仁徳天皇陵の戦い III
愛梨は数歩前に進むと、頭を左から右にぐるっと動かして、前方三面の壁を見回した。
目の前の壁の中央には頭部が8つある、龍のような絵が描かれていた。その絵を挟むように、大量の線画とも文字とも言えないようなものが大量に描かれている。
「これってペトログリフっていうのですよね? この絵は頭が8つある龍なのかな、蛇なのかな……」
愛梨は、冴島に向かって言うと、屈託のない笑顔を見せた。
「危険な状態で、どうして笑っていられるんですか?」
冴島は、湊大地の整った顔で不思議だという表情をしながら、愛梨に聞いた。
「誰も知らない、初めて見つかった遺跡ですよ。そういうのって心弾むじゃないですか。1人だったら不安で、そんな余裕ないけど……今は魔法使いの湊さんがいるから安心していられるんです」
自分の実力を知っている冴島は、愛梨の過大評価に困ってしまった。
「ゾンビぐらいならなんとかなるけど、さっき攻撃してきた奴は全然違います」
「でも、また助けてくれたじゃないですか」
下から覗き込むようにして愛梨は笑顔を見せた。
自分を気遣ってくれているのかもしれない、冴島は思った。
「なんとかなったというだけです。慎重に行きましょう」
そう言って、冴島は周囲の壁面を見回した。
壁面の文字と絵を瞬時に記憶する。湊大地の瞬間記憶という能力によるものだ。
「神威龍衝……神の如き光の龍……8つの頭部を持つ光の龍を呼び出す魔法の文言と術式。それと術の発動イメージと制御方法が書いてある」
「湊さん、これ読めるんですか?」
……他人の記憶と知識で読むことができるなんて言ったら、愛梨はどう思うのだろう……
冴島は、そのようなことを思いつつ、なんと答えたら良いものか思案した。独り言のように口から出てしまった言葉は、魔法でも取り消すことはできない。愛梨の記憶を消すしか、その方法はなかったが、そんなことをするつもりはなかった。
「魔法使いは魔法を使う時の言葉として、神代文字というのを使う。だから、ここに書いてある文字を、俺は読むことができるんです」
愛梨は独り言のように言った。
「魔法……そっか、魔法使いだからなんだ」
「俺が知ってる文字とは少し違うけど、パターンがあるから推測して読める感じかな」
愛梨が右側の壁を指差して言う。
「そういえばこういう古代の壁画とか文字って、世界中にあるんですよね」
冴島は考古学的なものにはあまり興味がなかったが、本好きということもあってペトログリフという言葉や壁画の存在ぐらいは知っていた。
「そういうのに詳しい?」
「世界の不思議を紹介するクイズ番組の、アシスタントをやっていたことがあるんです。日本にも洞窟だったり、岩だったり、神社に不思議な文字が残されてるんですよ」
……亜雅籠垞の人々が地上にいた時のものだとしたら、年代が全く違う。地下に行かなかった魔導師たちが造った術を残したものなのかもしれないな……
「湊さんは、どうやって魔法を勉強したんですか?」
不意に、思索を途切れさせるように愛梨が聞いてきた。
「えっ? ああ……」
娘は話しやすいように、フランクな口調で喋っているようだった。自分もそれに合わせることにする。
正面の壁画を見つめたまま、冴島は愛梨の質問に応えた。
「それは秘密。魔法使いは秘密にしないといけないことが多いから」
「え〜、秘密なんですか? 軍で秘密に研究してるとか?」
冴島は、そんな訳ないだろうと心の中で苦笑いした。
「自衛隊と国防軍の両方とも、そんな研究をしてるって聞いたことはないかな。仮に研究していたとしても、俺の階級じゃ知らされるはずもないし」
「湊さんって階級はなんだったんですか?」
「中佐……いや、少尉。あと少ししたら中尉になってたかも」
愛梨と会話をしながら、冴島は壁面の文字の内容を理解しようとしていた。
「少尉さんって偉いんですよね?」
「そこそこ偉いかも……」
