帰って見ればこは如何に
暗い。
寒い。
ここは、どこ?
「……キ、ユキ! ユキ!!」
頬に感じた鈍い痛みと共にゆっくりと意識が覚醒していく。
「ん……」
「ユキ!!」
「ユキちゃん! よかったわ」
「おーい! ユキちゃんが起きたぞ!」
途端にざわめく周囲。知ってる声がたくさんある。
私は目を開けると辺りを見回した。突然の光が眩しくて少しだけ目を細める。
「ユキ!! 大丈夫かっ?」
「びっくりするだろ!!! ユキのばかぁ」
「ユキぃぃ、本当によかった!!」
最初に飛びつくように声をかけてきたのは最近仲良くなった子供たち。
泣きそう、というか既に泣いている。顔がぐちゃぐちゃでなんだか申し訳ない気持ちになる。
「もう、心配させて!」
涙目で私の手を握っているのは母親。
その手があまりにも冷たくて、なんだかこっちが心配になる。
他にもご近所さんたちがよかったよかったと口々に言っている。
でも、大事な人がそこにはいない。
「ねぇ、太郎は?」
私は母親に向かってそう尋ねた。
すると母親は不思議そうな顔をしながら答えてくれる。
「浦島さんなら漁に行ったまままだ帰ってきてないけど?」
「漁に、行ったまま……?」
その言葉にボンヤリとしていた脳が急激に覚醒した。
勢いよく飛び上がると私は海に向かって走り出す。
「ちょ、ユキ! まだ動いちゃ駄目よ!」
そんな私を咎めるように引き止められた手。
その手から逃れようと私は必至でもがく。
「離して! 私行かなきゃ!!」
太郎。
太郎。
太郎。
「太郎を助けなくちゃ!!!」
「何を言っているの? ユキ!!」
母親の手を振り払って私は駆け出した。
足元がおぼつかない。
身体が冷たい。
頭が痛い。
それでも何とか前に進む。
最後の望みをかけて……。
「ユキ! 待てよユキ!」
「どうしたんだよ急に!!」
「太郎兄ちゃんがどうかしたのか?」
私の後を追ってきた子供たちが浜辺で茫然と海を見つめる私に心配そうに声をかけてくれる。
でも返す言葉が出てこない。
「太郎」
緩やかな波が押しては返す。
もう太郎の船の姿はどこにも見えない。
「太郎……どうして」
私はその場に崩れ落ちた。
「ユキ!!」
子供たちが私を囲い込む。
何度も何度も名前が呼ばれるが、まるで首を絞めれれているかのように上手く言葉が発せない。
あぁ、私は太郎を……守れなかったんだ。
私はあんなに太郎に守ってもらったのに。
「ごめんなさい……」
頬を冷たい滴が伝う。
「ごめんなさい、たろぉ……」
その日、私はずっと浜辺で太郎の帰りを待っていた。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日もずっとずっと待っていた。
太郎が御伽話の浦島太郎じゃなくて、ただ同姓同名なだけの浦島太郎だと信じて私は待っていた。
でも何日待っても、何年待っても、太郎は帰ってこなかった。
***
ぼんやりと、私は今日も海を見つめる。
「おーい、ユキ!!」
名を呼ばれて振り返れば、予想通りの人物がそこにいた。
「どうかしたの?」
「八郎しらねえぇか、ちと目を離したすきにどっか行きやがって」
「さぁ、見てないけど……」
そう答えると彼は疲れたようにため息をついた。
「たっく、アイツ家の手伝いもしないでちょろちょろと……」
「ふふ、一体誰に似たのかしらね」
「……お前馬鹿にしてるだろう」
「別にー」
昔亀を虐めていた悪ガキの一人は今や立派な父親となっている。
何だかんだと言いながらも自分の子供を大事にしている姿を見ると胸が温かい。
「そうそう、この間八郎くんと水切りして遊んだのよ? けっこう自信あったんだけど八郎くんのが上手でね。なんだか悔しかったなぁ」
「は、俺の子なんだ。当然だろ」
「へー、八郎くんにお父さんに教わったの? てっ聞いたら父ちゃんは下手くそだから教わることなんてないって言ってたわよ?」
「アイツ!!」
あの亀いじめの子たちとこんなに長い付き合いになるとは思わなった。
他の2人は出稼ぎのため村を出てしまったが時折手紙をくれる。
2人とも元気でやっているようだ。
「子供って可愛いよね。八郎くんとか見てると私も自分の子がほしくなっちゃう」
素直にそう思って言ったのに、私の言葉に彼は気まずそうに顔を顰めた。
「どうしたの?」
不思議に思って尋ねれば、何か言いたげに口をモゴモゴとさせている。
一体なんだというのだ。急かすように視線を向けると、彼は言いにくそうな顔をしながらも小さく口を開く。
「あのさ……ユキ」
「なに?」
「そのさ……お前は……その」
「うん」
何なんだ。はっきりしない男は嫌われるぞ。
そう思いながらも辛抱強く待っていると、彼は意を決したように顔をあげた。
「結婚、しねーのか?」
瞬間、冷たい潮風がふわりと私達の髪を揺らす。
予想外な質問に思わず目を見開く。しかし私はすぐに笑みを浮かべた。
「しないよ」
そう言えば、彼は納得いかないというように顔をする。
「なんでだ? 相手がいないってわけでもないだろ」
「うーん、そうだけど……」
