魂魄
階段を駆け上がった冴島は、小さな部屋のドアノブを掴み、凄まじい力で扉を引き開けた。
部屋に入った冴島は、ノートパソコンの画面を見た。伊吹が言っていたように、画面の真ん中に真粧美からのメッセージが表示されていた。
タイトルバーには送信日時が表示されていた。真粧美からメッセージが届いたのは、仁徳天皇陵での戦闘に向けて準備を進めていた頃だった。あれから、すでに八日が経過している。病室にいれば、枕元に置かれたスマートフォンでメッセージに気づけたかもしれない。もっとも、気づいたところで、病院のベッドにいた自分には助けに行くことなどできなかったが。
ノートパソコンにログインして、ほかのメッセージも確認したが、「すぐに来て」というメッセージ以外には何もなかった。それ以降、メッセージは届いていない。嫌な予感がした。
冴島は机の引き出しから小箱を取り出し、その中から巌の自衛隊時代のドッグタグを手に取った。巌が戦死した後、冴島はドッグタグを持ち帰った。部隊長の上保俊介二佐に巌の戦死状況を報告し、作戦の終了を伝えた後、ドッグタグを一度、妹の岩崎真粧美に手渡した。いつ死ぬかわからない戦場に身を置いていたため、お互いの毛髪を持ち合っていた。冴島は巌の毛髪とドッグタグを一緒に真粧美へ渡したが、彼女が受け取ったのは毛髪だけだった。ドッグタグは戦友である陣さんが持っていた方がいい、と言って受け取らなかったのだ。石原家の墓には巌の遺骨は納められていない。そこに納められているのは、あのとき渡した遺髪だけだった。
真粧美の希望で、巌のドッグタグは冴島が預かり続けることになった。ただし、自分が死んだときには相澤を通じて真粧美に渡すよう、書類に指示を残してあった。
真粧美であれば、見た目が湊大地でも自分が冴島陣だと気づいてくれるかもしれない。仮に信じてもらえなくても、ドッグタグがあれば俺と巌の関係が説明できるだろう。少なくとも、俺が真粧美を助けにきた人間だと証明できるはずだ。
ふと、伊予二名国王家のあの秘匿魔法を使うという考えが頭をよぎった。しかし、いろいろと面倒なことになりかねない。冴島は、必要に迫られたときに使うことにした。
廊下を挟んだ目の前の寝室に入るとモスグリーンの細身のカーゴパンツにはきかえ、上半身は黒いTシャツ姿になった。前開きの迷彩柄のジャンパーをクローゼットから引っ張り出す。カーゴパンツの前ポケットに巌のドッグタグを突っ込んだ。
階段を駆け上がっていく湊大地の後ろ姿を三人はリビングで見送った。なにがあったのだろうと思ったものの、まだ事態の深刻さには気づいていなかった。
興味津々の伊吹が2人に聞いた。
「あのメッセージなんだったのかな? マサミさんなんだから女性ですよね」
美織が答えた。
「『助けて』じゃなくて、『すぐに来て』だったでしょ?」
冴島という人物宛のメッセージとはいえ、大地が焦っているのを見て伊吹は不思議に思った。
「ですよね。湊さんがあんなに焦る必要、あるんですかね?」
2人のやり取りを聞いていた愛梨が言った。
「でも、陣さんっていう人宛だったから……ここの持ち主の冴島さんのことですよね?」
愛梨が口を挟んできたことで、伊吹が思い出したように言った。
「そんなことより、湊さん、さっき愛梨ちゃんのこと呼び捨てにしてなかった?」
伊吹が愛梨を問い詰めるように言う。
「えっ? そうだったかな……?」
「絶対言ったよ。ね、美織さんも聞いたでしょ?」
「うーん、そうだったかな……覚えてないや」
「絶対言いましたよ! それになんか湊さんの雰囲気変わってなかったですか? 愛梨ちゃん、なにがあったの?」
伊吹は美織と愛梨の顔を交互に見ながら、大地の様子がおかしかったことを2人に訴え続けた。
愛梨は困った顔をして伊吹に返事をした。
「え〜、イブさんの勘違いじゃないですか?」
「そんなことないって、絶対なにかあったはずだよ」
3人で会話を交わしていると、大地が階段を駆け降りてきた。3人が見ている目の前で大地はジャンパーをリビングの椅子の背もたれに放り投げると、空間魔法を使って亜空間に保管していた銃と弾倉3本、そしてタクティカルナイフを掌の上に取り出した。銃は綿津見が自分のために造ってくれた、SFP9そっくりの拳銃だ。タクティカルナイフは、これも綿津見に依頼して造ってもらったものだ。エストレイマ ラティオのDMPを真似て造ってもらってあった。
冴島は銃と三本の弾倉、そしてナイフをテーブルの上に無造作に置いた。重く鈍い音がリビングに響いた。同じ場所にいる3人の存在など気にしていないようだった。
ジャンパーと一緒に部屋から持ち出したクリップタイプのヒップホルスターを背中側で横向きにしてベルトに差し込んで固定する。テーブルの上の銃をつかむと3人がいない方向に向いてから、弾倉を外して確認する。弾倉に実体弾がフル装填されていることを確認し、安全装置を確かめてから、弾倉を装着すると銃を右手で腰のホルスターに収めた。3本の弾倉はカーゴパンツのサイドポケットに突っ込む。
グリーンのジャンパーを着ながら冴島は愛梨に声をかけた。
「愛梨、まだ完全じゃないんだから部屋で寝ていなさい」
目をしばたかせた愛梨は、何と返事をすればいいのか迷った末、曖昧にうなずいた。
「う、うん……」
二人のやり取りを見ていた伊吹が大地に声をかけた。
「大地さん……なにか、大変なことが——」
「そうだね、愛梨ちゃんは寝てた方がいいよ」
美織が、伊吹が聞こうとしていることを遮った。大地の様子から、とんでもないことが起きてるかもしれないと、美織が気づいたからだ。
大地は伊吹に少し視線を向けただけでなにも言わなかった。
冴島は装備の確認を続けた。
ナイフを腰からぶら下げていると、警官に職務質問されてしまう可能性がある。腰のベルトと太ももに留めるためのシースのナイロンベルトを抜き取ると、シースに入れたままジャンパーの大きな内ポケットにナイフを突っ込んだ。全長30センチのナイフは内ポケットに入れるとかなり邪魔だったが、いざとなればジャンパーを脱げばいいと思った。ナイフは登場機会がないだろうと思っていたが念のため用意しておく。ジャンパーの裾からヒップホルスターが出ていないことも確認した。