冴島は、軍に関わることを愛梨と話したくなかった。愛梨の母親の愛海のことを思い出してしまうからだ。
「ここに書いてある魔法って、ゲームとかでいう召喚魔法っていうのですか?」
「違う……そういうものじゃない。そんなことより……」
冴島は湊大地の腕に着けていたスマートウォッチを外すと、愛梨に手渡した。
「これを腕につけて。そのうち通信が取れるようになったら、綿津見が俺宛に必ず連絡してくる。これのある座標に対して、空間接続をするように伝えて欲しい」
「湊さんは、これ必要ないんですか?」
「俺は、外に出てさっきの連中の相手をしてくるから必要ない」
「どうして? 一緒に移動すれば良いじゃないですか」
「この一帯は、通信と視界だけじゃなく、探知魔術を妨害する霧に覆われている。霧が消えたら、連中は俺たちを探すための魔術を使ってすぐにここに攻撃を仕掛けてくる。俺1人だったら空間転移の魔法で逃げられるから心配しなくていい。早く腕につけて」
そう言って、冴島は愛梨にスマートウォッチを着けるのを促した。
「私一人だけ逃げるんですか?」
「さっき言ったように、俺の魔法では愛梨さんを連れて逃げられない。君を逃すには、綿津見にどこかに空間接続のゲートを作ってもらわないといけない。その時間稼ぎだ」
「でも……一人でここにいるのも怖いし、私だけ逃げ出すのってどうなのかな……」
冴島は正面から愛梨の顔を見た。
「俺が敵を引きつけてるから大丈夫。それに俺一人の方が動きやすいから」
愛梨は、不安と完全に納得していないといった、表情がないまぜになったような顔をした。
「わかりました……気をつけてくださいね」
どうやら、大地が言うことに、従うことにしたようだった。
「大丈夫、俺だけならなんとかなるから」
冴島は、湊大地の端正な顔を微笑ませて、愛梨を安心させようとした。だが、その物言いは同年代の若者同士の言葉のやり取りというより、父親が娘を諭すような言い方だった。
愛梨が腕にスマートウォッチを着けたのを確認すると、冴島は穴の空いた場所に向かって出て行こうとした。愛梨に背を向けたところで、思い出したように顔を向けた。
「そうだ、綿津見と連絡が取れたらドローンで援護するように伝えてくれるかな。少しでも楽をしたい」
そう言って出て行こうとする冴島に、愛梨は声をかけて引き留めた。
「ちょっと待ってください」
愛梨は視線を湊大地から外し、腕のスマートウォッチに向けながら言った。
「湊さん、どうしても聞いておきたいことがあるんです」
「今? あまり時間がないから簡潔に」
「私を助けるようにって頼まれて、会社に来てくれて……今も私を助けようとしてくれてる」
「……そうだね」
愛梨は、見上げるようにして背の高い湊大地の目を見つめた。
「本当に冴島さんっていう人に、頼まれただけなんですか?」
真剣な眼差しが、嘘を言わせないという無言の圧をかけているようだった。
「……」
冴島は、答えに窮した。本当のことを言えるはずもなかった。言ったとして、信じてくれるのか。そして、真実を言ったら愛梨はこの先も、その身を守らせてくれるのだろうか。答えは出ない。なら、今まで通りにするしかなかった。
「お金のためっていうなら、まだわかるんです。でも恩があるからって、それで命懸けで見知らぬ人を助けにいくっていうのが、私には理解できないんです」
寝起きで転送に巻き込まれたからだろう。童顔で目が大きい愛梨は、今は化粧をしていない。だから普段よりも若く少し幼く見える。大学生と言っても誰も疑わないだろう。
そんな娘が自分の置かれてる状況を客観的にみている。立派になっていることを実感した。こんなことまで考える年齢になったのだと思った。
「ゾンビがたくさんいるところに一人で助けに行くとか、普通じゃないですよね? そのおかげで私だけじゃなくて、イブさんも助かったけど……」
嘘を言うのは辛いところがあったが、冴島は嘘を突き通すしかなかった。
