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第21話

地響きと共に噴き上がった黒煙を、俺は懐から取り出した調合粉末で手早く散らした。乾燥させた特定の草と粉砕した鉱石の匂いが混ざり合い、這い寄ろうとしていた害虫の群れが嫌悪感を示すように壁の裂け目へと退いていく。


「……すげえな、本当に魔物が寄ってこねえ」


後ろで誰かが掠れた声で呟いたが、俺は振り返りもせずに歩調を維持した。


かつて俺が通路の隅で苔を剥ぎ、小石を拾い集めていた時、あいつらはそれを鼻で笑った。『後ろでゴミ拾いしかできない臆病者』だと嘲笑していた連中が、今はその粉末の煙に縋り付くようにして列を成している。無駄な行動など一つもなかったと理解したところで、失われた時間も体力も戻ってはこない。


「立ち止まるな。石段の崩落箇所を越えた。ここから先は中層の境界領域だ」


俺は短く告げ、通路の傾斜を測る。最深部特有の凍てつく空気は薄れ、代わりに生ぬるい湿気が肌にまとわりついてきた。呼吸はずいぶんと楽になったはずだが、背後から聞こえる足音は引きずるように重い。


ガルドは折れた武具の柄を杖代わりにし、肩で荒い息を繰り返していた。かつての威圧感は見る影もなく、泥と煤にまみれた姿はただの敗残兵そのものだ。その後ろでは、ミレーヌがふらつく足取りで壁に手をつき、ギルバードが黙々とその背中を支えている。


「おい、アレン……少し、休ませろ……。もう足が動かねえ……」


ガルドが掠れた喉から絞り出すように言った。かつての傲慢な命令口調とは程遠い、ただの懇願だった。


「却下だ。ここで足を止めれば筋肉が硬直し、二度と立ち上がれなくなる。次の安全地帯まであと三百歩ある。そこまでは何があっても歩け」


「だがよ、本当に限界なんだ! お前、俺たちを殺す気か!」


「殺す気なら最初から救出など引き受けていない。あんたたちを生きて地上へ連れ帰るのが俺の仕事だ。顧客が途中でくたばれば報酬が減額される。だから指示に従え」


感情を一切交えずに返すと、ガルドは悔しそうに顔を歪めたが、それ以上は何も言えずに重い足を踏み出した。言葉でねじ伏せる必要はない。迷宮において、誰の判断が生存に直結しているのかは、今の状況が何よりも雄弁に物語っていた。


予定通り三百歩を進んだ先で、岩壁がドーム状に窪んだ小部屋に到達した。風通しがよく、頭上からの落石の危険がない場所だ。俺は周囲の安全を確認し、手斧で壁の苔を軽く削って変色がないことを確かめた。


「ここで十五分だけ休息を取る。各自、支給した塩分入りの水を一口ずつ飲め。一気に飲むと胃を痛めるぞ」


合図を出した瞬間、ガルドはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。他の者たちも力尽きたように壁へ寄りかかる。俺は立ったまま背嚢から携帯食を取り出し、必要最低限の栄養を機械的に口へ運んだ。


静まり返った空間に、微かな水音と荒い呼吸だけが響く。


しばらくして、躊躇うような気配と共に、ミレーヌが身を起こした。泥で汚れたローブの裾を握りしめ、濡れた瞳で俺を見上げてくる。


「……アレン、あのね……」


震える声だった。


「私、ずっと後悔してたの。あなたがどれだけ私たちのことを考えて動いてくれていたのか、いなくなって初めて分かった。あの時は……ガルドの言うことに逆らえなくて、あなたを追い出すようなことになって……本当に、ごめんなさい」


涙を滲ませた謝罪。かつての仲間としての情に訴えかけるような視線だった。


だが、俺の胸に波風は立たなかった。


「謝罪は無用だ」


淡々と告げると、ミレーヌは弾かれたように瞬きをした。


「俺とあんたたちの関係は、あの通路で決裂した時点で完全に終わっている。今ここにあるのは、依頼主から対価を受け取って遭難者を回収する業者と、その顧客という関係だけだ。そこに過去の反省や感情が入り込む余地はない」