とは言っても私の結婚の適任期はとっくに過ぎている。
私は村でも有名な売れ残りだ。
しかしながらありがたいことにまだこんな私に婚姻を申し込んでくれる人がいる。それでも私はその誘いを断り続けていた。村人から変な目でみるのはもう慣れっ子だ。
「私ね……好きな人がいるの」
すべて忘れて、他の誰かと幸せになろうとしたこともあった。
でも、頭の中をチラついて離れないものがある。
幼いころに抱いた小さな恋心は、今も消えないまま。
それが大きな後悔のせいであったとしてもこの気持ちのまま他の誰かと共になろうとは思えない。
それでは相手に失礼だと思うから。
何年たってもこうして一人の男を想い続けて毎日のように海に通う女なんてお相手様も嫌だろうに。
「……いいのかよ、それで」
「いいのよ、これで」
それでも私はちゃんと幸せだ。
「まぁ、お前がそれでいいならいんだけどな。お前が変わりもんなのは昔からのことだし?」
「ちょ、何よそれ!」
「そのままの意味だよ」
「失礼な……!」
ひとしきり笑った後、私はフッと大切なことを思い出して口にする。
「あ、そうだ。それよりも八郎くん探さなくていいの?」
「おう、そうだった! 早く連れ戻さんとまた怒られる。変なこと聞いてごめんなユキ! また八郎と遊んでやって!」
「うん、またね」
昔と変わらぬ笑顔で彼は浜辺を後にした。私も手を振って彼を見送る。
なんだかんだいいつつも、この村で変わり者の私にこうして普通に接してくれる彼の存在は大きい。まぁ、癪だから絶対に言わないけど。
「さて、私もそろそろ家に帰るかなぁ」
そう言った瞬間、視界に小さな船が映る。
今日は海が荒れてるから漁には出ないって他の漁師が言ってたのに。
一体誰だろう?
そう思いながら目をこらして見つめているとその船が随分と古い船であることが分かってきた。
まるで数十年前のものであるような……。
「え……」
遠くてはっきりとは見えなかった船がだんだんと見えるようになってくる。
見覚えのある船だった。
まさかと私は早くなる心臓を押さえつける。
「嘘……」
私はあの船をよく知っている。
幼いころは毎日見てた。でもそんなことってあるのだろうか?
こんなことが起こっていいのだろうか?
古びた船には一人の男が乗っている。
少し長めの髪を後ろでボサッと束ねた姿。よれた淡い色の着物。優しく頭を撫でてくれる大きな手。穏やかな瞳。
私が彼を見間違うはずなんてない。
私はその船が、船着き場にとまるのを茫然と見ていた。
「あれ、おかしいな……」
数十年前見たその姿、その声のまま……。
「あ、すみません。ここは岡谷村であってますでしょうか?」
船から降りたその人は辺りをキョロキョロと見回した後、私の姿をとらえると良く知った笑顔で問いかけてくる。
でも、声が出ない。まるで喉が張り付いてしまったみたい。
「えと、あの?」
なかなか返事をしない私を不思議に思ってかその人はもう数歩私に近づいてこちらの顔を覗き込んだ。
そして次の瞬間、驚いたように目を見開く。
「えぇ! な、なんで泣いてっ」
ボロボロと私の意思に関係なく出てくる涙。
きっと、ひどい顔をしているのだろう。彼は何とも言えない顔をしている。
「あの、だ、大丈夫ですか?」
耳に心地よいその声。
ずっとずっと、もう何十年も求めていた声だ。
「ど、うして」
「え?」
「竜宮城に、行ったのでしょう?」
「なんでそれを?」
私の言葉にその人は不思議そうな顔する。
しかし、それ以上言葉の出てこない私にその人は困った顔をしたまま口を開いた。
「えっと、竜宮城に行ったには行ったのですけど、あまりにもすごすぎて。なんだか場違いな気がしましてね。それにあんまり一人にしておくと心配な子がいたので、外観を少し見ただけで引き返してきたんですよ。ちょっと勿体ないことしたかなとは思いますけど、まぁいいかなっ、うわぁっぁぁ!!」
私は耐え切れずその人に抱き付いた。
顔は涙でぐちゃぐちゃで、きっと鼻水だって垂れてる。
いい年した女としてもうこれ以上ないくらい恥ずかしい姿だったけど、私は構わずそのまま彼に抱き付いた。今の自分の歳なんて忘れて、あのころの……9歳の私のまま。
素っ頓狂な声をあげる彼なんて気にしない。
「ちょ、えっ、あの!!」
いきなり抱き付かれて訳が分かららないといったように彼はアタフタしている。
でも、しばらくするとどうしようもないと悟ったのか大人しくなった。
そしてそっと、その大きな手で髪を撫でてくれる。
懐かしい温かさに更に涙があふれ出す。
でも、なんだか憎らしくて顔をあげるとちょっぴり彼を睨み付けた。
「子供扱いしないでよ」
そういえば昔はよくこの言葉を言っていた。
彼はしばらく私の顔を見ながら固まったあと、目を大きく見開く。
「ユキ、ちゃん?」
私は笑みを浮かべる。
言いたいことはいっぱいあるし、分からないこともいっぱいある。
でも、まず貴方にどうしても伝えたい言葉がある。
「おかえりなさい、太郎」
さぁ、御伽話を続けよう。
以上で完結となります。
読んで下さりありがとうございました。