「ああ、冴島さんに頼まれたのはだいぶ前だから……ゾンビのことは関係ないかな」
「冴島さんは、湊さんが魔法を使えるのを知らなかったの?」
「知らないし、魔法のことは秘密だからね。何かあったら助けてやってくれと言われただけ。それだけだよ」
「だからと言って、こんな大変なことになっていても、約束を守ろうとするなんて……」
冴島は、最初に葛城宿禰から依頼された時のことを、言おうと思った。その時には、愛梨を今のように守ることになるとは、思っていなかったが。
「俺は軍を辞めるつもりだったけど、気持ちは国防軍人のままなんだ。東京と大阪を……日本をこんな風にした連中をそのままにして放置するわけにはいかない。魔法なんていう力を使える者の責任だと思ってる」
本音は娘が住んでいる日本という国を、地下からきた訳のわからない連中から守るためだった。しかも他人の身体とはいえ、ベッドに寝たきりの状態から解放されるという特典付きである。
「他の国も大変なことになっているみたいだけど、そんなのはその国の政治家や軍人がなんとかすればいいことだ。俺は、あいつらのやってることが、日本に悪い影響を及ぼすのがわかってるから戦ってる」
愛梨は何も言わずに、湊大地が言っていることを大きい目で見つめながら聞いている。
「その延長線上で君を守っている。だから、今こうして戦っているのは、冴島さんに頼まれたからだけじゃない」
愛梨は何か考えているようだったが、何も言わなかった。
そう言うと、冴島はその話題を打ち切ろうとした。
「もう時間がない。無事に帰れたら、その時にその話をしよう」
愛梨は言葉を発さず、ただ頷いた。
「答えは変わらないと思うけど」
そう言うと、冴島は地下空間から駆け出していった。
魔法の霧で周囲の音はかき消されている。静まり返った玄室のような部屋の中に一人取り残された愛梨は、急に不安になった。
部屋の壁に背中を預けるようにして座り込んだ。湊大地から渡されたスマートウォッチのディスプレイと、握っている精霊剣を交互に見た。
「早く綿津見さんから連絡来ないかな……」
愛梨は右手に持った精霊剣の緑色の刀身に視線を止めた。セーフハウスのマンションの屋上で使った精霊魔術が脳裏に浮かんだ。
正義感の強い愛梨は、一人で逃げろと言われたことに、まだ納得していなかった。
*
冴島に転移魔法で逃げられてしまった村雨と石巌は、冴島が投げ捨てていった銃のところで合流していた。
村雨と石巌の目の前には、狙撃銃が落ちている。石巌が狙撃銃を拾い上げた。
「この狙撃用の銃の見た目は、天両屋国――高天原を守護する一国、のものに似ていますね」
「天両屋が、我が国のお家騒動に関わっているとは思えないな。奴らの銃を真似ているだけだろう」
「だとしても地上への情報流出は考えられません。地上の連中が真似て造ったというのは無理があります。しかも軍用の特殊な銃ですから」
石巌は拾った銃を構えると安全装置らしきものを確認してから、誰もいない方に向けて引き金を引こうとした。だが、引き金はロックされた状態で動かなかった。
「この銃は登録した者しか使えないようですね」
「ということであれば、天両屋の銃ではないな。軍の銃に使用者を限定することは意味がない」
「そうなると……」
村雨は、難しい顔をして考え込むようにして間を取ると、絞り出すような声で応えた。
「加多弥様が関わっているだろうな……」
「可能性は高いですね……」
二人の間に沈黙が流れた。それを嫌うかのように、石巌が言った。
「この後、どうしますか?」
「私たちの任務は、帝の門から来る可能性のある亜雅籠垞の追手を迎え打つこと、惨跛の術を守ることの2つだ。さっきの法術師――魔法使い、が地上の者であれば、惨跛の術を解除するのが目的の可能性が高いだろう。加多弥様の支援があることを考えると、帝の門の奪還かもしれない」
「奴を探さなくても、向こうから来るということですね」
「そういうことだ。所定の位置に戻るぞ」