向かう先は、現在は真粧美と子供たちが住んでいるが、元は冴島のセーフハウスだった場所だ。防弾加工が施されており、ドアと窓を閉めれば、東京から移動してきた惨跛壱式が押し寄せてきても侵入できないほど頑丈な造りになっている。いざとなれば、セーフルームに逃げ込めば三人で二か月は暮らせるだけの水と食料が備蓄してある。相澤が手抜きをしていなければ、消費期限が切れる数か月前に、定期的に入れ替えているはずだ。
真粧美のメッセージだけでは何が起きているかわからない。
伊吹と美織の方を見ると大地は緊張した表情と鋭い目つきのまま言った。
「申し訳ないが俺は知り合いのところに行ってくる。まだ当分食料はあるだろうから外に出ないで俺が帰ってくるのを待っていてくれ」
湊大地の見たことのない圧のような雰囲気に飲まれつつも、伊吹は真っ先に元気に応える。
「はい、任せてください!」
「それから、愛梨は時量師の使い方を2人に教えてやってくれ。緊急事態が発生したら必ず連絡するんだ、いいな!」
愛梨は頷いた。
「うん、わかった……」
そう言ってから、冴島はずっと意識の片隅にあったことを今やってしまおうと思った。まだ惨跛の術の期限が切れるまでに数日ある。少しでも東京周辺の被害を抑えなければいけない。焦る気持ちを抑え、冴島は人々の脳内にある惨跛の術を解除するため、NTBSの屋上にあった惨跛の術の魔術陣を記憶から引き出して術の解除を行う。擬似人格の宿禰に言われたように額と開いたばかりの胸の龍脈孔の両方から法力を引き出して惨跛の術に法力を流し込む。青白い光が湊大地を中心にして周囲に広がっていく。
……関東の半分ぐらいまでは届くだろう……
それよりも先に惨跛の術が広がっている可能性はあったが、あとは術の期限が切れるのを待つしかなかった。待機している術を脳に乗せたまま東京を離れた人たちがどのぐらいいるか想像もできない。
だが、冴島に今できるのはそれぐらいだった。
気持ちを切り替える。
次に、冴島は空間転移の魔法を使った。
「行ってくる……後を頼む」
そう言った直後に湊大地の周囲を薄黄色い文字が飛び交い、光の屈折で姿が歪むようになってから三人の目の前からいなくなった。
三人は呆然としていた。
一拍おいて、伊吹が2人に言う。
「ね、言ってたでしょ?」
美織が返事をした。
「うん、言ってた……それになんか雰囲気が変わって今までより力強くなった感じするよね?」
伊吹の反応を楽しむような笑みを浮かべながら美織が言った。
「今までも素敵だったけど、頼り甲斐がある感じが強くなりましたよね。愛梨ちゃん、なにがあったの、ねえ?」
「え? えっと……覚えてないんですけど……私がすごい大怪我したらしくて……綿津見さんからは、湊さんが助けてくれたって聞いただけです」
本当に思い出せなかった。大地を助けたいと思ったら、自分の気持ちを風の精霊が受け入れてくれたのがわかった。その後、大地の方に向かって走っていったところまでは覚えている。
次に覚えているのは、目覚めた目の前に綿津見がいたことだった。
その間に何が起きたのか全く覚えていない。
自分の身に何が起きたのかわからない。不安がよぎる。
「何があったんだろう……」
「湊さんもだけど、愛梨ちゃんも言葉遣いが変わってるの気づいてる?」
「え……? そう……かな」
湊大地の口調や態度につられて、愛梨も自然と同じような話し方になっていた。本人に深い意味はなかった。
深刻な、そして困ったような表情をした愛梨を見て、美織が優しい声で語りかけた。
「怪我も治してもらえたんだから、そんなに気にする必要ないよ。お茶でも飲んでゆっくりしましょう」
愛梨は素直に応える。
「はい……そうですよね」
まだ聞きたいことがあるのに、仕方がないという顔をした伊吹は、途中だった二階の部屋のことを美織に聞いた。
「美織さん、さっきの部屋の中にあった写真見ました?」
「写真? どこにあったの?」
「机の上に置いてあったクリアフォルダーの中です。写真立てじゃなくて」
「気づかなかったなあ……その写真を見られたくないから部屋に入っちゃダメって言ってたんじゃないの?」
「そうなのかなあ……」
愛梨は記憶がないという不安を誤魔化そうとして、2人の話に加わった。
「どういう写真だったんですか?」
「迷彩服を着た男の人が2人で写ってる写真と家族写真。同じ人が両方に写ってたから、あの人が冴島さんじゃないかな」
「ふぅーん……」
愛梨はその写真に少し興味が湧いたが、伊吹に気をつかって気のないような返事をすると、大地に言われたように休むことにした。
*
冴島は、N県にある別荘地のセーフハウスから少し離れた場所に空間転移した。
バディだった石原巌が死んだ後に、妹の真粧美は夫の小谷康介が交通事故で亡くなるトラブルに見舞われた。その8年後に子供たちのために岩崎亮治と再婚したが、子供たち二人は小谷性を選択した。岩崎は仕事がうまく行かなくなった一年後ぐらいから態度が豹変し、家庭内暴力を振るうようになった。18歳の長女の美亜の身を案じた真粧美が冴島に助けを求め、冴島が間に入って解決に導いた。そして、ストーカー化を危うんだ冴島は親子3人をN県のセーフハウスで生活するようにさせたのだ。このセーフハウスは、もともと冴島の父親が別荘として建てた二階建ての建物だった。
外壁には周囲の木々に溶け込むよう、木目調のガルバリウム鋼板を取り付けていた。その内側には防弾用の特殊鋼板を組み込み、さらに八ミリ厚の鋼板で補強していた。追加の鋼板は、取引が不自然に見えないよう、別の会社を介して調達したものだった。
小銃で武装した相手が襲撃してきても、家の中に立てこもれば、しばらくは持ちこたえられるはずだった。
冴島は周囲を警戒しながらセーフハウスに近づいていった。
周囲には、人感センサー、赤外線センサー、防犯カメラが設置されていた。有線と無線の両方を組み合わせたシステムだった。侵入を検知すると屋内のホームコンピューターのAIがコンソールとスマートホンに侵入者の情報を知らせてくるようになっている。また、外部への無線通信の傍受にもAIが対応できるようにしてある。
