第37話 エゴ
上半身を起こしてベッドに腰かけ、ヒダカはぐるりと右腕を回す。痛みはない。皮膚が僅かに引っ張られるような違和感が残っている気もするが、ほとんど普段通りに動く。筋力が落ちないよう、密かに続けていたトレーニングの効果も出ているのだろう。
レイジャーに頼んでいた、新しい装備も準備ができた。タイクウと別れてから、そろそろ一ヶ月が経つ。
結局、どれだけ調べてもタイクウがいつどこに降り立つかは分からずじまいだった。ココに動きがないので、まだ手遅れではないはず。
壁に設置された時計は、午前四時半を指している。運び屋をしていた時と同じミリタリージャケットに腕を通すと、ヒダカは部屋を出た。
真っ白な廊下は、足下に設置された常夜灯の光で白くぼんやりと照らされている。ヒダカは記憶を頼りに、足を進めていった。
「こんな早朝に、どこへ行くつもりだ?」
心臓が飛び出るかと思った。弾かれたように振り返ると、ダークスーツに身を包んだ兄、松風時雨が立っていた。
早朝にも関わらず身だしなみには隙が無い。眼鏡のレンズの奥から冷ややかな色をした瞳が覗く。まるでよくできた人形のように、整然とそこに立っていた。
「裏でこそこそと何か企んでいるようだな。怪我が治ったばかりなのだから大人しくしていろ。迷惑だ」
「『迷惑』ねぇ。少なくとも、アンタに迷惑をかけた覚えはねぇよ」
苛立ちを抑え、ヒダカは時雨と向き合う。こんな廊下で会うとは思わなかったが、手間が省けた。元々ヒダカは、こんな早朝でしか捕まえられない時雨に会いに行こうと思っていたのだから。
僅かな明りが、時雨の顔を照らす。真っ白い顔からは、何の感情も見出だせなかった。
「どうせ、天野大空のことだろう? 往生際が悪い。こんなことになった今、お前にできることなどなにもない。分かったら、早く部屋に戻れ」
棘のような言葉が、ヒダカの胸を突き刺していく。苛立ちをグッと堪えて、ヒダカは時雨に深々と頭を下げた。
「それでも、頼む。タイクウがいつ、どこに降りてくるかを教えてくれ。アイツが研究施設に入る前に、もう一度会って話がしたい」
薄暗い静寂の中、時雨のため息が長く深く響いた。
「全く、どこからその話を……。話だけで済むわけがないと分かっていて、教えられるわけがないだろう」
淡々と告げた時雨は、数歩ヒダカに近寄ってきた。頭を下げたままのヒダカの視界に、時雨の靴のつま先が映る。
「万が一、正気を失って暴走を始めたら、かつて起こった事故のように大勢の人間が犠牲になる。既にあの者には暴走の兆候が出ているとも聞いている。そんな危険な存在を野放しにするわけにはいかない」
「――っ、アイツは、ちゃんと元に戻っただろうが! それに事故があったって言うけどよ、どうせソイツらが変身してからの話だろ。人の姿をとっている時に正気を失って、暴走したわけじゃねぇ。そうだろ?」
ヒダカが顔を上げると、時雨は表情を崩さず無言を貫いていた。しかし、否定しないと言うことは、この情報は正しいのだろう。
ヒダカは少しだけ肩の力を抜く。
「だったらアイツを、変身させなきゃいいだけの話だ。現状、変身が必要なのは帰り道……と後は飯の時くらいか? でも、それだけだろ。だったらどうにでもなる。前みたいに、俺がアイツを止めればいい」
「アイツの危険性を身をもって経験していながら、よくそんなことが言えたな。これ以上の会話は無意味だ、諦めろ」
あっさりと踵を返した時雨の背中に、ヒダカは拳を強く握って憤りをぶつける。
「俺は! ここでアイツを諦めたら一生自分を許せねぇ! そんな後悔をするくらいなら、死んだ方がマシなんだよ!」
「下らん意地で『死んだ方がマシ』などと口にするな。お前の軽率な行動が、最悪の事態を引き起こす可能性がある。そんなもの認められるわけがない。大体、研究所行きは天野大空本人の意思だ。彼を引き止めるのは、ただのお前のエゴだろう?」
背を向けたまま、時雨は暗い廊下を歩き出す。
時雨の言い分はもっともだ。もっともだとは理解していたが、それでもヒダカはタイクウのことを諦めたくなかった。
駄々をこねるように首を横に振って、ヒダカは泣き声にも似た叫び声を上げた。