石巌は持っていた狙撃銃を投げ捨てると、村雨を先導するように斜面を歩き出した。
二人で斜面を歩いていると、石巌は思い出したように村雨に言った。
「そういえば、あの法術師以外に女が一人いました」
「女? 伊予二名の人間か?」
「探知魔術を使ったときに発見したのですが……攻撃を仕掛けようとしたら突然斜面を下って逃げ始めました。黒髪で背は低め……上下同じ模様の薄い生地の服を着ていました」
「その女も法術師か?」
「この場にいる私たち以外は敵ですから、攻撃を試みたのですが反撃に遭いました。しかしながら、その女は逃げるだけで反撃をしているようには見えませんでした」
「その女を守るために、さっきの法術師が貴様を攻撃してきたと言っているんだな?」
「そのように感じました」
「その女の装備は? 武装していたのか?」
「法術師と女の装備は明らかに異なっていました。女は軽装で、戦闘のための装備は持っていないようでした」
「何者だろうな」
石巌は歩みを止めると、振り返った。
「二手に別れてもよろしいでしょうか?」
村雨は目の前で立ち止まった石巌を見上げた。
「戦力分散は敵を有利にするぞ。しかも、敵は法術師だからな。」
石巌は村雨の目を見てから、少し目を逸らし、また村雨の顔に視線を戻した。
「探知魔術で女が反転攻撃してこないか確認したのですが、反撃を受けた場所に不自然な窪みを探知しました」
村雨は眉をひそめた。
「その場所に隠れてるかもしれないということか?」
「わかりませんが、気になります」
「確認しに行く価値はあるかもしれないが……わざわざ探すようなことをしないで、残った者たち全員で帝の門の前で迎え撃てば良いのではないか?」
「奴はその場所に隠れ、我々の裏をかいて逃げようとしているかもしれません。爪牙殿を狙撃した者を、みすみす見逃したくないと言うのが本音です」
「そういえば、貴様と爪牙殿は何度か任務で一緒になったことがあったのだな……」
「はい、二人で組んだこともあります」
村雨は知っているいうことを示すために、頷いた。
「さっきの窪みを探知した時だが、その時に法術師は探知できたのか?」
「狭い範囲で甲位階探知を行ったので、近くにはいませんでした。こちらの正確な位置を知られる危険性があったので……」
「その女と法術師が仲間という確証はないわけか……貴様の見える範囲にも、探知範囲にもいない術者が、女を守りながら攻撃してきた可能性は低そうだがな」
「私たち魔術師は、法術の簡単な知識しか有していません。私たちに気づかれず、正確な探知が可能な法術を使っていたとしても、不思議ではありません」
「言いたいことはわかった。気になるという窪みに、敵が隠れていないか確認してきてくれ。私は、帝の門で他の者たちと合流する。確認し終わったら、すぐに戻ってこい」
「はっ! ありがとうございます」
そう言うと、石巌は自分が待機していた場所の方向を目指して、斜面を駆け登っていった。
村雨は帝の門の方向に斜面を歩き始めた。斜面の上方を見ると、霧が薄くなってきていることに気がついた。
無意識に思っていることが言葉になって、村雨の口からこぼれ出た。
「もう奴は攻撃してくるつもりはないのかもしれないな……」
*
直径80メートル程度の霧のドームの直上に、攻撃用ドローンの闇御津羽と偵察用ドローンの荒覇吐が、ピッタリと停止したような状態で周囲の情報を収集していた。霧の中の超小型ドローンは、自律モードで待機している。
魔法の霧が薄れてきたところで、綿津見が反応した。
「加多弥様、通信再開しました。闇御津羽、荒覇吐の高度を下げます」
綿津見は無表情だったが、瞬間、表情に揺らぎが現れた。
「生体反応確認、生体認識情報が湊さんの肉体と一致しません……愛梨さんの認識情報と一致しました」
加多弥が聞き返す。
「どういうこと?」
「愛梨さんが、冴島さんの時量師―― スマートウォッチ型の通信機、を装着しているようです。確認します」