「そんな……でも、私たちは……!」


「契約書を交わしたはずだ。命を買い戻すための対価をな。俺はビジネスとしてあんたたちを地上へ運んでいるに過ぎない。余計な感傷で集中力を切らすな。足元が狂えば死ぬのはあんたたちだ」


ミレーヌは言葉を失い、青ざめた顔で視線を落とした。彼女の隣で、ギルバードが重苦しく息を吐き出す。


「……すまねえ、アレン。お前の言う通りだ。俺たちはただの無様な遭難者で、お前はプロの案内人だ。過去の甘えを持ち込もうとした俺たちが浅ましかった」


ギルバードは拳を膝の上で握り締め、深く頭を下げた。かつて俺の忠告を無視し、力押しで進むことを選んだ前衛の男。その横顔には、取り返しのつかない過ちを犯した者特有の冷え切った諦念が張り付いていた。


ガルドだけは顔を背け、忌々しそうに爪を噛んでいたが、もはや反論するだけの気力も言葉も持ち合わせていなかった。暴力も階級も、この過酷な地下空間では何の通貨にもならないことを、骨の髄まで叩き込まれたのだ。


「十五分経過した。出発する」


俺は即座に立ち上がり、荷物をまとめ直した。感傷に浸る時間など、この迷宮には一秒たりとも存在しない。


◆ーーーー◆


地上の事務所では、書類をめくる乾いた音だけが規則正しく響いていた。


リゼは机の上に積み上がった羊皮紙の束を、鋭い眼差しで検分していた。彼女の手元にあるのは、裏社会の情報網から買い取った極秘記録と、監査官が関与した不正な金銭の流れを示す帳簿の写しだった。


「……これで、すべての辻褄が合いましたね」


リゼは冷徹な光を瞳に宿し、薄く唇をつり上げた。


ガルドたちの後ろ盾である有力貴族が、どれほどギルドの内部規定を歪め、便宜を図らせていたか。その動かぬ証拠が手元に揃っている。救助されたガルドたちが地上に戻った瞬間、彼らはただの没落者として法的な義務を負うだけでなく、支援者諸共あらゆる特権を剥奪されることになる。


「リゼさん、受け入れの準備、全部整ったよ!」


部屋の扉が開き、事務所の仲間たちが駆け込んできた。毛布や応急手当用の薬湯、そしてギルドの公認執行官を立ち会わせるための手続き書類も完璧に揃えられている。


「ご苦労様です。アレンさんが戻られ次第、即座に手続きを開始します。一切の逃げ道を残さず、契約通りにすべてを回収しましょう」


リゼは丁寧に書類を揃え、封筒へと収めた。


感情で救うのではない。アレンの技術と命がけの仕事を、正当な対価へと変換する。それが自分の役割であり、彼が切り開いた道を地上で守るための戦いだった。


窓の外を見上げると、迷宮の入り口へと続く大通りの先に、微かなざわめきが広がり始めていた。


◆ーーーー◆


「上層への連絡通路だ。足元に注意しろ」


俺の指示に従い、一行は狭い岩肌をよじ登った。中層を抜け、魔物の気配が急速に薄れていくのが肌で分かる。壁の湿り気は消え、人工的に削られた石段が続いている。


ここまで来れば、突発的な生態系の変化による奇襲を受けるリスクはほぼゼロに近い。


背後を振り返ると、ガルドたちはもはや声を出すこともできず、ただ機械的に手足を動かして俺の影を追っていた。かつての栄光も、周囲から持て囃された自尊心も、最深部の闇の中で完全に削ぎ落とされた抜け殻のような姿だ。


暗闇の向こうに、淡い光が差し込んできた。


迷宮の人工照明ではない。地上から降り注ぐ、本物の太陽の光だ。


「あ……光だ……」


ミレーヌが掠れた声で呟き、その場に膝をつきそうになった。


出口のゲートを警備する衛兵たちの姿が、逆光の中に浮かび上がってくる。長い遭難劇が、ようやく一つの区切りを迎えようとしていた。


だが、これは物語の終わりではない。むしろ、現実という名の請求書が突きつけられる、本当の始まりだった。


俺は立ち止まることなく、光の射す出口へと向かって最後の一歩を踏み出した。

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