センサーの1つに近寄ると、スイッチが切られていた。ここで生活するようになってから、六年近く経っている。警戒心は薄らいでいるだろう。それに明るい時間だから防犯システムは切っている可能性がある。
冴島は魔法探知を発動させ、セーフハウスの敷地内と建物内部を調べた。
……どういうことだ!……
周囲のセンサー類は思った通り解除されているようだった。
家の中に四人の反応があった。二階のベッドルームで寝ている一人には生命反応がある。だが、一階にいる3人からは生命反応が返ってこなかった。
冴島は迷彩柄のジャンパーを脱ぎ捨てて、内ポケットからタクティカルナイフを取り出すと、シースから抜いて右手に持った。
二階の人物が眠っていることはわかっていたが、何者なのかはわからない。冴島は警戒を解かないまま、足早に建物へ近づいていった。
玄関ドアは閉まっていた。ドアを開けた途端、甲高い警告音が鳴り響いた。
……外部センサーと建物の警報装置は別系統だったな……
冴島は手にしていたナイフをキッチン横の壁に設置してあるスマートホームの管理パネルに投げた。パネルの真ん中にナイフが突き刺さると警告音が鳴り止んだ。
探知魔法で反応が返ってきた場所を見る。リビングのソファーの横に真粧美が血まみれで倒れていた。死後かなりの時間が経過しているのだろう。真粧美の遺体からは、すでに死臭が漂っていた。別の2人の反応の方を見にいく。
セーフルームのドアは開いていた。奥に長女の美亜が、ドアの手前に弟の恭介が倒れている。2人とも死んでいる。だが2人は死後それほど経っていないように見えた。
3人の変わり果てた姿に、冴島は犯人に対する怒りよりも先に、虚無感を覚えた。
冴島は目を閉じ、すぐに気持ちを切り替えようとした。嘆き悲しんでいても状況が変わるわけではない。今は、戦場で幾度も死を見てきた自分に戻らなければならなかった。
子供たちは状況的に見て、襲われている母親が2人にセーフルームに逃げ込むよう促したのだろう。犯人は真粧美を殺害した後、姉弟がセーフルームから出てくるのを待って犯行に及んだようだ。
この別荘をセーフハウスにリノベーションする際に、地下のAVルームの真上にセーフルームを作って、地下から外部への逃走用のトンネルを作ろうと思っていた。だが基礎の強度や工事が大掛かりになることで周囲の耳目を引くことになることなどから、トンネルを作ることは断念した。その代わり逃走用の裏口やフェイク暖炉の奥から外部へ脱出できるようにしていた。だが、セーフルームはたてこもるしかない。しかも、セーフルームには時計を置いていない。何日か二人で過ごして、待ちきれなくなって出てきたところを、待ち伏せていた犯人に襲われたのだろう。
その犯人は二階の客間のベッドに寝転んで寝ていたところを、屋内の警告音に驚いて起き出してきたらしい。二階でうごめく音が聞こえ、雑な歩き方をした足音が聞こえる。
一階の吹き抜けに立った冴島は、怒りをにじませた表情で二階を見上げた。二階の廊下に出てきた男は一階に佇んでいる男を見て言った。
「おい、なんだお前。真粧美の男か?」
真粧美の再婚相手である岩崎亮治は、値踏みするような視線で湊大地の頭の先から爪先までゆっくり見ていった。
岩崎亮治は、足元をふらつかせながら、乱暴な足音を響かせて階段を降りてきた。殺意を帯びた湊大地の視線に負けまいと、睨みつけている。
岩崎は階段を降りて湊大地の前まで来ると、右手に持ったナイフを振りかざして言った。酒に酔っているのか、足元がフラついている。
「おい、なんか言え!」
冴島は湊大地の身体を使って、怒りを抑えた凄みのある声で言った。
「お前は、この人たちと二度と関わらないと約束しなかったか?」
岩崎は忘れていたことを思い出そうとするように天井を見ると、何かを思い出したかのような顔をした。
「ああ、あのオッサンか。今度あったら半殺しにしてやろうと思っていたんだよ」
「自分が半殺しにされたから仕返しか? ボコボコにされたお前に、できるわけないだろう?」
岩崎の目つきが変わった。殺意を込めた視線が目の前の青年に突き刺さった。
「ガキ! なんでお前が知ってる?」
岩崎が持っているナイフを冴島の目の前に軽く突き出した。
「そのオッサン……いや、死神の片破れに頼まれたんだよ」
酔った顔を歪ませて岩崎が唾を飛ばしながら吐き出すように言った。
「あのオヤジ、ペラペラ喋りやがって!」
岩崎とは対照的に冴島は静かに問いただす。
「この人たちを殺したのはお前だな?」
「俺から逃げやがって。金もなくてどれだけ大変だったと思うんだ!」
冴島は抑えた冷静な声で言った。
「どうやってここを知った?」
「なんでお前に教えてやる必要があるんだよ」
冴島は凄みのある声で怒鳴った。
「言え!」
不貞腐れたような顔をして岩崎が言う。
「ゾンビから逃げるためにネットで受け入れ先を探してたら、美亜の写真を見つけたんだよ」
美亜は近辺の総合病院でオペ看護師をしているはずだった。地域のボランティアも積極的にやっていたはずだった。ゾンビから逃げるための疎開先に、ここを選んだ人たちがいたのだろうと冴島は思った。情報共有のSNSに、美亜が偶然写り込んだ写真があったのかもしれない。美亜は理知的で用心深い。自分の写真がネットに上がることで母親を追って岩崎が来ることに考えが及ばないわけがなかった。
「なぜ殺した?」
「俺から逃げたからだよ。こんな良いところで生活してやがって。真粧美がヨリを戻さないっていうから殺したんだよ。殺せば他の男のところにも行かれないだろ?」
「子供たちは?」
「ガキは邪魔したから殺した。美亜はヤっちまおうと思ったけど抵抗しやがってよ」
「そうか……警察に捕まることは考えなかったのか?」
ナイフを持っている優位性と警察に捕まらないという思いが、岩崎の顔に不敵な笑みとして浮かび上がった。
「ゾンビがウジャウジャいるんだ。こいつらが俺に殺されたって、警察にはバレねえよ」