綿津見は、加多弥に状況がわかるように、自身の通信機能ではなく瀬織津の通信機能を使って愛梨への通信を試みた。マイクに向かって話しかける。
「愛梨さん。どうして湊さんの時量師を着けているのですか?」
《え? 綿津見さんですか? あれ? ちょっと言葉が……》
愛梨は寝る時にイヤーカフ型の翻訳機を外していたため、そのままの状態で仁徳天皇陵に来てしまっていた。現代の日本語に近い言葉だったが、自分と大地の名前以外は何を言っているのかわからなかった。
綿津見は愛梨が翻訳機をつけていないことを思い出し、日本語で話しかけた。
「どうして湊さんのスマートウォッチを着けているのですか?」
今度は愛梨が理解できる日本語だった。
《この場所に空間接続ができるまで、時間稼ぎをするって言って、私に腕時計を渡して一人で出て行きました》
加多弥の視線上方にある空中のディスプレイに、愛梨の座標が表示された。
「愛梨さんの座標を確認しました。その場所に空間接続するようにと、湊さんに言われたのですね」
《そうです》
「空間接続のためのエネルギーチャージが終わったら、すぐに空間接続を行います。夜叉様の方にも空間接続行う準備をするので、少し時間をください」
《わかりました……夜叉さんもここにいるんですか?》
「はい、現在、湊さんと夜叉様は作戦行動中です」
《どのぐらいかかりますか?》
「適切な場所に空間を接続するので、その候補地選定と座標計算に時間がかかります。数分待ってください」
加多弥が口を挟んできた。
「接続先は瀬織津にしなさい。夜叉はどうしてるの?」
傍で様子を伺っていた阿修羅が、驚いたような声を出して反論した。
「加多弥様、いけません。ここに村雨たちが、侵入する可能性があります」
「あなた達がいるのだから、大丈夫でしょ? それに魔法使いの私がいるのだから問題ありません」
琥珀が言う。
「追儺としては、王女様を危険に晒すようなことには賛成できないよ」
加多弥は阿修羅と琥珀の方を見もしなかった。
「命令です、夜叉は瀬織津の格納庫に、愛梨さんはここに接続しなさい。阿修羅、格納庫に行って侵入を阻止しなさい、良いですね?」
「しかし……」
阿修羅の言うことなど聞いていないように、加多弥は綿津見に指示を出す。
「綿津見、瀬織津内の隔壁を閉鎖して、防御機能を起動しなさい」
「了解しました。愛梨さんと夜叉様の撤退用の空間接続先を瀬織津内に設定します」
近くの隔壁の閉鎖する小さい音が、加多弥の耳に聞こえた。
綿津見が報告する。
「格納庫までの通路以外の隔壁を閉鎖しました」
「冴島さんと夜叉の状況を知らせなさい」
「夜叉様は予測交戦位置からほとんど動いていません。現在、仙鷹と戦闘中です。夕霧がそばにいますが、負傷しているようです」
「冴島さんは?」
「現在、翻訳機の座標確認と、超小型ドローンを使って森の中を検索中です。」
指揮官のように指示を出し始めた加多弥に言葉をかけることができず、阿修羅と琥珀は顔を見合わせた。
「阿修羅、早く行きなさい」
こうなると、護衛の言うことなど聞かないというのは、阿修羅と琥珀もわかっていた。
琥珀が阿修羅に対して目配せをすると、阿修羅は何も言わずに頷いた。
阿修羅が加多弥に頭を下げて部屋を出ていこうとした。
その時、綿津見が冷静ながらも少し大きい声で、冴島の状況を知らせた。
「冴島さんが、背後から石巌の魔術攻撃を受けて負傷しました!」
*
冴島は愛梨を置いて一人で穴から出てくると,周囲を見回した。少し霧は薄れているものの、この周囲はまだ術の効果がなくなっていなかった。
「まだ、大丈夫だな……」
術をかけた冴島だけが霧の効果外にいることができる。冴島は帝の門の方角を視認すると、その場から急いで立ち去るために走り出した。霧が消えてしまってから探知魔術を使われると、愛梨の存在に気づかれる可能性があるからだ。
