ちょっと話があるのじゃが…」
「どうした、和尚。なにか、妙案でも浮かんだのか?」
和尚はつるつる頭を撫でながら言う。
「妙案…かどうか。どこに山神の耳があるかわからぬ。もそっと近くで話そう」
長者の隣に座った和尚が耳打ちする。
それを聞き終えた長者は、うーんと腕を組んで唸る。
「なるほど…なるほど。じゃが、イチかバチかの賭けになりそうじゃのぉ」
「しかし、何もせんでも村は滅びる。やれるだけのことはやろうじゃないか」
長者は二日、熱も出るくらいに悩みに悩んだ挙句、和尚の案を採用した。
山神と約束の十日後。
村から一台の神輿が、男衆に囲まれて出発した。儀礼でしか使わない見事な朱色の神輿。その上に、小柄な白無垢姿が座っている。
やがて山の入口、担ぎ手と長者以外が列を離れて村へ戻る。
入り組んだ山道を上り、滝のある崖にかけられた丸太橋を渡る。
滝の岸壁に大きく抉り抜かれた深い洞窟がある。その隣に、まるで表札のようにして小さな祠が立っていた。
担ぎ手が神輿を下ろして、そそくさと帰っていく。後に残されたのは長者と、神輿とその上に座る白無垢姿だけだった。
長者が大声で呼ぶ。
「山神様ぁ! お約束通り、嫁子を献上しに参ったですだぁ!」
すぐに低く大きな声が返ってくる。
「おぉ! 長者ぁ、待ちかねたぞ!」
洞窟の前に、山神が姿を現す。
「山神様! ワシら、言われた通り連れてきただ! これで村に災いせんでくれるだか!」
山神がうむ、と大仰にうなづく。
「良いだろう! 神は約束を違えはせん!」
長者が懐から、一枚の巻物を取り出す。
「じゃあ! ここに印をくれろ!」
そこには、『山神は嫁を見受ける代わりに村には手を出さない』といった旨の誓約文が書かれている。
「ガッハッハッハ! 疑り深い奴じゃのお! まぁ、良い。書いてやる。ただし! まずは嫁の顔を見せろ!」
「か…顔?」
長者がびくりと体を震わせる。
「そうじゃ! 確かに嫁は連れてきたようじゃが、もし二目と見られぬ醜女であったなら…いや、ワシが気に入らなければ村人たちの命はないものと知れ!」
「そ…そんな…」
「どうした! 早くその、深く被った綿帽子を取らぬか!」
長者は渋々、白無垢の頭から綿帽子をゆっくり脱がせる。
「おぉ!」
山神が感嘆し、目を奪われる。
嫁の娘は年の頃、十三、四ほど。雪のように整った白い肌、艶やかな黒い髪、美しい長いまつ毛、深い色を湛えた瞳、紅を引いた唇はぷっくりと愛らしい。
「おぉ! おぉ! なんと美しい娘子じゃ! でかしたぞ長者!」
長者が巻物を広げて突きつける。
「山神様! お気に召したのなら、どうかこの文に印を!」
「えぇい! うるさい奴じゃ!」
山神の指から、小さな雷がほとばしる。それは巻物に直撃し、跡には山神の神名が記されていた。
「ほれ、書いてやったぞ! さっさと去ね!」
「へぇ! ありがとうごぜえます!」
長者は巻物を大事にしまうと、一目散にその場を走り去る。
後に残ったのは、山神と白無垢の娘だけだった。
「さぁ、来い。ここが今日からオヌシの家じゃ」
山神が洞窟へ入るように促す。
外から見た洞窟と、中はまるで別世界であった。入ってしばらく歩くと、周囲を宝玉と珊瑚が七色に照らし出す。ゴツゴツした岩肌は藍色に塗られた木板へ変わり、床は上質な絹が敷かれる道となる。時折遠くから、鐘のような澄んだ音が響いてくる。
さらに奥へ行くと、明るく開けた場所へ出る。そこは天井に黄金色に光る鍾乳石が幾重にも垂れ下がっていた。その下に、まるで大名様が住んでいるような立派なお屋敷がある。
「どうじゃ、立派なもんじゃろう? ええ?」
自慢げな山神の後ろを娘がついていく。
屋敷の中も外に劣らず豪華な佇まい。舶来の美しい調度品の数々。どこかから漂ってくる、えも言われぬ香炉の匂い。
玄関も廊下も部屋も縁側も、汚れ一つ落ちておらず、まるで昨日今日建てた新築のように真新しい。
「そしてここがワシらの部屋じゃ。まぁ、座れ」
山神に通された部屋。朱と金の色合い。鳳凰の描かれた屏風。半分開けられた窓の先には、五色の幻想的な川と数匹のツルが舞い遊ぶ景色が見える。お姫様や名の知れた花魁でも、こんな見事な部屋に住んだことはないだろう。
山神が盃で酒を飲みながら聞く。
「ところで、娘。名はなんと言う?」
「鈴蘭、と申します」
小さな声で娘が答える。
「ほぉ、美貌に劣らず良い名じゃ。胸をすっと風がすり抜けるような聞き心地。ちと声が低いのが気になるがのぉ」
さて、と山神が鈴蘭に迫る。体を持ち上げ、敷いてあった布団に軽く投げ倒す。
「七面倒くさいのは好かん。夫婦となったからには、ワシの子を産んでもらうぞ」
山神が鈴蘭の体に覆いかぶさる。あまりの体格差に、鈴蘭が小さく呻く。
「おぉ! まるで絹のような手触りじゃ、なんときめ細かく柔らかい」
「うっ…」
と、山神が腰に回した手を秘所に移した途端、体を起き上がらせて飛び退く。
「なんじゃ! その腰の一物は! まままさか、貴様…男子か!」
鈴蘭が顔を背ける。
「あぁ、オラは男だ。村に若い女子なんかいやしねぇ。どうして花嫁さ用意できるって言うんだ」
山神が地団駄を踏む。地震のように建物が揺れる。
「ぬぅおおおおおおおお! 長者め! 暮れ始め村の者どもめぇ! 我をたばかりおったな! 許せぬ! この上は子々孫々に至るまで根絶やしにしてくれる!」
鬼のような形相の山神。全身から焔が立ち上る。
鈴蘭が両手を広げて立ちふさがる。
「待ってくれ! 村は嫁を連れてきた! あんたオラでいいって承諾したでねえか! 村には手を出さねえと! 約束破るのか!」
「ぬぅううううううううう!!!!」
山神が歯ぎしりして悔しがる。神の世界において約束ごとは何よりも強い。こればかりはいかに乱暴な力をもってしても抗えない。
長者が巻物に印を残させたのは、より強い力で誓約を縛る為だったのだろう。
「男でも嫁は嫁! あんたも神さんなら約束は守ってけれ!」
「ええぃ、クソ! クソ! 口惜しや、口惜しや!」
「オラ、嫁に来たからには家事世話はしっかりするだ。だから神さんもそれで納得してくんろ」
山神は最後に一度床を踏み鳴らすと、部屋を出て行ってしまう。
「勝手にせい!」