冴島はその返事に呆れてしまった。
「それはお前にも当てはまるんだぞ。お前が俺に殺されても、誰も不思議に思わない」
「お前みたいなガキに何ができるんだよ」
そう言って、真粧美たちの殺害に使ったサバイバルナイフを目の前で一振りした。
「人にナイフの先端を向けてはいけないと、小学校で教わらなかったのか?」
「人を殺す道具を殺す相手に向けて何が悪い?」
「サバイバルナイフか……」
ナイフの背にあるノコギリ状の刃を見て、湊大地はため息をついた。こんなもので大事な3人の命が失われたのかと思うと、怒りと同時に悲しみが湧いてきた。
岩崎は言葉と態度で威嚇し、ナイフをちらつかせれば相手は怯えて自分に従うと思っている人間の典型だと冴島は思った。しかも酔っていて心が大きくなっているようだった。
その扱いを見れば、対人戦を想定したナイフの訓練など受けていないことは明らかだった。
相対している者が自分に脅威を与えられるかなど、関心もない。
冴島は、ナイフに素手で立ち向かう無謀はあえて無視することにした。魔法などというものを知らなければ、刃物を持っている相手に素手で立ち向かうほど無謀なことはない。いくら訓練を積んでいても隙を見て逃げ出したい状況だが、今の冴島にはそんなことは気にするようなことでもなかった。すでにNTBSビルの屋上で斬魔刀を持った化外剣闘士相手に戦った経験がある。万が一、この男に傷を負わされても魔法で痛覚をブロックすることで痛みも感じないし、動脈を切られても不老不死の術によって死ぬこともない。まさに、痛くも痒くもないのだ。
ヒップホルスターの銃を使うことも考えたが、素手で徹底的に叩きのめしたい気分だった。こういう人間には圧倒的な暴力によって、自分が他人に何をしたかということをわからせてやる必要があると思ったからだ。
冴島は両手をだらんと垂らしたままの自然体で近づいた。宿禰に言われた通り、脳の活性化によって反射神経は常人離れしてきている。わざわざ手を前に出して、岩崎の動きに反応するために身構える必要もない。
岩崎は右手に持ったナイフで大地の腹部を突くようにしてきた。太い動脈が走っている鎖骨上部や内腿などではなく、目の前の狙いやすい場所を突いてきた。正中線といわれる身体の中心線上は急所が集中している。急所の鳩尾ではなく、岩崎は腹部を狙ってきた。
冴島は岩崎の右側へ回り込み、右腕の外側でナイフを持つ前腕を押し退けた。次の瞬間、左肘が岩崎の顔面を捉えた。岩崎は冴島の初撃で、持っていたナイフを取り落としていた。ナイフは足元に転がり落ちた。
冴島はすかさず、岩崎の髪をつかむと同時に腹部に鋭い膝蹴りを入れた。掴んだままの頭髪を引っ張り上げるようにして岩崎の頭を持ち上げると、右手の拳で顔面を何度も殴った。
冴島陣本体の拳と違って、大地の手は拳の頂点である第三関節がゴツゴツしておらず、指は女性のように細くて長い。それが男を何度も殴ることで皮膚が裂け皮下出血や関節炎を起こしたが、瞬時に元どおりに治ってしまう。男の歯に当たって切れた拳の皮膚も、瞬時に治癒されて元通りになる。自らの治癒魔法ではなく、宿禰がかけた不老不死の術によって修復されている。そのため、冴島自身の法力を消費することもなかった。
顔が打撲で膨れ上がり、裂傷と鼻血で顔面は血まみれになった。
冴島は両手で岩崎の髪をつかみ、頭を下に引き落とした。そこへ左膝を突き上げ、顔面に叩き込んだ。
意識が朦朧としている男の髪をつかんだまま、引きずるようにして壁に押し付ける。そして、鳩尾に右拳を叩き込んだ。息を一気に吐き出して嘔吐でもするような音を発して、男は背を壁につけたままズルズルと床に座り込む。
冴島は力無く座り込んだ男の頭髪から手を離すと、落ちたナイフを拾うために岩崎から少し離れた。
岩崎は冴島の視線が落ちたナイフの方に向いたのを見逃さず、右手でスウェットパンツのウェストにつっこんでいたコピー品のトカレフを抜いた。
「その銃を撃って当たらなかったら、どうなるかわかるよな?」
冴島は探知魔法で男が銃を所持していることに最初から気づいていたが、あえて無視していた。拳銃の銃弾など魔術防壁で完全に防ぐことができるし、防壁を使わずに弾丸が当たったとしても自分を殺すことなどできないからだ。魔術防壁を使わないでいるのは、全能感からというよりも、こんな男相手に魔術を使うのが面倒臭いという方が正しかった。
岩崎はトカレフを2発続けて撃った。だが、冴島には当たらずに右側を通り抜け壁に当たった。
冴島は岩崎の方を向いたまま念動力を使って、管理パネルに突き刺さったナイフを手元に引き寄せた。一直線に大地を目がけて飛んできたナイフは、目の高さに構えた手の中に収まった。
「お前、銃を撃ったことないだろ。練習ぐらいしておけ。引き金の引き方がなってないぞ」
冴島は言うと同時に、手に飛び込んできたナイフを岩崎に向けて投げつけた。ナイフはトカレフを握っている岩崎の右肩に突き刺さった。
くぐもったようなうめき声が岩崎の口から溢れ出る。
「うあぁ……痛え……」
岩崎は激痛と冴島の本気の行動で態度が急に変わり、弱々しい声で懇願した。
「助けてくれ……」
「お前は、真粧美ちゃんや子供たちに助けてくれと言われて、やめたのか?」
冴島は足を前に放り投げるようにして座り込んでいる岩崎に近づくと、右肩に刺さったナイフの柄を握って右、左と回すように捻った。
男が痛みで絶叫した。
「お前は真粧美ちゃんにこういうことを何度もしたんだろ? 自分が何をやったか身をもって知ると良い」
冴島はナイフを肩から引き抜いた。
「安心しろ、出血多量で死なないようにしてやる」
岩崎の傷口の出血が冴島の治癒魔法で止まっていく。肩の傷から溢れ出て床に広がった再利用できる血が、傷口に戻りながら傷が治っていく。
男の顔は涙と鼻水、そして血で汚れ、痛みに引きつっていた。
「おまえ、なんなんだよ……関係ねえだ——」
「関係あるよ。見た目は違ってるが、俺はおまえが言ってたオッサンだ」
岩崎の前髪をつかむと、そのまま壁に頭を叩きつけた。