帝の門に近づけば、連中と遭遇するだろう。そうすれば、探知魔術は使われず、自分にターゲットが向くはずだと考えた。結果的に、空間接続のゲート生成の時間を稼ぐことができ、愛梨は逃げやすくなる。
斜面を登りながら、冴島は自分がどのぐらいの時間、地下の穴にいたのか考えた。連中は、すでに帝の門の周囲で待ち構えているのだろうか。それとも斜面を登っている途中なのか。
気休め程度にしかならないかもしれなかったが、冴島は戦闘服の防壁機能のスイッチを入れた。疲労度を考えると、自分で術をかけて防壁を張る余裕はあまりなさそうだったからだ。
一級化外剣闘士を狙撃されたとはいえ、連中に明確な目的がある以上、元の配置に急いで戻るのが普通だろうと冴島は考えた。恨みで、自分を探してうろついている可能性は低い。となれば、あの二人は自分の前方にいるはずだと冴島は思った。
龍脈孔に余裕があれば、探知魔法で周囲の状況を確認していたはずだったが、冴島は自分が逃げるための法力を確保するためにそれを怠った。
突然、後方で大きな音がすると、音が自分に迫ってくることに気が付いた。
後方の広範囲の木々が一斉に倒れ始めた。それが冴島に向かってくる。
突然、左腕と背中に激痛が走った。
戦闘服の魔術防壁など存在していないかのような風の斬撃だった。左肘の少し上ぐらいから腕が切断され、地面に重い音を立てて落ちて転がった。
二人いる化外剣闘士のうちの一人は無効化している。もう一人は夜叉が戦闘中のはずだった。とすれば、攻撃してきたのは魔術師しかいない。
幹の根本や下部を切断された木が次々に倒れ、周囲の見晴らしが良くなっていた。
背後の遠距離から魔術で攻撃されて腕を切断されたと認識した冴島は、魔法で痛覚の遮断と止血をした。今、腕の再生をする必要はない。龍脈孔の疲労を最小限に抑えることを優先する。完全な治癒は戦域から脱出してからで良いのだ。
背中がズキズキと痛んだ。風の刃を飛ばす魔術で腕だけでなく、背中も負傷しているようだった。背中の傷を治癒しながら、別意識で攻撃してきた相手を目で探した。
なだらかな斜面部分の下の方に、さっき見た男の一人が立っていた。ブリーフィング時の映像を思い浮かべる。中級魔術師の石巌という男で、土系と風系の魔術が得意という記述があった。石巌の魔術によって発せられた多数の風の刃が、冴島を攻撃したのだ。
別行動をとったのか、もう一人の村雨という魔術師は見当たらなかった。
冴島は反撃をせずに、方向転換をして斜面を駆け降りた。足元が不安定な場所だけに、左肘から先がないだけで走りづらかった。
魔法防壁を展開し、反転して龍髭刀での接近戦をするか冴島は悩んだ。だが、石巌とは距離が離れている。なんといっても、愛梨が隠れている場所に近いところで戦いたくなかった。
いつの間にか、蒙霧幽囚の霧は消え去っていた。
……もう愛梨は逃げただろうか
そう思った時に、上空から綿津見が操縦している攻撃型ドローンが、石巌に対して魔術攻撃と弾丸による攻撃を開始した。だが、石巌の魔術防壁に対しては何の効果もなかった。
ドローンの攻撃が開始されたということは、愛梨が綿津見と会話ができたということだった。もう、愛梨はゲートを使って脱出しているはずだ。
そう思った冴島は、転移魔法を使って仁徳天皇陵の周囲に一時的に退避しようとした。疲弊した龍脈孔から法力を捻り出そうとする。
その時だった。
「湊さん! もうゲートが開きます!」
愛梨が、見晴らしが良くなった広場のようなところに飛び出してきた。
冴島は娘の予想外の行動に瞬間絶句した。
……なぜ、こんなところにお前がいるんだ……逃げたんじゃないのか……
「こっちにくるな! 俺は死んでも構わない。お前だけ逃げろ!」
湊大地を演じている余裕はなかった。娘だけは、なんとしても助けなければならない。父親としての本心だった。それだけだった。
愛梨は、湊大地が負傷していることに気がついた。自分が彼を守らなければ、と愛梨は思った。
