婚約破棄されたけど、国王陛下が倒れた隙に逃げ出しました
「ナンテコッタ国王陛下、本日はお招きいただきありがとうございます」
私は恭しく淑女の礼を執り、深々と頭を下げた。
顔を上げて近くに見る陛下のお顔はどこか上気したように赤く、下腹部に手を添えて、体勢が少しばかり前屈みになっている。
「失礼ですが陛下、もしやお体の具合がよろしくないのでは」
私の指摘を払拭したいのか、陛下は見せつけるみたいにグラスを傾け、中に入っていた赤黒い葡萄酒を一気に飲み干した。
傍らに待機している給仕が空いたグラスを回収して、すぐにまた新しいものを陛下に渡す。
「心配無用だカノン嬢。見ての通りむしろ普段より元気なくらいだ」
それはそうだろう。なにせその酒は私が用意したのだし、とある薬を入れてあるのだから。効果が確認できたので私も満足である。
「たしかにいい飲みっぷりですわね」
「孫の顔を見るまでは現役を退くつもりはないのでな」
「まあ。ご期待に添えるよう尽力いたします」
などと短いやりとりを交わし、「それではごきげんよう」再び淑女の礼を執って壇上をあとにする。陛下へのご挨拶は私だけではなく、後ろも控えているのであまり長話はできないし、時間があったとしてもするべきではないだろう。殿下に見つかって下手な勘繰りをされては面倒だ。
さて、今日のパーティーの主賓たるその殿下はと言えば、何やら傍らに美しい女性を侍らせて、取り巻きたちとご歓談の様子だった。
私はドレスのせいでおぼつかない足元に注意しながら階段を下り、わざとらしく踵を鳴らして殿下のもとへと近付いていく。
知ってか知らずか、私に気付いた者たちが道をあけてくれたため、人垣でできた一本道の先にいる殿下がこちらを向いた。
「ごきげんよう殿下。この度は王太子のご親任おめでとうございます」
私はまた陛下にした時と同じく、この国での最上級の礼でもって挨拶をする。婚約者に対する礼の執り方としてはいささか仰々しいが、次期国王となる殿下にしてみれば、むしろ気分を良くしてくれることだろう。
といっても今日は貴族や商人に向けたお披露目であり、王太子への就任は明日なので、正式にはまだ第一王子という立場でしかないのだが。
「それで、そちらの女性はどなたかしら」
一枚のヴェールのように艶やかな黒い髪に、長く伸びた睫毛と禍月のごとくに妖しく光る大きくて赤い瞳、私よりも少しだけ高い身長に、不釣り合いなほど豊満な肉体美は娼婦かはたまた魔女か、殿下の好みど真ん中の女性であった。
それなりに顔の広い方だと自負している私ですが、このような美しい女性は見たことも聞いたこともない。
非難するように鋭い視線を送ると、殿下は得意気に鼻をならし、顎をしゃくり上げてそれと分かるほどにはっきりと私を見下した。
「ちょうどいい。皆にも紹介しよう」
両腕を広げ、よく通る大きな声で喧伝する。
その声が耳に届いた者たちは何事かと会話を止め、急に静かになったことで聞こえなかった者たちでさえ耳を澄ませた。
「我アクジバーレルは、王太子就任に基づきここに宣言する」
さっきまでは誰も彼もが会話に花を咲かせていたというのに、会場は殿下の次の言葉を待つようにぴたりと時を止め、静寂に興じていた。
「このポット・ディノ・ダレナンデス伯爵令嬢を我が妻とし、同時に、カノン・アポクリファ男爵令嬢との婚約を破棄する」
殿下の言葉がたしかな衝撃を伴って波紋を生み、周囲の人々の隙間を通って会場全体へと波及した。
はじめは「おお」とか「ほう」とか短い感嘆が新たな波紋となり、感化された者たちがまばらに拍手を打ち、祝いの雰囲気がそこかしこに伝播していく。
一応は周囲に合わせて祝賀の空気に溶け込んでいるが、その表情はどこか探り探りに、いつでも転身できるよう注意深く気を張っている者たちもちらほら見える。
そうした幾人かは、あるいはもっと多くの者たちは疑問に思ったはずだ。
本当に祝っていいことなのか、と。
貴族間の婚約とは御家同士の取り決めであり、当人同士の意向で覆るようなものではない。それが王家との婚姻ともなれば、例え王子と言えどそう簡単に破棄することはできないはずだ。
また破棄するにしても場所が悪かった。今は明日に控えた第一王子殿下の立太式を祝うためのこの晩餐会である。
そのような場所で、あろうことか私を辱めるだけでなく、国王陛下の、引いては王家への権威へ泥を塗るような行為は、到底、容認され得るものではない。
その他大勢の者たちの胸中を代弁するならば、きっと、「そういうのは内々で処理して結果だけを教えてくれ」だろう。
だが、誰もそれを口に出したり、疑問を投げかけることはしない。
否、できないのだ。
殿下がこのような場で大仰に、高らかに、婚約破棄を宣言したのだから、当然、国王陛下や私が了承してのことだろうと考える。
加えて、他者の婚姻に、まして王家のそれに異を唱える権限などは持ち合わせておらず、面倒ごとに自ら首を突っ込む物好きもいない。
つまるところ、もはやこの流れは生半可なものでは止められなかった。
ちらりと国王陛下の方を振り返ってみれば、唖然とした表情から徐々に怒り心頭といった具合に変遷している最中であった。