「それがエゴだろうが構わねぇよ! アイツを化け物に変えたのは俺で、アイツが今の状況になったのも俺のせいだ! だから俺は最後までアイツに付き合うって決めてんだよ! 研究所で自由を奪われることがアイツの意思だって? ンなこと、周りのためとかなんとか言って諦めてるだけだろうが!?」
ありとあらゆる可能性を考えれば、ここでタイクウを諦めるのが賢い選択なのだろう。それでもヒダカには、これが最良の選択だとは思えなかった。
思いたくなかった。
「何があっても、俺たちのことは放っておいてくれていい。どうしても無理だっつーなら、運び屋の仕事は辞めてもいい。それでも万が一の時は、俺がアイツを――どんな手段を使ったって止める。だから」
「何度も言わせるな。駄目なものは駄目だ」
プツンと細い糸が切れたような音がした。頭に血が上って、目頭が燃えた様に熱くなる。
ヒダカは思わず駆け出して、時雨の肩を掴み無理矢理自分の方へ振り向かせた。
「何が、何がそんなに駄目なんだよ⁉ アンタは何がそんなに気に食わねぇんだ⁉ タイクウの意思は尊重するくせに、どうして――俺の意思は尊重してくれねぇんだよ!?」
頼むことしかできない自分が情けなくて、時雨に気持ちが届かないことが悔しくて悲しくて。
ヒダカはただ怒りのままに、時雨の肩を揺さぶった。
「俺がどうなろうが、アンタには一切、なんの関係もねぇだろうが⁉︎」
「関係――ないわけがないだろう!?」
突如の怒号に、叱られたようにヒダカの肩が跳ねる。自分を見下ろす時雨の顔が泣き出しそうなほど歪んでいて、ヒダカは不意を突かれその表情に見入ってしまう。
「お前は! 私の弟だぞ⁉︎ せめてお前は自由であれと幸せであれと願った、たった一人の私の弟だ! ただの赤の他人とお前の命と、私がどちらを優先するかなど、そんなもの分かりきっていることだろう⁉︎」
「は――」
「それなのに、お前は『死んだ方がマシ』だと? それなら私の気持ちはどうなる⁉ 私がそれを許したことで万が一お前が犠牲になったら、私がそれを悔やまないとでも思うのか⁉ はっきり言うぞ、私は誰よりもお前を犠牲にしたくないから、認められないと言っているんだ!」
気がつけば、ヒダカは時雨に両肩を掴まれていた。肩で息をしながら、時雨が燃えるような瞳で自分を見下ろしている。兄が、ここまで声を荒らげて感情を露にしたことなど、見たことがない。
ヒダカは俯き、時雨から視線を外した。
「ん、だよ……。早く言えよ、そう言うことは」
喉に何かがつっかえて、上手く喋ることができない。両目を強くつむって、ヒダカは軽く首を振った。
「違う、な。本当は、分かってたんだ。アンタがやってくれたことも、その意味も」
僅かに視線を上げると、泣き出しそうにも見える時雨と目が合った。時雨の目の下には、薄っすらと隈ができている。肩を掴む手はやけに骨ばっていて、時雨の体は記憶よりも痩せていた。
とっくに分かっていたのだ。家に縛られずヒダカが自由に夢を追いかけられたのは、時雨が兄として全てを背負ってくれたから。
運び屋の仕事ができるのも、時雨たちが必要なものを全て用意してくれたからだ。
「とっくに、気づいてんだよ。どうしたって俺は弱くて、一人じゃなんにもできねぇヤツだってことは」
タイクウはヒダカに助けてもらったのだと言った。でも違う。タイクウの手を引くことで、自分もなんとか前に進んでいた。彼の前で顔を上げて強がって笑って、強くなったような気がしていただけだ。
前の向き方や顔の上げ方なんて、そんなものヒダカは教えてない。
教えてもらっていたのはむしろ、自分の方だ。
「ガキの頃も、降下作戦の時も、俺はずっとタイクウに救われてきた。自由に生きられたのだって運び屋の仕事だって、全部アンタから、アンタたちから与えられたもんだ。分かってんだよ。俺はずっと――誰かに救われて守られてきたからここにいるんだってことは」
安心したように、時雨の手のひらから力が抜けていく。ヒダカは引き止めるように、兄の片手を掴んだ。
「けど、それでも俺はタイクウを追いかけたい」