伊吹のためなのか、大地が自分を何度も守ってくれたからなのか。理由は自分でも判然としなかった。
「お願い、湊さんを守って……」
愛梨の周囲から、石巌に向けて凄まじい風の刃が吹き荒れた。魔術防壁を前方にのみ展開していた石巌は、突然現れた女から攻撃を受けるとは思わなかった。急いで魔術防壁を制御して、突然現れた女の方向に移動させた。だが、全ての攻撃を防ぐことができなかった。
魔術防壁をくぐり抜けた細かい風の刃が、杖を持っていない石巌の左腕をズタズタに引き裂いた。
「ぐぅあー!」
石巌が大声で叫び、怯んだのを冴島は見逃さなかった。
炎や雷は天皇陵を燃やすだけでなく、炎が愛梨を巻き込むかもしれない。冴島は加減をしながら、水系の魔法である、氷の奔流を放った。
触れたものを瞬時に凍てつかせる、絶対零度に近い冷気が石巌に迫った。
突然、石巌の前に、上昇する滝に似た大量の水が巻き上がった。
冴島の放った氷魔法は、その水の壁を瞬時に凍らせたが、石巌には届かなかった。
氷の奔流はそのまま直進すると、木々と地面を凍らせながら仁徳天皇陵の堀を越え、通過した堀の水を凍らせた。そして、源右衛門山古墳をかすめると、周辺を走る南海高野線の三国ヶ丘駅を越して行った。通り過ぎた場所は完全に凍りつき、氷に覆われた。
仁徳天皇陵の前方部分から延びる、7、800メートルに渡る氷の回廊のようだった。
「なんという威力だ……だが、魔術で法術を防ぐことはできるのだな」
帝の門に向かったはずだった村雨が、自身が使える最高位階の水魔術で石巌を守ったのだ。
その村雨は、愛梨の斜め後方に姿を現した。
突然現れた男に驚いた愛梨は、男から逃げるように冴島に向かって走った。
自分から逃げるように走り去る女を見て、村雨は言った。
「あの女は、地上の精霊使いなのか……」
石巌を守って凍った氷の壁が破壊音と共に崩れ去ると、岩の巨大な円錐状の槍が飛び出してきた。
その岩の槍は走る愛梨に襲いかかった。
石巌は、ズタズタになって血を噴き出している左腕の痛みに、我を忘れそうになっていた。
自分を攻撃した奴らを絶対殺してやるという怨嗟の念を込めて、石巌は中級魔術師が使える最強の、戊位階の土系魔術で目の前の氷の壁を破壊した。そして、痛みに耐えながら、岩の槍の矛先を自分を攻撃してきた相手に向けた。
愛梨に向かって巨大な岩の槍が迫った。
逃げる女の背後に黒くて丸い物が突然現れた。頭部に4本の小さな角が生え、背中に4枚の翼、太くて長い尻尾が生えたその体型は、全体的に丸みを帯びている愛嬌のあるぬいぐるみのようだった。
愛梨の背後に現れたそれは、伊予二名国の国獣である聖獣黒龍だった。
幼生体の黒龍は、迫ってくる岩の槍に対して短い両前脚を向け、口を開けた。前脚の中心部分と口から稲妻のような閃光が迸ると、前面に向かって稲妻が噴き出された。その稲妻は途中で螺旋状に重なり合わさると、巨大な光線になって岩の槍に向けて突き進む。石巌の魔術による岩の槍は、黒龍によって全て撃ち落とされていた。
それを見た石巌は、今度こそはと、土系魔術で鉄の円錐を10本近く生成して愛梨に向かって発しようとした。負傷していない右手に持っていた杖の魔石の1つに、石巌は魔力を大量に注ぎ込んだ。
その様子を見ていた村雨は、石巌の魔術に対して反撃してきた黒龍の姿に衝撃を受け、立ち尽くしていた。
幼生体とはいえ、伊予二名国の国獣である黒龍を召喚して守護聖獣にするのは、国王である宿禰か加多弥ぐらいしか考えられなかった。
武尊にはそのような術を使える実力はない。消去法で考えれば、その術を行使したのは加多弥しかいないのである。そうなると、黒龍で守ろうとしているこの女は、加多弥にとって絶対に守護しなければならない人物ということになる。
石巌の魔術が発動する直前に、村雨は叫んだ。
「石巌、その精霊使いを攻撃するな!」
だが、石巌が反応する前に術が発動し、石巌の周囲に浮かんでいた鉄の円錐の一群が、愛梨目掛けてショットガンの弾のように飛んでいった。