「俺は、今度この人たちに手を出したら殺すと言ったはずだ。覚えてるよな? 死神の片破れの家族に手を出したんだ、助かると思うな」
念動力を使って岩崎の怪我をした右手を上に伸ばすようにして壁に押し付ける。真粧美たちを甦らせる邪魔を岩崎にされたくなかった。握っていたナイフを岩崎の右掌に叩きつけるように突き刺した。
右掌を貫通してナイフの刃先が木製の壁に突き刺さる。岩崎が身動きできないようにするためだった。ピン留めされた標本の昆虫のように、岩崎をナイフで拘束する。痛みと恐怖で岩崎が呻いていたが、冴島は無視した。
「そこで少しおとなしくしていろ」
冴島は真粧美の傍までくると、片膝をついた。
「真粧美ちゃん、守ると約束したのに、こんなことになってすまない……許して欲しい」
冴島は迷うことなく三人を甦らせようとした。
愛梨を生き返らせた時に感じた、世の理に反する行為をするという罪の意識はある。だが、全ての罪は自分が負えば良いと冴島は思った。
愛梨の時と同じように、冴島は甦りの術を使うために自らにかけられた不老不死の術を起動した。薄黄色く光る円環状の三つの魔法陣が大地の身体を中心に浮かび上がった。さらに、その上方に、同じ魔法陣が複製されるように出現した。上部の魔法陣は急速に拡大し、一階部分を覆うほどの大きさになった。やがて、湊大地を中心にした小さい魔法陣は消失し、残された三つの大きな魔法陣がゆっくり回り始めた。三つのうち、甦りの魔法陣がひときわ強く輝いた。光は急速に膨張し、リビングに倒れている真粧美と、セーフルームの美亜、恭介を包み込んだ。
冴島は甦りの術からの反応に戸惑っていた。美亜と恭介の身体からは、次元境界にある次元鏡像と魂につながるリンクがすぐに反応した。だが、真粧美の魂につながるリンクから反応がないのだ。
真粧美の遺体は、すでに腐敗が始まっていた。メッセージが送られたのは八日前だ。そこから考えると、死後六、七日ほど経過している可能性がある。
宿禰が死刑囚を使って実験したのは、不老不死の術だ。不老不死の術を自らにかけていない宿禰では、甦りの術の実験は行えない。要は理論上可能というだけのことなのだ。甦りの術が死後どのぐらいの間まで有効なのかは誰にもわからない。
生きている細胞が残っていれば時間はかかるだろうが、その細胞の遺伝情報を使って治癒魔法によって肉体を修復させることはできるだろう。だが、記憶と魂は別なのだ。記憶は脳とバックアップの体細胞、そして次元境界の鏡像側にある。死滅した細胞から記憶をサルベージすることはできない。次元鏡像から記憶をコピーしない限り全ての記憶を戻すことはできない。魂も同様だ。
次元鏡像と繋がっている紐状のリンクがなければ甦生させることはできない。
だが、そのリンクからの反応がないのだ。何度試しても反応がなかった。
無理やり生き残った細胞から肉体を再生させたとしても、肝心の魂と記憶がなければ、生きた真粧美の肉体だけが存在するのみになってしまう。脳に障害を受けて植物状態になった場合、意識を取り戻す可能性はある。だが、真粧美が目を覚ますことは二度とない。甦りの術を強行すれば、下手をすると全くの別人の魂と記憶のリンクが真粧美の肉体と繋がってしまうかもしれない。
最後に会った時の真粧美の笑顔が脳裏に浮かんだ。そして巌から真粧美と子供たちを頼むと言われた時の記憶がよみがえる。
「ちくしょう!」
冴島は片膝をついたまま、怒りに任せて拳を床に叩きつけた。手の甲の中手骨が折れ、骨が皮膚を突き破った。それでも、怒りに支配された冴島は痛みを感じなかった。
通常なら、脳が身体の損傷を防ぐために筋肉の出力を抑える。だが、今の湊大地の身体では、その制御が働いていないようだった。不老不死の術によって、身体の破壊を考慮する必要がなくなったからなのかもしれない。
傷ついた拳は、不老不死の術によって瞬く間に修復されていく。折れた骨が接合され、破れた皮膚が再生し、血液さえも身体に吸収されていった。
湊大地の肉体が自然の摂理から外れていることを、冴島は改めて思い知らされた。自分と大地はどんなことがあっても、必ず復活する。だが、目の前に血まみれで倒れている真粧美は生き返ることはない。自分には死者を生き返らせる力があるのに、真粧美だけは生き返らせることができない。
突然、擬似人格の宿禰が語りかけてきた。
【魔法は万能ではない。宇宙の理というシステムの一部を利用できるというだけだ】
「ああ……わかってるよ。魔法使いが神になれないなんてことは、とっくにわかってるさ。だからこそ……もっと早く気づいていれば……」
【お前のせいではない。次元境界にある次元鏡像は、死んだ生物の記憶や肉体の情報を保持し続けることはできない。魂もまた、次の生へと移るために再利用される。研究によれば、死後およそ五日で、肉体と魂を結ぶリンクは切断される】
「だからなのか…………」
【そうだ。リンクが切れた以上、甦りの術を使っても魂と記憶を取り戻すことはできない】
「俺と大地くんもか?」
【お前たちは違う。不老不死の術で連結は強固になり、死んでもすぐに甦るし、時間が経過しても必ず甦る】
「俺たちは、不老不死の術で、普通の生物ではなくなっているんだな」
【そういうことだ……】
岩崎は湊大地から受けた殴る蹴るの暴行で悲鳴をあげている身体の痛みなど忘れ、目の前で展開されている光の魔法陣が空中に浮かび、回転する様子を驚愕の表情で見て言った。
「なんだ……何が起きてるんだ?」
冴島は、愛梨の死と同様に、真粧美たちが死んだ原因の一端は自分にあると考えていた。加多弥に止められて、広がって行く惨跛の術を解除しなかった。NTBSの魔術陣だけでなく人々の脳の中の術を解除していれば、ゾンビのために疎開をする必要もなく、岩崎は真粧美たちがこの場所にいることを知ることができなかったはずなのだ。
後悔に身を引き裂かれる思いだった。だが、そんな仮定に意味がないことは、冴島自身が一番よくわかっていた。
冴島の別の意識が子供たちの甦りを急がせていた。早くしないと子供たちのリンクも消えてしまうかもしれない。