もしこのまま陛下が間違いであると正せば、この場の全員から殿下への信用や信頼が底値を叩くことだろう。そうなれば王家としての威厳も目減りする。なにせ殿下は次期国王なのだから。
陛下は動きたくとも動けない。なればこそ、私が動くしかない。
「殿下。質問をお許しください」
私は一歩踏み出し、殿下の瞳の奥にこれでもかと私を映し出させた。
はてさて舞台俳優ばりの威勢はどこへやら、軍務教官に叱られた時みたいに、反射的に背筋を伸ばした殿下は、それを誤魔化すみたいに咳ばらいをした。
「よ、よかろう許可する」
「寛大な御心に感謝を。してそちらのダレナンデス伯爵令嬢ですが、浅学無知の私にはそのようなご令嬢がいたとは記憶にございません。いったいどのような方なのでしょうか。それと、このことは国王陛下もご了承のことなのでしょうか」
「当然の疑問だな。貴様にしてはいつもの張りがないのは興覚めだが、仕方がない。答えてやろうではないか」
殿下は尊大に語り出したのだが、どれもこれもまるで要領を得ない。
出会いはよく晴れた日の豊穣の風が芽吹きの到来を告げるがごとくだとか、一目見ただけで古より結ばれた運命の伴侶だとか、一晩では語るるに足りず一夜を共にし我らは初めて愛を知ったとか、その他にもなんとかかんとか、回り道や蛇足が多すぎる。
殿下でなければ酔っぱらいの世迷い事と切って捨てるところだ。
証言をまとめると次のようになる。
公務にて伯爵領の視察に訪れた殿下は、そこのご令嬢に一目ぼれしてしまい、夕食後にひっそりとその令嬢の部屋へと赴き、そのまま致してしまった。
未婚の純潔を散らしたとあっては男として責任を取らねばなるまい。
女を知り、快楽とついでに幻に近い愛とやらに溺れた殿下は、こうして娶ることを決意したというわけだ。
ちなみに国王陛下には今この場をもって初めて報告したらしい。
この程度のことを説明するために、新興宗教の布教師のように長々と大真面目に語れるのだから、それはそれで才能だろうか。
……というか、だ。
「それは私との婚約を破棄する理由になっていないのではなくて?」
これにはどう答える? 義理だ責任だと口にして、舌の根も乾かぬうちにどのような言い訳が通用するのか、見せてもらおうじゃないか。
「決まっているだろう」
殿下は焦る素振りを一切見せず、待ってましたと言わんばかりに余裕綽々と、気味の悪い薄ら笑いを浮かべた。
「貴様の数々の悪事、不正、犯罪の証拠を見つけてしまったからだ!」
周囲に起きたどよめきは婚約破棄宣言の比ではなかった。
たったそれだけで立場は一転し、疑義の目が私を射抜く。
「貴様の優秀さは多くが認めているところだが、このアクジバーレルにはどんな悪事も必ずバレてしまうのだよ。
さすがに犯罪者となった、おっとまだ推定無罪というやつだが、そのような嫌疑が掛けられたとあっては、婚姻などできようはずもなかろう。
ゆえに、貴様との婚約は破棄させてもらうぞカノン嬢」
なるほど、殿下の本命はこちらだったかと感心しつつ、どう言い訳したものかと頭を巡らした。この場を知らぬ存ぜぬで切り抜けるのは容易いが、嘘が捲れた時が面倒だ。なにせここには、証人となる大勢が私の言葉の一言一句を逃すまいと聞き耳を立てている。
しかしこのまま沈黙していることも殿下の証言を認めたことになり兼ねない。
ひとまず否定しようと口を開いたのと、ダン! 後方から何かを激しく叩く音が聞こえてきたのはほとんど同時だった。
皆が一様に振り返る。音の主は国王陛下であった。
法廷で木槌を打ったみたいに静まり返った会場が、今度は陛下の一挙手一投足に固唾を呑んでいる。
「黙って聞いておればアクジバーレル第一王子よ」
椅子から立ち上がっただけで溢れる威厳に目を奪われ、決して大きくない声量でも聞く者の心を震わせるその覇気に、意識していなければ自然と膝を折って頭を垂れていたことだろう。
これが、これこそが、我らのナンテコッタ国王陛下である。
「まったくなんということだ。このような場で、王家に、祖先に泥を塗りおって」
陛下は珍しく怒りを露にして、壇上を下りるべく階段の一段目に足を置いた。
あっ、と言う間にそれは起こった。
足がもつれた陛下はバランスを崩し、飛び降りるように頭から落ちたのだ。
近くで空砲が鳴らされたのと同じくらいの音と衝撃が駆け抜け、わずかに地面が揺れる。唖然として誰も動けなかった。
陛下はぴくりとも動かない。一早く我に返ったらしい陛下の側近が動いてようやく、金縛りが解けたみたいに皆の時も動き出す。
ややもすれば会場は騒然となり、もはや婚約破棄など些事であった。
今こそ千載一遇の好機とみた。
私は息を潜めてこっそりと扉の方へ移動し、そそくさと会場をあとにする。
あのままあの場にいても、私を糾弾する見世物が再上映されるだけだ。それならいっそ逃げてしまい、ほとぼりが冷めるのを待った方がいい。
さて、そうとなれば潜伏場所を決めないといけないが。
そうだ、あそこに行こう。
私は堂々と城を出て、城下の夜闇の中に溶け入った。
ダレナンデスの出番はおしまい。