石巌は村雨の叫び声に気づくと、声がした方に顔を向けた。
「あの女を攻撃するな、術を解除しろ!」
だが術を解除するには鉄の円錐は愛梨に近づきすぎていた。石巌は鉄の円錐の方向を左側に反らすように術を制御した。愛梨の背後で鉄の円錐は、左側に方向転換して木々を吹き飛ばし、地面に突き刺さった。
だが痛みで術の制御が完全ではなかったために、一番外周の1本の鉄の円錐は方向転換せずに直進した。
愛梨への衝突コースを突き進む。
黒龍の幼生体は防御壁を瞬時に展開したが、戊位階の強力な魔術は幼生体の防壁を容易に突破してしまった。ゾンビから身を守る程度の防御力と攻撃力があればよく、過剰反応で周囲を巻き込むことがないようにという配慮からの幼生体だった。成体の黒龍であれば防げただろう。だが幼生体では、戊位階の強力な魔術を防げるほどの力はなかった。
黒龍をかすめるようにして、岩の槍が、愛梨の背後から頸部をかすめて前方に飛んでいった。
冴島は、自分に向かって走ってくる愛梨を守ろうと、魔法防壁を張ろうとした。だが、石巌を攻撃した氷の魔法によって龍脈孔から大量の法力を引き出すことができなかった。
体細胞と脾臓に貯めておいた、予備の法力を使ういとまはなかった。
目の前で、愛梨の首の付け根が、丸くえぐれたようにして吹き飛んだ。細かな肉片と大量の血が吹き飛ぶ様は、スローモーションの映像のようだった。自分に向かって走り寄ってくる脚に力が入らなくなったのか、愛梨は足を取られるようにしながら前進してくる。ほとんど前方に倒れ込みそうだった。
「愛梨!」
冴島は絶叫した。娘が負った傷は、戦場での経験から致命傷であることはすぐにわかった。
その刹那、愛梨の頸部を吹き飛ばした岩の槍が、湊大地の肉体の胸の中心に突き刺さり、戦闘服背部の次元動力炉ごと突き破っていった。
心臓と胃が引きちぎられ、湊大地の肉体は大量の血を口から噴き出した。
そんなことに気付いてないかのように、冴島は近づいてくる娘を見つめ続けた。自分に近づいてくる娘の顔は、母親似だと思っていたが、二重のハッキリした大きな目は自分に似ていると、冴島は初めて気がついた。
自分を見つめているその目から、光が失われていくのがわかった。
眼前で起きていることは、通常であれば理性を保っていられないほどの衝撃だろう。だが、自分には治癒魔法がある。
冴島は、目の前に傷つき倒れてくる愛梨を無事な右手で受けとめると、肉体に蓄えた法力を使って治癒魔法を愛梨にかけた。
自分の、いや、大地の肉体の損傷は放置してだ。
動物は、心臓を破壊されても10秒程度なら意識はあり、少しは動くことが可能である。猟師に心臓を撃ち抜かれても、10秒ほどなら熊などの猛獣は反撃してくる。人間も心臓が突然止まっても、同程度の時間意識があるということである。冴島はそのことを知っていた。
その短い時間で愛梨の傷を治すことができれば、助けることができるかもしれない。
冴島は薄れていく意識と血液の循環が止まって苦しくなっていくのを自覚しながら、必死に意識を保って治癒術を制御した。
湊大地に身体を返すと約束しておきながら、娘の命を優先する。自らのていたらくに慚愧の念に堪えなかった。
血の跳ねた娘の顔を見ると、目はすでに閉じられていた。娘を助けられないことを冴島は悟った。
……俺にとっては、娘を抱きしめたまま死ぬというのは、褒美みたいなものかもしれないな。大地くんには悪いことをしてしまった……
冴島は、疲弊しきった龍脈孔と脾臓から法力を絞り出し、切断された左腕を修復しようとした。だが、意識が遠のき、手首までしか修復できなかった。
でも、それで充分だった。さっきよりも娘を強く抱きしめることができるからだ。
……巌に怒られるだろうな。娘を守るために、俺の命をくれてやったのにって……
愛梨を抱きしめる腕に力を込めた直後に、冴島の意識は黒より暗く深い闇に沈んでいった。