冴島は子供たち2人の甦りに集中することにした。無駄かもしれないが、2人を甦らせた後に真粧美だけに集中して術をかけようと思った。
子供たち2人の身体につけられたナイフによる傷が修復されていく。
2人の様子を見ながら甦りの術を制御しながら、なぜ子供たちのリンクは残ったままなのか考えていた。
おそらく、子供たち2人は襲われている母親に、セーフルームに逃げ込むように言われたのだろう。閉じこもっていたセーフルームから出てきたところを岩崎に襲われたことで、真粧美とは死亡した時が異なったということだと思った。
……2人は助けられる……
冴島は2人を助けることに集中した。
殺された時の記憶を2人は記憶しているだろう。冴島は2人が目を覚ます前に、2人がセーフルームから出てからの記憶を記憶操作の魔法で消そうと思った。
甦りの術から発せられる光を浴びて子供たち——小谷美亜と恭介の身体につけられたナイフによる傷は全て治癒され、顔に血の気が戻っている。治癒魔法の力を使って身体の状態を確認すると、生命反応があり心臓も正常に拍動していた。2人は死から甦った。愛梨のときと同じように、2人が目を覚ますまでには半日以上かかるはずだった。
冴島は改めて真粧美に甦りの術を使うために、真粧美の傍に来ると片膝をついた。
甦りの術が展開されるが、今回も次元境界につながる真粧美のリンクからの反応がなかった。
冴島は横たわる血まみれの真粧美の顔を見ながら言った。
「真粧美ちゃん……ごめん……許してくれ……巌に託されたのに……」
肩を落として独り言を言っている冴島の背後から声がかけられた。
「あなた誰?」
冴島が声に驚き振り返ると、そこには血飛沫が飛び散った服を着た美亜が立っていた。
…………なぜ、こんなに早く目が覚めているんだ?……
2人とも、半日以上は目を覚まさないはずだった。それなのに、美亜はすでに立ち上がり、冴島の背後にいた。
「うわっ、なんで生きてるんだ!」
岩崎が自分が殺したはずの義理の娘が立ち上がって、若い男に話しかけているのを見て絶叫した。
そのとき、背後から冴島が嫌になる程聞いた、不快なうめき声が聞こえた。対象に緊張と恐怖心を与えるために魔術で発生させている唸り声やうめき声だ。その音の発生源である女性の惨跛壱式が、開きっぱなしのドアから突然入ってきた。冴島が玄関を入った時に鳴った警告音を聞きつけてここに来たのだろう。
転移魔法で直接ここに来たため、周囲の状況を冴島は見ていなかった。探知魔法も家の周囲と中を限定していたから、探知範囲の外側に惨跛壱式がいたことに冴島は気が付かなかったのだ。
冴島はヒップホルスターから銃を抜くと、反動がまったくない銃を片手で構え惨跛壱式の額を一発で撃ち抜いた。乙位階探知魔術で周囲を調べると、十数体の惨跛壱式が取り囲んでいることがわかった。冴島は念動力を使って玄関先で頭を吹き飛ばされて動かなくなっている惨跛壱式の身体を外に吹き飛ばすと、玄関ドアも閉めて鍵をかける。そして一階の窓の外側の防弾機能をもつ鎧戸も念動力でついでに閉めていく。誰も手を触れていないのに、玄関ドアや鎧戸が閉まって内部でロックがかかっていった。これで惨跛壱式であれば何十人来ても入ってこられない。
美亜はゾンビがドアから入ってきたあとに、目の前の若い男が銃を撃ったこと、そしてドアと鎧戸が勝手に閉まっていくのを見て言葉が出なかった。
冴島が美亜の方を見ると、美亜の喉の付け根に、愛梨と同じような薄黄色い光が肌を透かして薄ぼんやりと光っていた。だが、愛梨のように、光はすぐには消失しなかった。美亜が早く目覚めたことと関係があるのか、冴島にはまだ判断がつかなかった。
美亜が絞り出すような声を出して、目の前の男に質問した。
「……あなた誰? なにが起きたの?」
冴島は愛梨に言ったのと同じストーリーを使おうとした。
「俺は……冴島さんに頼まれて……」
「嘘言わないで! 陣さんが頼んでるのは弁護士さんと相澤さんだけよ。それ以外に私たちのことを誰かに頼むことなんて絶対しないんだから!」
「本当だ。軍で世話になった冴島さんに頼まれて、来たんだ」
「じゃあ……なんで、おかあさんと伯父さんを真粧美ちゃんと巌なんて呼ぶの?」
冴島は心の中で舌打ちした。
……聞かれてたか…………
「あなた誰なの?」
美亜は、これまで見せたことのない険しい表情で問いただした。
警戒心が高すぎる美亜を見て、嘘は通用しないだろうと冴島は判断した。冴島はズボンのポケットから石原巌のドッグタグを取り出すと、美亜に放り投げた。
「巌の認識票だ」
美亜は放り投げられたドッグタグを両手で受け止め、表面の刻印を確かめた。
「伯父さんの……なんで、あなたが持ってるの?」
湊大地は警戒している美亜に近寄らないようにして、向き合った。
「信じられないだろうが、俺は冴島だ。見た目は別人だが、中身は美亜が知ってる冴島陣本人だ」
驚いたような唖然としたような、なんとも表現しづらい表情をした美亜がしばし沈黙した後に、口を開いた。
「なにふざけたこと言ってるの? じゃあ、ほかに証拠は?」
「俺はお前の伯父さんの石原巌と自衛隊時代にバディを組んでいた。お前が6歳の時、巌は国外の戦地で俺を助けて戦死した。巌の墓には、あいつの遺髪しか入っていない」
美亜は少し驚いた顔になった。
「ほかには、そうだな……美亜と俺しか知らないことだと……将来を相談されたな。看護師になりたいって。学費の心配をしてたから俺が出してやるから心配するなって言ったはずだ。それと、小学生ぐらいの時にバツイチの俺と結婚してあげるとか言ってたぞ。あとは……オペ看になれたってメールで知らせてくれたな。娘の愛梨と美亜は3歳違いだったな。もう24歳か?」
警戒していた表情が呆然としたものに変わっていく。
「うそ……ホントに陣さん?」
「ああ、イケメンになっただろ?」
「なんで……どうして……」
そこまで言って、美亜は冴島を非難するように言った。
「来るの遅いよ! なにしてたの!」
美亜はそう言った直後、自分の服が血まみれなことに気がついた。そして、湊大地の背後の床に、血まみれで倒れている母親を発見し、叫んだ。
「おかあさん!」
横をすり抜けて母親の元に行こうとする美亜の腕をつかんで引き止めた。
「今は見ない方がいい。お母さんは死んでる」
「やだ! おかあさん!」
冴島は美亜を引き寄せると、両肩をつかんで美亜と正対する。
「落ち着け! 恭介は無事だ。だが、おかあさんはもう死んでいる」
「うそ! なんで……どうして……」
「取り乱すな。俺がついている……冷静になるんだ」
20代後半の見知らぬ男の顔が美亜の目の前にあった。中身は冴島だと思っても違和感がある。だが、今はそれどころではなかった。
「なんで、おかあさんが……」
泣きじゃくる美亜に真実を言うわけにはいかない。美亜が知らないうちに写された写真が原因で母親が死んだとは、冴島には口が裂けても言えなかった。
「ゾンビ騒動であいつがこっちに逃げてきたんだ。この近辺でお前達のことを知ったらしい」
冴島が言った「あいつ」という言葉に美亜が反応した。
「あいつ、どこ行ったの?」
冴島は頭と視線を、ナイフで掌を壁に打ち付けられてグッタリしている岩崎に向けた。
その方向を見て、美亜が叫んだ。
「お前、ふざけるな! おかあさんに……」
美亜は言葉を続けることができなかった。
冴島は美亜の肩を強くつかんだ。
「こっちを見ろ! いいか、これからどうするか考えるんだ。お前達のお母さんのことだ、お前が決めるんだ」
え?という顔をして、涙に濡れた美亜が見返してきた。
「真粧美ちゃんをあのままにはしておけない」
美亜はうなずいた。
冴島は二度目の甦りの術を制御しながら、真粧美を甦らせられなかった場合のことを考えていた。
そのとき、三つの選択肢を考えていた。
「今はつらいだろうが、これからのことを決めなければならない次の3つから選ぶんだ。1つ目、警察に連絡する。2つ目、おかあさんを魔法で身体だけ元に戻す。お前の病院の先生に心臓麻痺などの死亡診断書を書いてもらう。3つ目、おかあさんの遺体を魔法で灰にして警察に行方不明届を出す。おかあさんのお墓のことや、お前たち二人の心の整理のためだ」
「そんなの、選べないよ……魔法って何? 陣さんってわかるけど、なにがなんだかわからないよ……」
「言ってなかったが、俺は病気で死ぬ寸前なんだ。ある魔法使いに身体を入れ替えてもらって、ここにいる。俺も魔法を使えるんだよ」
「なに言ってるの? 魔法? ふざけてるの?」
「こんな時にふざけたりしない。目の前にいる湊大地という青年の身体を借りてるんだ。俺が冴島だっていうのは理解できたんだろ?」
「……」
冴島は事実を正直に言うしかないと、腹を括った。
「美亜も恭介も、あいつに殺されたんだ。俺が魔法でお前達を生き返らせた。おかあさんは助けられなかったが……」
それを聞いて、美亜は自分が岩崎に襲われたことを思い出したようだった。
「ねえ、生き返ったってなに? 私、死んじゃったの?」
「そうだ、美亜と恭介もあいつに殺された」
「そうだ……恭介が襲われて……ねえ、なんで、おかあさんだけダメなの?」
冴島は目を逸らさずに美亜の目を見返した。
「すまない……おかあさんは時間が経ち過ぎてる……間に合わなかった」
「いやあ、おかあさん!」
美亜は泣きじゃくった。
冴島は美亜を抱きしめた。それしかできなかった。
美亜が泣き疲れて落ち着くまで、そのまま美亜を抱きしめていた。大地の胸に胸をうずめながら、美亜が感情を殺したような静かな声で言った。
「陣さん……警察に連絡したら、あいつはどうなるの?」
岩崎が警察に捕まった後のことを言っているようだった。
冴島は抱き締めている腕の力を緩めて身体を離した。
「美亜と恭介は生き返っている。裁判をしても、おかあさん1人を殺しただけなら刑務所で反省したふりをしていれば、いつかは刑務所から出てくるだろう」
「それだけ?」
「ああ、だが、そんなことは俺がさせないから安心しろ」
美亜が頷いた。
「美亜が決められないなら、俺が決める。それでいいか?」
「うん……私には決められないよ」
「ゾンビ騒動で警察も人手が足りないだろうが、警察に連絡するのが一番正しい方法だろう」
「でも、あいつはおかあさんを殺したのに死刑にならないんでしょ?」
「警察に連絡する。だが裁くのは奴らだ」
そう言って、ドアの方を親指で指差した。
「奴ら?」
「外にいるゾンビだよ。家の周りを取り囲んでる。警察には岩崎がおかあさんを殺した後に、ゾンビに襲われて死んだと言うんだ。逃げ込んだお前達がセーフルームから出てきたら、そうなってた。それでいいか?」
その会話を聞いて岩崎が騒ぎ出した。
「ふざけるな! なに勝手なこと言ってやがる!」
冴島は言った。
「この人たちに手を出したら殺すと警告しただろ? 俺に殺されてもいいからやったんだよな?」
「違う! 話を聞いてくれ!」
冴島は岩崎に近づくと、顔を近づけて胸ぐらをつかんだ。
「俺は大戦で大事な人たちを守るために、敵兵を何人も殺してる。殺人狂ではないが、国外の戦場で恨みもない敵兵に銃を向けて殺してもいる。だが、お前だけは、怒りと憎しみで殺したいと思ってる」
つかんだ胸ぐらを押し返すようにして、岩崎の頭を壁に打ち付ける。
「俺が巌だったら、お前はとっくに生きたまま八つ裂きにされて、その辺に手足が転がったまま死んでるぞ」
「頼む……違うんだ……俺は——」
冴島は、岩崎の言葉を最後まで言わせなかった。
「因果応報っていうやつだ。人の命を奪ったら、自分にもその番が回ってくるんだよ。俺だってそうだ。さあ、生きたまま食い殺されろ」
そう言って、冴島は岩崎の掌のナイフを引き抜くと、念動力で岩崎を玄関ドアの方向に吹き飛ばした。
岩崎がドアにぶつかる前に、鍵が勝手に開き誰も手を触れていないのにドアが外に開かれた。ドアの前に集まっていた惨跛壱式たちが、開いたドアにぶつかって向こう側に倒れていった。
その上に念動力で飛ばされた岩崎が乗っかった。それを家の中で見ていた冴島は、念動力で玄関ドアを閉めて鍵を閉めた。
岩崎が手も触れずに外に投げ出され、ドアが閉まる様子を見ていた美亜の目は驚愕で見開かれたままだった。
防音処理されたドアや窓越しに、岩崎の絶叫がかすかに聞こえてきた。だが、その声もしばらくするとしなくなった。冴島が探知魔法で家の周囲を調べると、人間の姿をしたものが二十体ほど蠢いていた。しかし、いずれからも生命反応は感じられなかった。
「今のが魔法なの……?」
「違う、今のは——」
話している時に、大地の腕の時量師から呼び出し音が鳴った。スクリーンの通話のアイコンをタップすると、腕の前にスクリーンが表示され、綿津見が映った。
《湊さん、霊牟璃堊で動きがありました》
「わかった。今立て込んでるから、折り返す。少し待ってくれ」
綿津見はなにも言わずに通信を切った。
冴島は美亜に向かって言った。
「これから、この近辺のゾンビを無効化する。そのあとに俺は行かなければならない」
冴島が見たこともない腕時計で会話をしているのを見て、美亜は声が出そうになった。通話の邪魔にならないように我慢したが、空中に画面が表示されるようなものはネットでも見たことがなければ、聞いたこともなかった。銃を持ち歩いていて、こんな腕時計を持っているだけで、冴島が面倒なことに巻き込まれてることが美亜にも理解できた。
「行くって、どこに行くの?」
「南極大陸だ」
「南極?」
「真粧美ちゃんが死ぬきっかけになった、ゾンビ騒動を起こした奴らのところだ」
「すぐに戻って来られるの?」
冴島は考えるような表情をして美亜から目をそらした。
「すぐには無理だろうな」
「陣さんがいない間、私はどうしたらいいの?」
「まず最初に、警察におかあさんが岩崎に殺されたと通報するんだ。俺は相澤と弁護士の下村に連絡しておくから、あいつらの指示に従うんだ。それから、恭介は1日もすれば目を覚ますから心配しなくていい」
冴島はセーフルームの床に飛び散った美亜と恭介、そして岩崎の血液を魔法で壁と床から分離した。血液は掌の5センチほど上で球状になって1つになって浮かんでいた。
「これがあると、警察の現場検証で面倒なことになるからな。警察には真粧美ちゃんのことだけ調べさせれば、それでいい」
そうつぶやくと、青白い魔術紋が飛び交い、血液の球は蒸発するように消え失せた。
続けて魔術を発動させた。惨跛の術から発生した脳で待機している術の解除を行うためだ。東京と大阪の両方からN県に逃げてきている人々がいるかもしれないため、両地域の魔術陣を記憶から呼び出すと術を解除した。セーフハウスの外のゾンビ達が倒れて、電池が切れたオモチャのように動かなくなった。
「この周辺のゾンビは無効化したから安心していい。真粧美ちゃんもゾンビにならないから安心してくれ」
「陣さんがいない間なんだけど……」
「ああ……」
「警察にはあいつが突然来て、ナイフで襲ってきたから私たちはあの部屋に逃げたって言えばいいんだよね?」
「そうだ。時計がない部屋だったから何日間かわからないけど、出てきたらおかあさんが死んでたって言うんだ。余計なことは言わなくていい。外のゾンビの残骸から岩崎のDNAが見つかれば、あいつがゾンビに襲われたことを裏付ける材料になるだろう。それから、そこに落ちてる岩崎のナイフは触らないようにするんだ」
「うん、わかった…………でも、あいつのことあんな風にして殺してよかったの? あいつのことは殺してやりたいほど憎いけど……」
「お前が気にする必要はない。俺が司法の代わりに裁いてやったと思えばいい。あいつをゾンビの群れに放り出したのは、殺される恐怖を味わわせるためだ」
美亜は素直に頷く。
「警察にいうことはわかった……」
「警察がいなくなった頃に一度戻ってくる。警察とのやりとりは弁護士の下村の言う通りにするんだ。話は弁護士が来てからするって言えばいい」
目の前の青年の心が冴島だというのがわかっても、見た目が全く違うために、美亜はふと強い違和感に襲われる。自分と冴島しか知らないことを知っていたり、弁護士や便利屋の名前を普通に出してくる。だが、本当に冴島陣なのだろうかと疑いの目を向けてしまいそうになる。
「……うん……ねえ、本当に陣さんなんだよね?」
「疑うのは当然だ。見た目は湊大地という29歳の青年だが、中身は美亜が知ってる56歳のオッサンだ……あ〜美亜が高一ぐらいの時に、ほら……見ちゃっただろ」
「あー! それ忘れなきゃダメなヤツ!」
美亜は顔を真っ赤にした。
「絶対、陣さんだ!」
湊大地は笑みを浮かべていた。
「誰にも言わないから、安心しろ」
空間転移しようと思った時に、冴島は大事なことを言うのを忘れていることに気がついた。
「下村と相澤には俺がこういう風に別人になっているというのと、病院で死にそうになってるというのは内緒だ。それから、誰かいるところでは、俺は湊大地だ、いいね?」
「うん、わかった。陣さん、伯父さんのこれ、どうしたらいい?」
美亜が巌のドッグタグを冴島に見せた。
「美亜が持っていなさい。真粧美ちゃんが受け取ってくれなかったけど、本来は俺が持っているものじゃないからな。家族が持つべきだ」
「恭介……でいいかな? 私より恭介が持ってた方がいい気がする」
「どうしてだ?」
「恭介は伯父さんのこと怖いって言ってたけど、けっこう懐いてたから」
「そうだな……判断は美亜にまかせるよ」
冴島はそう言って、亜空間から予備の時量師を取り出した。
「これを腕につけるんだ。あとで、これに連絡する。コールがあったら、表示されてるアイコンを触ればいい」
冴島は玄関ドアを開けると、動かなくなった惨跛壱式の傍を通り抜け、脱ぎ捨てていたジャンパーを拾った。
ナイフをシースに入れて、ジャンパーの内ポケットにしまう。
開いたドアの内側から、冴島の様子を見ていた美亜に向けて冴島は言った。
「俺が行ったら、玄関の鍵を閉めて警察に連絡するんだぞ」
「うん……」
「南極に行く前に必ず戻るから心配するな。それから、自分が死んだ記憶で苦しむようだったら、すぐに言うんだ。その時の記憶を魔法で消してやる」
湊大地の周囲を、薄黄色い文字が光りながら飛び交った。陽光が屈折して湊大地の姿が歪んだ直後に、湊大地の姿は跡形もなく消えてしまった。
「陣さん……本当に魔法使いなんだ……」
美亜がポツリとつぶやいた。




